第2話 暗い夜道にご用心

「おつかれっしたー」

「おつかれさまー」

 バイトを終えてちーちゃんと別れ、私はバス停に向かって歩いた。そうしながらも、にやにやしてしまう。彼との会話は数時間前の出来事なのに、何度も同じ場面を反芻して心底浸った。

 ああ、せめて私が、誰もが目にとめるような美女もしくはアイドル並みな容姿だったらな。それで、彼と同じ職場なんかで働いていたら、一緒に残業したりエレベーターで二人きりになったりとかして。そんなドラマみたいなハプニングの末、あれやこれやがあってつきあうことになって、やがて結婚……!

 興奮しすぎて倒れそうになってきたものの、それは私のありえない妄想だし現実じゃない。誰にも迷惑をかけていないとはいえ、いい加減冷静にならないと痛すぎる。このへんでやめておこう。

 でも、誰かを好きになるって、やっぱり楽しいな。

 なんてことのないかわり映えのない日々が、劇的に色鮮やかに変化するもの。

 二十三年の人生で、誰かとつきあったことは一度もないけれど、片思いならしたことがある。こうして影ながら好きになって妄想して、毎日ちょっとだけワクワクしたりドキドキできれば、私はそれでじゅうぶん満足だ。


 だって、身の丈以上ことを望めば、たくさんの人を傷つけることになるから。


 だから、私はなにも望まない。ささやかにいまの暮らしを続けていけたら、それだけで幸せだし、そう思える自分でいたい――と、前方のバス停を見て焦る。

「うわっ、バスきてる!」

 無情にも走りだしたバスが、私の視界を横切っていった。妄想と回想と自己哲学に陶酔しているうちに、三十分に一本のバスを逃してしまった。

 私はうなだれる。

「……しかたない。歩こう」

 自宅アパートまでは、徒歩で約三十分。待つも地獄、歩くも地獄。ならば私は、バス代を浮かせられる方法を選ぶ!

 万が一強盗に襲われたとしても、スマホで通報すればいいだけのことだ。

 よし、行こう。

 アプリの地図でさらに近道を探し、国道を渡って住宅街に入ると、三区画を占領している緑地公園についた。ここをぐるりとまわりこむよりも、つっきったほうが絶対に早い。少しでも早くつきたいので、樹木に囲まれた公園に足を踏み入れることにした。

 点在する街灯の光は、やけに寒々しい。昼間なら散策にうってつけの公園かもしれないけれど、無人の夜ともなると不気味すぎる。

「や、やってしまったかも……」

 風がないのも奇妙だけれど、初夏のこの季節に虫の声すらしないとかありえるんだろうか。気になりはじめると、チェックしていない心霊スポットに思えてきてぞっとする。

 後悔して引き返そうにも、スマホの地図はすでに中間地点をしめしていた。

「いいや、いってしまえ!」

 走った。

 走って、走って、走っても、なぜか散策路が途切れない。いったん立ち止まって地図を確認しようとした瞬間、突如、突風が吹き過ぎた。

 はっとして顔をあげようとした矢先、耳をつんざくような甲高い咆哮がこだまし、幾重にも折り重なったカラスの群れが目前を過ぎる。

 ――えっ。まばたきをした刹那、幻影のような群れは消えていた。

「……あ、ダメだこれ」

 絶対ダメな、霊的なやつだ! 走って、一刻も早くここからでないと! そう思うのに、恐怖で足が動かない。

 私、いったいなにを見たんだろ。スマホを握りしめる手の震えがとまらない。


 ――ヒュッ。


 風をきるような音とともに、目に見えないなにかにドンと強く胸が押され、地面に尻もちをつく。きりりと頬が痛み、震えながら手で触れる。指先に血がついていた。

 これ、いま、胸を押されなかったら、私のどこかにあたってた?

 背筋に悪寒が走る。なにが起きているのかわからないけれど、逃げなくちゃいけないことだけは確かだ。

 立ちあがって、逃げないと。でも、怖すぎて腰がぬけている。

 しっかりしないと、私。ここでこうしていたって、誰も助けてなんかくれない。

 自分のことは自分でなんとかするしかないのだ。

 とにかく、逃げなくちゃ。なにがなんでも、逃げないと!

 意を決し、尻もちの格好のままじりじりと退く。幹にしがみついて立ちあがったとき、そこに突き刺さっているものが視界に飛び込んだ。

 なに、これ。まるで、時代劇の手裏剣みたい。いや、みたいじゃなくて、それそのものみたいな形をしてる――って、だんだんと空気にとけるかのように消えていく。

 え……なにこれ。なにこれ!!

 ダ、ダメだ、いまは考えちゃいけない。とにかく通報するためスマホを握りなおす――と。


 ――パシッ!


 スマホの画面になにかが突き刺さり、画面が割れた。幹に刺さっているものと同じに思える鈍く輝く刃が、しっかりとスマホを貫通していた。それも、しっかりと傷だけを残して消えていく。

 叫びたいのに、全身の震えでのどがつまって声がでない。あまりの恐怖に、意識が遠のきそうになる。力を失った手からスマホが滑り落ちたとき、私の目にはっきりと見えたものがあった。

 影のようにうごめく、無数のカラスに囲まれた、袴姿の人影。

 その人影が、一瞬だけたしかな輪郭をもち、街灯の暗い光を浴びて私を見ていた。

 丸みのあるショートヘアが、動くたびに風になびく。女性にも男性にも見える、浮世離れした若くて美しい顔は、目だけを残して大判のストールに隠れている。と、その大きな瞳で私をとらえたまま、ストールの奥が血に染まっていく。

 息苦しそうにあごをだし、血を吐いた。あっ――と思った刹那、その人は着物の衿に右手を差し入れ、ぐっと袴紐の奥、下腹のあたりに深くつっこむ。

 唇から赤い滴をしたたらせながら、


 ――逃げて!


 青い炎の玉を取りだすや、こちらに向かってそれを投げた。私の下腹に、強い熱が打ちつけられる。体中に巡っていく熱と、視界をおおいつくす眩しさに意識を失いそうになった寸前、穏やかな明るさが戻る。


 一瞬のうちに、公園の外にいた。


 え、え? なにこれ、どういうこと?

 あ然としたとたん、どうにもできない疲労感がいっきに襲ってきた。

 足の力が抜けてくずおれた私は、そのまま意識を失ったのだった。

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