第9話 無用なライフイベント
ただ平凡に、地味に真面目に生きていただけなのに、なぜか道場の天井を走るのが目標になってしまった。私の人生、いったいどうなっているんだろう。マイナスを突き抜けすぎていて、逆に本気で面白くなってきた。
本格的なトレーニングは明日からになり、不在の多い
母屋の階段をあがり、部屋に戻ってやっと息をつく。
それにしても、この世界は私の想像以上に広かったらしい。現実とは思えない現実に、けれど私は〝あり〟と思ってしまう。だって、ある日突然想像もしないような出来事が起きて、自分の人生がひっくり返ることだって〝あり〟えてしまう世界だからだ。
「……ダメだ。頭が働かなくなってきた」
混乱と緊張のしっぱなしで疲れてしまい、ほんの少し布団に横たわる。
「もうごちゃごちゃ考えるのやめよう。私のやれることはひとつだけだもの。それをやりぬくだけでいいことにしよう……」
目を閉じたとたん、だるさと睡魔に襲われて眠ってしまった。目覚めると夕方になっていて、せめて夕ご飯の支度を手伝おうと思い、慌てて一階におりる。すると、居間のローテーブルにおにぎりが置かれてあり、達筆なメモが添えられてあった。
これから少し全員出払います。美月のにぎったおにぎりをどうぞ。櫂
「……激務っぽい」
いままで教えられたことが怒涛のように脳内を駆け巡り、情報過多で倒れそうになる。とっさにおにぎりを両手にもち、食べることで思考を止めた。
私が考えたって彼らの仕事が減るわけではないし、世界が平和になるわけでもない。でも、せめて、ここの人たちが怪我をせず、命を狙われている人も無事でいて、悪い人がそれ相応の罰を受ける結果でありますようにと思う。
ふんわりとしたお米とほどよい塩加減、海苔とのバランスが絶妙なサケのおにぎり、おかか&チーズ、明太子をきれいに平らげてしまった。
「美月さんの女子力、ほんとすごい……」
空がだんだん暗くなっていく。それなのに、街灯や近所からの灯りがいっさい見えない。もう一度スマホのマップアプリを確認しようかと思ったものの、どのみちバイトに行くころにはわかるのだからと考えなおし、台所でお皿を洗った。
居候させてもらう間、せめて家事くらいは手伝いたい。そう思いながら居間を見わたし、塵ひとつ落ちていない清らかな空間に感嘆した。もしかして、掃除も美月さんが一人でおこなっているのだろうか。そうだとしたら、大変だ。
「この家、めちゃくちゃ広くない?」
ふいに興味がわき、探検してみることにした。
居間から廊下に出て、ピカピカの床板を踏みしめる。すみずみまで立派なお屋敷で、あらためて感心した。
一階の玄関を入ってすぐ、大きな階段がある。廊下を渡って台所と居間を過ぎると、洗面所と浴室。そこを右に曲がると、陽射しがたくさん入る内縁。その片側は障子扉の和室だ。無駄な物はいっさいなく、どこまでも掃除がいきとどいている。
母屋の奥まで行くと、離れにつながる廊下を見つけた。まるでアパートの通路のように、たくさんのドアが左右に並んでいる。気になるものの、無断で開けるわけにもいかず素通りし、離れに足を踏み入れた。すると、障子扉が細く開いていた。閉めようとした矢先、心電図と点滴、ベッドに横たわる人物が視界に飛び込み、思わず扉に手をかける。
病院じゃなくここにいたなんて、知らなかった。
「入院してると思ってた……」
思わずつぶやく。長いまつげを伏せた、世にも美しい寝顔。近くで見ると、儚げな女性らしい骨格のせいか、羽伊さんとの違いがよくわかる。
心電図は正常に動いているようだし、息もちゃんとしている。本当に、ただ眠っているだけみたい。安堵した一方、いっきに気持ちが引き締まった。
「
そう告げてから、そっと部屋を出る。
「……ダメだ。無理とか言ってる場合じゃない」
なにもしないでじっとしている時間が、もったいなく思えてきた。筋肉痛はまだ残っているけれど、腹筋とか腕立て伏せとか、なんでもいいからできることからやってみよう。
靴を履き、外に出る。月光に包まれながら、私は道場に向かった。
* * *
ライトのスイッチを探したものの、見あたらない。月明かりだけでもじゅうぶん見えるので、私は裸足で板床に立ち、あらためて天井を見あげた。
「……って、いやいやいやいや、ないでしょ」
あそこを走るとか、どう考えてもできるわけない……と決意が揺らがないうちに、とりあえず軽く身体を動かした。運動モードになると、自分の身体の変化が如実にわかる。丹田のあたりに熱が灯って、全身に血液がいきわたっていく鮮明な感覚があるからだ。
ゆるみきっていたはずの私の身体は、動かすたびに引き締まり、心地のいい痛みとともに分け御霊と同調をはじめていく。
ストレッチと筋トレの動画をスマホで流し、真似をする。そうしてから、梁に支えられた天井をふたたびあおぎ見た。
高さは七、八メートルくらいだろうか。あそこを走るには、いきおいをつけて壁からあがっていくしかないはずだ。
ふと、今朝の美月さんとのやりとりを思い出す。壁を駆けあがって宙返りができたのだから、少なくともそこまでは私にもできるはず。
「壁まで、試してみようかな」
窓を避けるルートを決めてから、髪を縛りなおして気合をいれた。
「よし。重力に逆らえ!」
床を踏みしめて軽く走りこみ、じゅじょに速力をつけていく。やがて全速で壁に向かい、駆けあがった――ものの、重力に引っ張られて着地する。
今朝と違って身体が重い。やっぱり自己流のトレーニングはよくないのかな。いや、もう一度だ。そうして何度か繰り返すも、壁の高さの半分も超えられない。
あと一度だけ試したら、母屋に戻ろう。
そう決めて息をととのえ、目を閉じる。深呼吸をしてからまぶたを開け、対角線上に走った。
身体が軽い。いける気がする。これ以上ないほどのいきおいをつけて走り、螺旋状に壁を駆けあがる。
あれ、いける? これいけるかも!
そう思ったとたん、なぜかありえないことをしている状況が冷静に押し寄せてきて、いまさら床までの高さに恐れおののく。
ぐちゃぐちゃとした思考と感情にのみこまれ、立ち止まりそうになった矢先――。
「――止まるな!」
袴姿で駆け寄る羽伊さんが視界に入った瞬間、壁から足が浮いて落下した。うわっ、と目を閉じたとき、力強い両腕に受け止められる。
安堵したような羽伊さんの息が耳元にかかり、恐縮した。
「誰に言われて、こんなことをしてたんですか!」
「す、すみません……!」
羽伊さんは息をきらせながら、私を床におろす。その場で正座した私は、肩を落とした。
「……だ、誰にもです。私の先走った自主トレと言いますか……」
「自主トレ?」
立ち膝になった羽伊さんは、険しい眼差しで私をのぞき込む。美しすぎる容姿が月明かりに照らされているせいか、怒りの気配も倍増して見えて心底恐ろしい。
天井を走ることができたら、分け御霊を取りだせる。櫂さんからそう教えられていてもたってもいられなかったと、うつむき加減で正直に伝えた。すると、羽伊さんは腰をあげて立ち、深く嘆息した。
「……昨日の今日です。無茶をするのはやめてください。あなたになにかあれば、分け御霊を取りだすどころではなくなるんです」
私は息をのむ。そのとおりだ。
「早くお戻ししたかったんです。でも……すみませんでした。もう、こんな無謀なチャレンジはやめます」
焦りのせいで、大事なことを忘れていた。私になにかあれば、砂己さんもさらに眠り続けることになるのだ。よかれと思って空回りしてしまった。
こういうことがあると、本当に落ち込んでしまう。もう一度謝罪し、息をつく。そうして立ちあがろうとしたとき、目の前に右手が差し出された。
「お気持ちは感謝します。でも、あなたは俺たちと違います。その違いを忘れてしまったら、大怪我につながりかねないんです。……立てますか?」
大丈夫ですと、彼の手をつかむ。手を引かれて立ったとき、羽伊さんは言葉を続けた。
「砂己の分け御霊も大事ですが、あなたはあなた自身のことを一番に考え、大切にしてください。それが巡り巡って、結局は最短の近道になるんです。いいですね?」
自分のことを大切にしろだなんて、はじめて言われた。びっくりして目を丸くすると、「わかりましたか」と念を押される。
「は、はい。わかりました」
羽伊さんはどこか呆れたように吐息をつき、背中を向けた。
「よろしい」
外に出ると、夜風に木々がそよいでいた。かすかなさざなみの音がそれに重なり、月光を浴びる羽伊さんの着物の袖、袴の裾がはためく。
どこか浮世離れしたその光景を目にしたとき、なぜか思った。
ここに暮らしている人たちは、私の生きている世界の
だから、もしかすると、この世とあの世の境のようなところで生きているのかもしれない――と。
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