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 清志郎は宣言通り徒歩で移動を開始した。

 少女はそのあとを黙々とついてくる。

 ひとりなら走って相手を撒くことも出来そうだったが、清志郎の速度にハルノがついてこれる気もしなかった。それに、もし、彼女の追っ手が迫ってくるなら、それはそれで、向こうの正体を知る機会にもなり得る、そういう目論見もあったが、実際可能かは不明だった。

 渋谷から線路沿いに原宿方面へ進んだ。少女はやはり黙ってついて来ていた。線路沿いの道は狭く、フェンスを挟んで、ひっきりなしに山手線が通過していった。道幅に反して、人通りは多く、かつてのは小さな商店街だった気配がある。古い、いくつかの店舗には、若者向けの衣服を売る店をはじめ、装飾品を販売する店や、タトゥーシール専門店もあった。

 まえを歩いていた清志郎だったが、ふと、立ち止まった。古い外観の建物だった。すると清志郎は「ここに挑戦してみるか」と言って、手動ドアを開き、個人経営とおぼしき喫茶店へ身を投じた。

 ハルノは店構えを数秒ほどじっと見た後、急いで追い掛けるように店内へ入った。

 外観とそろって店内も年季が入っていた。ひどく草臥れおり、テニスコート一枚分の広さがある。店内の客入りは全体の四部ほどで、若者もいるが、地元らしき人間が主な客らしく、談笑している者もいる。

 レジ横には、かまくらづくりの笊があり、そこに白黒柄の猫が丸まっていた。清志郎がそこ傍に立ってると、男性の店員が近づいてきた。

 制服不在の店らしく、男性店員は普段着にエプロンのみだった。小さな来客時の挨拶を経て、店内へ通される。清志郎は歩いている最中に、先んじてホット珈琲とオレンジジュースを頼んだ。店員は案内中という奇抜な間合いの受注に一瞬、戸惑ったが、すぐに了承しつつ、ふたりをボックス席へと案内する。

 清志郎とハルノは向かい合って座った。

 水が運ばれ、清志郎は一気に半分ほど飲んでしまった。対して、ハルノはひとくちも口につかねかった。水分への渇望の代わりに、なぜか博物館でも来たように、目を大きくし、店内を見回していた。夢中の証拠か、口もわずかにあいている。とくに、店内にぶらさがっているシャンデリアもどきを見つけると、あとはじっとそれを見つめ続けた。

 ふと、清志郎は奇妙な気分になった。さっきまで騒ぎのなかにいて、逃げてきたのに、いまはこうしてふたり喫茶店に入っている。

 考えれば、急展開とも思えなくもない。いずれにしても、追っ手のかかる身の人間が、現場からさほど離れていない喫茶店に入って、ひと息いれようなどと、正気の沙汰ではないのではないか。

 だが、それを平然とやってのけれるとこが自分にはあった。あってしまう。いったいなんなんだろうか、これは。もしかして、無意識に発狂でもしてるんだろうか。

 そう清志郎は自問自答したが、詳しく考えるのは、また別の機会に投げることにした。

 いま向かい合うべき現実は目の前でシャンデリアもどりきをみつめている少女だった。そのハルノはシャンデリアもどろきから視線を外すと、あらためて店内のあらゆるものを、ひとつひとつ、じっと見始めた。はじめてファミリーレストランに来た子供もこんな感じかもしれない。清志郎は頭のなかでそんな感想を述べた。

「話し、かけてもだいじょうぶですか」

 あまりに熱心な眼差しゆえ、清志郎はまず、声をかける許諾を求めた。

 ハルノは、小さな風船が割れたように現実へ戻り、慌てて顔を向けてきた。大きな両の黒目を、清志郎の両目に遠慮なく真っ直ぐぶつけてくる。

 そして、清志郎へ向け、ぶんぶんと大きく二度うないてみせた。

「追われてるん、ですよね」

 問うと、ハルノは、こくんと、今度は一度だけうなずいた。

 ひどく子供だ、ボックス席で真正面から向かい合い、いまならなが思う。町なかで、しかも騒ぎのなかで目にしたときは、もう少し大人な印象があったが、こうして定まった空間で対面していると、初見の印象より、実際は遥かに子供だった。

 子供だとわかり、清志郎は一度口は開いたものの、どう話をしたものかと考えてしまった。日ごろ、接することのない年齢の相手だった。接し方を自分のなかで急造する必要がある。

 自分の子供のときはどうだったか、とりあえず振り返りかけた時だった。

「ねむり」

 ハルノが先に声を発した。

「はい」

 音のように名を呼ばれ、清志郎は返事をした。

「一族の、末裔」

 言ったハルノの口調はじつにたどたどしいものだった。

 言葉の区切り方が妙なのは、話したいことはあるが、その内容が頭のなかで整理できないためのようだった。

 そこで、清志郎はなにか彼女の言いたいことの補助になればと「ねむり一族の末裔」言葉をつなげてみせた。

 一方、ハルノは一度、完全に黙った。

 だが、それから、少しだけ前のめりになった。

「末裔です、わたしもです、末裔です」

 伝えたい気持ちが先走り、言葉は懸命さを帯びてやや独特になった。

「ねむり、さん」緊張と、遠慮がちハルノは名前を呼ぶ。そこには人見知りの人間が、出会ったばかりの相手の名前を呼ぶとき特有の、一種、照れもありそうだった。「ねむりさん」ハルノは自分に呼ぶことを慣れさせる目的か、ふたたび名前を口にした。

 そのうえで、顔をあげる。

「お母さんもひとを眠らせられました。お母さんにもねむり一族の力があって」

 気持ちだけで話し、まえおきなくそれを告げてくる。

 それでも清志郎は急かさず、そのままハルノの話を聞いた。

 ハルノは自分のひらいた右手をみつめる。

「手でさわるとその人が眠る」

 悲しいもの見るような目で、自身の手をみた。

 対して、聞いた清志郎の心臓がひとつ大きく鳴った。その音はひどく響いて、全身の細胞が振動した。表情こそ出さずに済んだが、確実に動揺してた。

 お恐ろしく鋭い人間なら、この動揺をも見抜いただろうが、少なくともハルノは気づいていなかった。いまは、ちゃんと目の前の大人に話さなければいけないという意識でいっぱいそうだった。

 手でさわると眠る。その言葉から、ハチ公前でハルノのそばで倒れいた男のことを思い出す。

 あれは追っ手で、彼女は捕まりそうになり、さわって眠らせた。

 考え、清志郎は席を立った。ハルノは目を大きくして、自分も慌てて立とうとしたが、清志郎から座っているよう手の動きで制された。立ち上がった清志郎はレジへ向かうと、店員とひとことふたことかわし、それから席へと戻って来た。

 その右手は、猫の首を掴んでいる。

「こいつ眠らせられるかい」

 猫の登場に、きょとんとしていたハルノへ問う。

 首を掴まれた猫は大人しく、目はぼんやりと開かれ、四肢を止め、しっぽだけが少し左右に揺れていた。

「そんなふうにもって、だいじょうぶなんですか」

「いけるさ。プロだからな、おれも猫も」

 心配するハルノへ、ただ適当にそう返した。

 純粋なのか、ハルノはそれで納得する。

「ねむらせるのは、人間しかダメなのか」

 訊ねると、顔を向けて首を左右にふった。

「生きてるものならぜんぶ」

 そう言って、視線を猫へ向ける。「ネコさわるの、ひさしぶり」片言のようにいって、おそるおそる猫へ手と伸ばした。

 捕られ、無防備となった猫の腹部へそっと右手を近づける。指先をつけ、手の平をつけた。

「うごいてる」

 それはこいつの心臓のことだろうか、清志郎が思った瞬間、猫越しに、自身の体内の中心で光の瞬きのようなものを感じた。とたん、今度は急激に猫が重くなる、急激な重量の増加に、清志郎は咄嗟に、猫を抱っこするかたちに代えた。

 猫は両目を閉じていた。しっぽは、少し丸まって、かすかに寝息も聞こえる。

 清志郎は猫をじっと見ていた。だが、程なくして、猫を元のカゴへ置きに行った。ハルノはその動きを目で追っていた。清志郎は席へ戻ると、ふたたび、ハルノへ向かい合った。目を一度合わせると、ふと外し、アイスコーヒーの入ったコップを手にとり、ストローをつかわないまま、口に含んだ。

 まだやり方に迷っていた。ただ、ハルノは清志郎が迷いのなかにいることを気づいてはいなかった。ただ次にやる清志郎の動きを素直に待っている。少なくとも、いま本当に猫を眠らせたことに対して、相手が驚いているだとか、動揺しているだとか、そういった心配はしていなかった。同胞なら、ちからをみせても大丈夫だと信じている様子だった。

「…………千百七十七年、六月二十五日」

 淡々とした口調でそれを口にした。

 とたん、ハルノは目を大きく見開いた。

「夜、突然、月の先が欠け火を噴いた。それから月の表面に靄がかかった。その光景を人間の目撃した記録が残されている」

 脈絡なく、いったい何の話をはじめたのか。ハルノはそういった不可思議な反応はしなかった。

「月に何かがぶつかった、その衝撃で月には振動が生まれた。修道士たちが月が燃えるのを目にしたと同じ時刻、この星の至る場所で、母体から取り上げられる際、光の繭に包まれて生まれる子供が多発した。子を包むその光の繭は臍の尾を切ると、ゆっくりと収縮し、そのまま子の心臓部へ収まるようにして消えた。それは場所によっては奇跡だとも言われたし、錯覚、見間違いだともされたし、呪いだともされた。その中の幾人から成長することが出来た。そして、それらの人間は、皆、不思議な力を持っていた」

 清志郎は淀みなく語る。だが、そこには慎重さもあった。

「力の種類は様々だった。物理を蔑ろにした腕力を持つ者、空を飛べる者、炎を操る者、未来を見通せる者、力は多岐に渡り、能力者は星の広範囲に発していて数は誰も把握できない。力を有したまま誰にも教えずにいる者も確実にいた。それらの人間は同じ頃に、世界中に現れて、同じ頃、世界中から一斉に消えた。その存在はあらゆる記録から信じられないほどきれいに抹消されていた。わずかに、寓話に溶け込んでしまっているものがあるくらいだった。不思議な力を持った者たちは皆、月が燃えた日に生まれ、それは月が与えた力だった。なぜ、月は人に力を与えたのか。破損した月が自らを修復するためだった。月の存在が狂えば地球への影響は免れない。地球の存在の揺らぎは月自身の存在も危うくする。月に力を与えられた者たちは、月を修復すためにこの星を離れ月へ渡った。やがてそれらによって月は修復された」

 抑揚を排除したかたちで、そこまでを口にする。

「その後、月に渡った者たちがどうなったのかはわからない」

 顔をあげる。そこには真っ直ぐに見る、ハルノの顔があった。

「月に渡れなかった者もいた」

 そこへ清志郎がいった。

「ねむり一族は月に渡れなかった者たちか、渡らないことえを選んだ者たちなのか、いいや、還って来た者たちなのか、それはわからない。だが、時々、それからの歴史にその子孫が登場する。如何なる不眠の者も手を触れると眠らせることが出来る。それも質の高い眠をえることができる。心に安定を得れない権力者たちは、いつの時代も躍起になってねむり一族を探した。追われる一族だった」

 そこまでいって、清志郎は一度静かに息を吸って吐く。

「これが、おれが親父から聞いた話だ」そう説明し、間を置いて、何かを取り返すように「ただ、聞いただけの話だ」と付け加えた。

 話す間、ハルノは微動とせず、じっと清志郎を見ていた。だが、言い切って、清志郎が何か、解放的な様子になったのをみつけ、口を開く。「お父さんから聞いた」その部分を切り取って、繋げて独り言のようにいった。

「親父は死んだ」

 所在を問われていなかったが、なんとなく、そのうち聞かれると感じ、清志郎は先んじて告げた。

「二年前だ。母親はもう少し前に死んだ」

 両親を亡くなった、という表現ではなく、あえて死んだ、という強い言葉で表現したのは、おそらく、自分のためだった。現在から、消化不可能な過去というのを切り離す作業、それをやろうとしている。無意識のなかにそんな自分がいることとに苛立ちもあった。

 対して、ハルノへ向ける表面上には、微塵もそれを浮かばせない。訓練の賜物だった。

「わたしのお母さんも死んじゃった」

 ぽん、ハルノはいった。

「半年くらいまえに死んじゃった」

 落ち着いて話していたが、その、やや突然性を帯びた間合いから、いま、自分の母親のことを知って欲しいという、ハルノのかくせない願いが見てとれた。

「母さん、ずっとからだ悪くて、そんなにつよくなくて。でも、ずっとはたらいていた」

 手つかずのジュースを見ながら言う。

「父さんは知らない」

 補足されたそれは、別人のような、ただの台詞めいていた。

 清志郎は必要だと思われる間をあけ、目線を珈琲からハルノへ戻す。

「わるいな。ずっと、やり方がわかんないもんでさ、いや、やり方ってのは、なんというか、その、きみと、どう接していいものか、ってので」

 正直に言う。

「けど、きみが本物だってことがわかった。だから、こっからは、ずんずん進めてける」

「ずんずん?」

 放たれた擬音にひっかかった様子だった。

「追われてるんだろ」

 かまわず問う。

「はい」

「何に追われてるんだ」

「たぶん、あの人」

 言った後で、ハルノは、あの人という説明では、わかるはずもないと気づいた。だが、代わりにその人物を表現できる言葉がすぐには浮かばなかったらしく。「名前のない人」と言った。

 なんとかしようとて、ようやく出た表現だった。

「名前がない人」

 そのままを口にする。結果として問い返しとなり、ハルノはうなずいてみせた。

「名前がなくて、男のひと」

 さらにそう告げた。

 奇妙な説明に、気になってしかたがなかった。だが、清志郎はひとまず、この場では、もっとくわしく聞きたいという衝動を抑制させた。その登場人物について、追求し、ハルノの本人が無意識のうちに保有している部分を含めて引き出そうしかけたが、それらは後回しにした。

「奴らは銃を使うのか」

 さきに、シンプルで大きなことを訊ねる。

 自身の経験と勘から、あれらがそういった種類の人間たちではないかと読みよった。

 ハルノは再びうなずいた。

「人を殺すのか」

 我ながらひどく恐ろしいことを年端も行かぬ相手に聞いている、考えてぞっとした。それでも、ここは有耶無耶にしておくわけにはゆかなかった。

 三度目のうなずが返される。

「そうか」

 予想通りの答えに気が滅入った。

 年端もゆかない子供を、どうやら人を殺すような組織の連中が追っている。文面にしてしまえば、ほとんどファンタジーだった。しかし、清志郎も実際、追っ手と接触して、感じていた。嫌な手ごたえがあった。

「まあ」清志郎は深呼吸を、適当な声を発することで誤魔化した。そして淡々と「普通の人間ならここで怯むわな」

 そういって、自身に暗示をひとつかける。対してハルノはいったいなにを言っているのか、とらえられないという表情をした。

 清志郎はストローはつかわず、アイスコーヒーを飲んだ。「おれはプロだからな」もはや常套句化したそれを言う。

 こうして同じようなことを口に繰り返し言うような状態は、おおざっぱにいって好くない兆候といえた。有効な新しい言葉をみつけられずにいる証拠であり、歩の進ませ方を見いだせていない証拠だ。

 どうも、ここは必死なって、状況を開拓する必要がある。アイスコーヒーを置きながらそう頭のなかでつぶやき、いまいちどハルノと目を合わせた。相変わらず、目はそらさず、じっと見返してくる。しかも清志郎が昨今、向かいあったなかでも、群をぬいて強い目だった。自我の弧や自信の強さとは違う、特別な存在感があった。

 あらためて、自分がどんな相手と対峙しているのかを悟る、ケタが違う。

「それで」気が沈みそうになる一方、脳は多面的に機能する。とらわれなかった部分で訊ねていた。「きみのを追いかけてるのが何者かを、もっと説明は出来るかい」

 すぐにハルノは口だけは開いた。しかし、どういう言葉を使って説明すればいいのか、迷ったのか、伝えよう、伝えたいという、懸命な表情だけになってしまった。

 こういう場合、読み取って、補助するのが目上の義務に違いない、清志郎は内部で唱えつつ、やはり順序だって情報を得るより、ハルノが答えやすい文言で訊ねることにした。「きみはどこか来たんだ」

「どこ」

 反射的らしく、口利き返される。

急かさず、清志郎は表情でうながした。

「〝トリナシ″」

 一言で返ってきた答えは、どこかで耳にしたことのある言葉だった。

 手持ちのスマートフォンで検索すれば、たちまちわかりそうだった。だが、ここでハルノの情報と検索した結果の情報が中途半端に混ざると、後の混乱になる。そう考え、清志郎は演じず「なんだいそりゃあ」は直な反応を差し出した。

「みんなそう呼んでる場所」

「どこだい」

「壁のすぐ近く」

「壁、って」

「むかしは海で、その海を消したところ」

 懸命だが、大人に説明するということへの不慣れさからか、整理されない言葉となっていた。それでも、そこまで言われればもう充分だった。やはり、その場所を知っている。

「そこは〈空き箱〉っていわれてる」

 ハルノは説明の不足分を思い出したようにいった。

 確実だった。やはり、清志郎もその場所を知っている。

「………あそこか」

 清志郎は記憶から引き出してつぶやく。神妙な面持ちにならざるを得ないのは、その場所の話は耳したことがあるゆえだった。〈空き箱〉の手前、陸地側はまだいい、いたって普通の世界に見えるらしい。不味いと聞くのは奥だった。壁に近づくほど、うかつにかかわべきではなくなる。しかも、その地の話は、じつに有名でありながら、全貌は杳として知れない、不整合のまま存在してしまっている。そして職業柄もあり〈空き箱〉には、かかわってはならないとしている部分も強かった。いうなれば、この惑星において、最新の混沌状態がある場所だった。少なくとも清志郎はそう認識し、状態との適切な距離を置いていた。なにしろ、その場所でしか生きれない人間たちがいるとも聞いている。

 そこは誰かにとっては、最後の希望の地でもあると。

「いつからそこに」

 問いの順序として相応しいかは不明だが、訊ねた。

「一年くらいまえから、それまでは岡山にいた」

 躊躇なく、目を見て来る。

 迫力さえあった。

 清志郎は静かに内部のゆたぎを整えつつ「それが、なぜそこに」続けて聞いた。

「お母さんと一緒につれてかれた。森川って、人が来て」

「森川?」

「さっきの、ハチこう………」ハチ公という名称の発音が、これで正しいのかという様子を見せた後。「眠らせた人、あの人が来て、お母さんとわたしをあそこに連れていった」

 倒れていた人。

 あのずいぶん耽美なやつか。見たのは一瞬だったが、はっきりと記憶に残るほど攻撃力の高い外貌をしていた。とはいえ、同性の同年代ゆえか、ふりかえって好い気分にはならない。

「森川か」

 なんとなく吐いた二度目の名前は、捨てるようになった。

 大人げなくも癪を隠せない。

「その森川が、きみとお母さんをさらわれたのか」

 さらった、部分は作為的に強調して確認する。

 ハルノはうなずいた。

「でも、ひどいことはなかったです」

 それからはっきりいった。

 清志郎はひそかに深呼吸した。少女の言葉たち敬語とそうでないものが混じる話し方は、ひどく危ういものを感じさせる。

「学校にいけなくなって嫌だった」

 その気持ちをはじめて誰かに告げたような口調だった。

「住むところとか、ごはんはいつもいいものを食べさせてくれた。建物から出る自由以外、いえばなんでもくれました。そとはダメだって。あ、勉強は、家庭教師の女の人がいて、ていねいに教えてくれた」そう話し、少し間を置いてからだった。「その頃、お母さんのからだの調子もすごくわるかった」

 むしろ、その状態は好都合な面もあったと認める部分をこぼした。

「夜になると、お母さんは名前のない人を眠らせにいった。つかっちゃいけない力だっただけど、わたしたちなら眠らせられた。お母さんは、それがここでのわたしの仕事なんだってなんども言って。でも、わたしを学校に行かせられないことはずっと気にしてて」

 ハルノの表情に落ちた陰は、より深まった。

「お母さん、まえにわたしに言ったんです」聞いて欲しいのか、それでも顔は伏せたままいった。「ごめんね、わたしが悪いから、いまはこうするしかない、って」

 その口調は、母が子に言い聞かせるそのものだった。

「すごくいやだった」

 何が、という具体的な言葉はつけず、ハルノはそういった。

 清志郎は深追いはしなかった。知っても、どうせ、どうしようもない気分にしかならない。

 なにより、まだ十二、三歳ほどの相手の内部を下手に突きまわして、心を瓦解させることへの恐れもあった。子供は繊細なんだろうと勝手に決めている。自分はそうだった気もしている。それら、勝手な自己の想像と、適当な記憶の誤差を解消するために、彼女の心を消費するなど、センスのない人間としか思えなかった。

 センスがない人間、それになるのだけは御免だった。

 ハルノがしたのは奇抜な話だった。聞いて欲しいから、あえて奇妙な言い方をする。大人なら、そういう技術も知っているし、駆使もできるだろうが、少なくとも、目の前の少女はそんな小細工を出来るような能力を持っているとは思えなかった。無防備を演じているとしては、優れ過ぎている。

 無論、清志郎が少女の芝居をまったく見抜けていない可能性もあるが、そこは、もはや仕方がないことにした。生存率をあげるなら信じれられるものを信じるべきだが、理屈なく自分が信じたいものを信じる、そういう無謀なことも稀にはやっておかないと、いつの間にか出来なくなりそうなので、ここはひとつ、そのままゆくことにした。それはきっと、それは何かの保存的な動きでもあった。

 そんな歪な計算を瞬時している自身も、当然、見逃さない。

 ああ現代人だね、どうも。

 などと、頭なかで戯れつぶやく。

「名前のない人が眠れない」

 現世に呼び戻すかのようにハルノが声を発した。

「あの場所に連れていかれてからずっと、お母さんがその人を眠らせてた、でも、できなくなった。お母さん死んだから」

 母の死を何度も繰り返し伝えて来る。そこにやはり、少女が大きく抱えるものがあるようにみえた。

「そのあとはきみが続けのか」

 淡々と問いかける。

 ハルノは顔を左右へふった。

「わたしは一度もよばれなかった」

 清志郎の目を真っ直ぐに見た。

「きみのお母さんが亡くなったのは半年まえだろ。その半年の間、きみは、その、名無しの男に呼ばれなかったのか」

「うん」子供っぽく反応した後「なかったです」敬語で続けた。

「けど、そいつは眠れなかったんだろ」

 問いかけなのか、独り言なのか。つい、両方を備えた口調でいってしまうと、ハルノはどうしていいかわからない表情を浮かべた。

 相手の困惑に気づき、清志郎は声にかすかな体温を含ませて「眠れない気持ちはわかる」そういい、ため息を吐いてみせた。

 それから間を生産するためにアイス珈琲を手にとって口をつけた。

「わかる?」ハルノは瞬きしばがら問う。

「そういうのと会う仕事なんでな」

 業務内容を復唱し、コップを置く。

「お母さんが死んで、半年くらい経ったけど、わたしは一度もよばれなかった」

「なら、半年間、きみはなにを」

「おなじだった。来たとき、お母さんがいたときとずっと同じ、外にでる以外は、こまることがなかったです」

「…………となると」

 清志郎はアイス珈琲へ手を伸ばす。だが、掴んだだけで終えた。

「なぜ、きみがここにいる、って話になる」

「にげた」

 一瞬、強く感情的になって伝えてきた。

「夜、何かが部屋にきた」

 まっすぐに目を見て言う。

「わたしが閉じ込められてた部屋、銃の音が何度もきこえて、それがだんだん近づいてきて」説明しようと思い出しせいで、内部でそのときに感じた恐怖もまた再現されたらしく、顔をうつむき、声にはかすかな震えが混じった。それでも、伝えねばという強い意志が働き「部屋に入ってきた人を、わたし、眠らせて、そのひと、銃も持ってて、いつもは閉まったままの部屋のドアが開けっぱなしになってるのをみて、走り出しました」最後には顔をあげた。

 間をあけて「そいつはどれくらい前の話だい」うながず。

 あえて、情報を展開させる方向へ仕向けた。

 怖かったときの話を延々とさせとくのも、酷だという判断からだった。ただ、仕向けたそれが功を奏しているか否かは不明だった。少女の体験するにはきつ過ぎる話に、清志郎も動揺はしていた。

「昨日の、まえ」

「おととい」

「あ………うん、おとといです」

「にげた、って、どこへ」

「走りました、とにかく、急いで走って、いつも部屋のドアは閉まってて、建物にはひとがいた、カギもかかってた、けど、そのときは、みんながおそわれてて、ほとんど誰もいなくて」そのとき目にした光景をひとつひとつ必死に拾いあげるように伝えてくる。「わたしが部屋を出てても、誰も気にするいなくて、それどころじゃないみたいで、夜だったし、わたし、そのまま建物を出て、ずっとただ走って、そしたらトラックがいっぱいあるところについて、トラックの荷物を入れるところに隠れた、でも隠れてたらトラックが走り出して、バレないまま遠くまで来て、朝になってトラックがとまったから、降りたら知らない町だった」

 そこまで話すとハルノはとまった、話しているうちに感情があふれて来たのか、ひとつ走り切ったように呼吸は少し乱れている。いま、命懸けの物語を語った。それは、継続中の物語でもある。泣くのかもしれない、そう思わせる様子だった。

「それから」

 制御不能な感情によって、行き詰まることを回避させるように、清志郎が話をうながす。

 ハルノは乾いた唇を一度、少し内側におさめて口を開く。

「わからない場所だったから、ずっと歩いてました」

「それが昨日か」

 うなずき返す。

「電話をかけてきたのは今朝だった」

「まえにお母さんに言われてました。もしも、外に出れたら、そしたら、電話をかけてって、ばんごう。この、ばんごう、ぜったいに忘れないようにしてって、おぼえてって」

「番号って、おれのかい」

「はい」今度は目を見てうなずいた。

「きみの母さんがそういったのか」

「同じ血のひとだから」ハルノは大きく目をあけて伝える。「このひとなら助けてくれるよ、って」

 信じるのみで、混ざったものがない眼差しだった。

「私たちとおなじ、ねむり一族のひとだから、たすけてくれるって」

 少女自身が救済を求めている部分はたしかにあった。だが、それよりも、そのときの母親の再現をしようという意志の方が、より強く印象的だった。それは、会話のなかにずっとあった、死んでしまった母親の存在を誰かに知って欲しい、ハルノの願いがそうさせているようだった。

 告げられた清志郎は一度、ハルノから外した。

 母親がハルノに告げたのは営業用の電話番号だった。大きな意味でいえば世によく出回っているものだった。いまではもう、ひどくあやしげところまで流れてしまってる。

 ねむり一族の末裔が商売をやっている、その末裔自身であるハルノの母親が、どこかで耳にしたとしても不思議でもない。

 そして、めぐりめぐって、この状況を完成さている。

「アツいね」

 そこまで想って、清志郎は顔をあげてそういった。

「血が滾る」

 次に、それを口いした。

 清志郎の言葉の意味が、ハルノに伝わっている様子はなかった。だが、様子から特別な印象を受けたのか、眸を大きくして見返していた。

 そのとき、清志郎はひかえめに手をあげてウェイトレスを呼び「ホットサンドをふたつください」と注文した。そのあとに、ハルノを見て「食べるだろ」と確認した。咄嗟の問いかけに、ハルノが戸惑いながらうなずくのを見届けると「じゃあ、ふたつということで」ウェイトレスへ告げ、少し頭をさげた。

 ウェイトレスが行ってしまった後で「わたし、お金ないです」ハルノが、いいづら伝えてきた。

「まあ、マネーがないときもありますわな」言って清志郎はアイス珈琲を手にとる。「それが、にんげん」と言ってつける。

 妙な言い方には当然、作意があった。この好い加減な態度で、目の前の少女へ、金銭のことは気にするな、という意志を表現したつもりだった。

 だが、作意過ぎたためか、うまく伝わらなかったらしい。ハルノは黙ってうつむいてしまっただけだった。三十メートル先から見てもわかるほど、落ち込んでいる。

 しくじったかと反省しつつ、観察しているうちに、じつは、どうにもそこにはそれなりのワケありだと察知しつつ、しかし次に一手が浮かばず、清志郎がただアイス珈琲片手に目を向けていると、ハルノは小さく「お金を」とつぶやいた。

 聞いて欲しい話がありそうだった。ここは積極的に話すようにうながすべきか、いや、自主性に任せるべきか。

「ぬすみました」

 迷っていると、目を合わせまいまま言われた。

 反応に窮する発言だった。清志郎は、ひとまず自身の内部に向け、慌てるなよ、と言い聞かせ、ハルノの次の動きを待った。

 だが、ハルノは清志郎から視線を外し、テーブルの一点に定め、顔をあげようとしない。

 沈黙が長引くと、余計扱いが難しくなると判断した。そこで、清志郎は、なるべく、気が抜けた言い方で「マネーを、ぬすんだのか」と、そう訊ねた。

「……………はい」

 ハルノは消えそうな声で返事をし、うなずいた。

 回答をえたものの、またしてもやり方がわからない場面だった。

 子供がこういう告白をした場合、世の大人たちは、果たしてどういう振舞いをしているのだろうか、やり方をすぐにはじきだせない。

 しかし、未曾有に対しては模索するしかない。まずはハラを決めた。

 ひとつずつ聞いてみてしまおう。

「盗んだって、どっから」

「      にげて、昨日、わたし………」

 ハルノ自身も、頭のなかで情報の整理が出来ていないらしい。説明文は不安定なものだった。

「知らない町、ずっと歩いてました………そしたら夜になって、お金はなくって………」

「お巡りさん、とこは」

 ふと、気になり、しかし、なぜか遠慮気味に口を挟んだ。

「ほら、交番とか、ここはひとつ、ふらりと立寄ったり、とか、そういう気にならなかったのかい。あそこは二十四時間営業だし」

「ケイサツはたぶん、だめ」

 きわめてはっきりとした口調でいった。

「ケイサツにも仲間にひとがいる」

 顔をあげて言い直される。しかも、忠告的な気配もまった。

 聞かされた清志郎はなかなかの行き止まりを食らった気持ちを抱えてつつ、少し間をあけてからここは「スゲぇな」とだけ、感想を述べておいた。

 ハルノはふたたび、顔をうつむかせる。

「夜になって、お腹もすいてて、駅のところで座ってたら知らないおじさんが声をかけてきた。わたしがずっとそこに座ってから気になって声をかけて来たって。ついてくれば、ごはん食べさせてくれるっていって、お金、わたしのポケットに入れてきて」

 外見上、清志郎は微塵の変化もなく聞いていたが、内側では、ひどく心が騒めいていた。

 世間に漂う話では、そういう危うい手合いの人間がいることは聞いていた。この惑星の悪しき部分だという認識はあったが、感情はさほど乱れなかった。だが、実際に遭遇した少女から聞かされと、ひどく息苦しくなった。経験値の弱いところを喰らい、落ち着けなかった。

 しかたなく「ショッキングだ」いまの心境を言葉して放った。

 その発言に反応してハルノは見返し後、話を続けた。

「その人に腕をつかまれ、ひっぱられた。力が強くて、こわくて声が出なくて、そのひとの家までつれいかれることになって、にげたかったけどこわくて、だめで」

 もしかすると、ハルノが逃げられなかった理由のなかに、警察へ駆け込めないということも入っていたのではないか。推測だったが、気は滅入った。

「そのひとの家の前まで来て、玄関あけたの見たら、あたまがおかしくなりそうらくらい、いちばんこわくなって、そのひと、さわって眠らせて、走ってにげました」

 そこまで聞いて清志郎は複雑な安堵感を得た。

 最悪の出来事には違いないが、逃げたことで、忌まわしいざわめきの半分の消えた。

 一呼吸をあけて「で、その、とったっていうマネーってのはつまり」と訊ねた。「ポケットに入れられたお金、か」

「…………つかった」

 うつむき、声を小さくしてハルノはいった。

「おにぎり食べました、この服も買った」

「服?」

「へんそう………」

「あ、そういったアイディアを」たしかにそんなことも考えるだろうなと思いつつ。「それでその服を」訊ねた。

 ふたたび申し訳なさそうにうなずくと、ハルノはポケットから数枚の紙幣と、手のひらサイズに折り紙袋を数枚、テーブルの上に置いた。

「その紙袋は」

「百円玉とか、十円とか、そのままポケットに入れるとポケットやぶけます」

「文明人だな」

 つい、述べたその感想がこの場に合っているのかどうかは、清志郎自身にもわからなかった。

 テーブルに手持ちの金銭すべてを提示すると、ハルノは暗い表情を保ったまま、じっと、それらを見つめていた。

「罪悪感を」清志郎は、はじめそう言いかけが、難しい言い回しは取りやめた。「ワルいことした、って思ってるって、ことか」

 あげく、やや、整理を欠いた文章となった。

 ハルノはうつむいたまま、うなずいた。

 すると、清志郎は考える間をおかなかった。

「じゃ、返しにいくか」

 ぽん、とそうつぶやいた。

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