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 静かだった。かすかな音もない。

 灯された明りはわずかで屋敷全体は夜の底へ沈んでいた。

 その武家屋敷は人里離れた場所にあり、上辺の構えは格式ある様子だが、周囲は高い防音壁に囲われ、かつて庭にあっただろう豊富な草花木々も排除された形跡がみられた。それでも、月明かりでぼんやり見えているらめ、まだ平然と眺めていられた。もし、太陽の下であれば、見れいられないものに違いなかった。荒らされ滅びた跡に見えかねない。

 青年は外廊下を屋敷の使用人である初老が女性が手にした行燈の明りに導かれ、進んでゆく。

 歳は二十歳前後、ジャージめいた上着に、黒いパンツ、背中にはキャンパス生地のコンパクトなメッセンジャーバックを背負っている。

 顔立ちは悪くないが、目元やや天性の疲れ具合いがあり、若いが、それに比例する若々しさは不在だった。失くしてしまったというより、最初からもっていなかった気配がある。黒々した髪はボザボサだった。意識してその髪型にとどめている様子はない。前髪は眉毛を越えていた。

 決して洒落てはいない。だが、ひきかえに、生命力の強さを感じられる風体ではあった。

 ごくわずかに髪を揺らし廊下を歩く。青年は滅びた海底のような夜の庭を眺めていた。

「ごめんなさいねえ」

屋敷を先導する初老の女性が謝罪した。その一言の謝罪にも、どこか品がある。

「明りは、なるべくつけないようにいわれてて」

 歩きながら行燈の赤く弱い明りで半面を照らしつつ、青年へ頭をさげた。

「お庭もねえ、まえはよかったんですけど、風が吹くと音がなるからって、すっかり絶滅させちゃって、ぼうずなの、ぼうず」

 ほんと、こまったわねえ、という感じでそういった。

「いいえ、慣れてます」

 すると、青年は飄々とした口調で答える。

「こういう仕事なんで」

「あらま、多いんですか、こういうのが」

 青年の背後にある、見知らぬ世界に対し好奇心を抱いたらしく、訊ね返す。

「数などこなしてると、どうても出会うんです、こういうの」

 青年は疲れ気味の目のまま少し笑んでみせた。

「しかし、ここはひどくマシな方です」

 ひどくマシ。その言葉が、果たして良い意味なのか否か、判断がつかなかったのか、女性はわかりやすくきょとんとした表情した。が、ふと、あまりしゃべり過ぎてもいけないと思ったのか、丸くした目をまえへと向けた。

 そこまでで会話は途絶え、しばらく、ふたりして黙々と屋敷をゆく。床板も徹底しているのか、見た目は年月を感じる木材だが、きしみひとつしない。屋敷の明りは、来客を案内するために、必要最低限の場所しか灯っていなかった。

 やがて、女性はドアのまえで足を止めた。

「こちらが旦那さまのお部屋です」

 古風を模した武家屋敷に似つかわしくない、そこだけは、じつに近代的な分厚い防音扉だった。その部分だけ世界観が別種だった。

「ほんのちょっとでも物音が聞こえるともうダメなんです、ドアを閉めてしまえば聞こえないと思うですけど。もうね、このドアになる前は、すこしでも音がしたら、すごくお怒りになって。むずかしくなちゃって、それがもとで、この家も人もすっかり辞めてしまって。残った人も、夜にはお屋敷に居たがらないですよ」

 話し好きらしく、こっそりという感じで内部情報を教えてきた。

 すると、青年は扉を指さす。

「聞こえないなら悪口言い放題ですね」

 とたん、初老は女性は笑いかけてたが、手で口を押えて留め、かわりに青年の上あたりと、てん、と手首のスナップだけで弱く叩いた。その動きは邪気のない少女っぽくもある。天性的に女性が持っているものに違いなく、その快活さゆえ、他の者が敬遠する夜間の屋敷勤めも可能していそうだった。

 ささやかなじゃれを経て、女性は「では、旦那さまにお取次ぎいたします」様子を戻し、ドアのそばにあった受話器を手にとった。

 やがてこれまでとは音質を変え、やや緊張を帯びた様子で「あの旦那さま      あ、ええ、はい、せんせい、ここにいらっしゃいました」伝える。

 女性が受話器を置き、間もなく、ドアから木を木で叩くような、ごく薄い音が聞こえた。

「鍵、開きました」

 女性は告げて頭をさげた。

「ここからはおひとりでと、旦那さまに言いつけられておりますので」

 ややくだけ気味の口調をあらため、丁寧に頭をさげた。

「承知です」

 質問はせず、青年は女性へ一礼した。ドアノブへ手をかけた。とくに心の準備をする間など見られなかった。

 ドアをあける。開く際、音はまったくしなかった。初見、中は黒に近い闇だった。開き切ると、女性が持っていた行燈の薄い明りでかすかに十畳ほどの畳敷きの和室がみえ、中央には寝具一式ひいてあるだけだった。そこから人の気配がある。調度品を含め、他には何もなかった。和室は障子ではなく、防音壁になっている。

「こんばんは」

 寝具から放たれる人の気配へ向かって、淡々とした挨拶をした後、青年はドアはあけたまま部屋へ足を踏み入れた。まだそこに立っている女性の行燈の明りを頼りに、無造作な歩みで布団まで間合いを詰める。

 そばに立つと、布団が動いた。和寝巻を来た老人がゆっくりと身を起す。それから青年を見上げた。

 視界に入る者すべてを無差別的に忌むような強い眼をしていた。頭髪は後退し、残った部分は白く、やせて、肉がないせいか、寝巻からのぞける鎖骨や胸骨の輪郭が飛び出してみえる。

 外貌はずいぶん衰えていた。だが、眼の強さだけでも充分な貫禄があり、不用意にまえへ立った者を威圧し、一歩、二歩と後退させるだけのものがある。

 そのまま老人はほとんど憎むような眼で青年を見上げていた。

 対して青年は様子を変えない。緊張や怯えもなく、安定していた。

 こういう場面に対する、圧倒的な慣れがそこに見られた。

 しかし、隙はなかった。油断は消されている。長距離の狙撃なら、避けてしまいそうな気配すらあった。

「話とか、しますか」

 構えなく訊ねる、相手からの反応はなかった。老人はただ、濃い疑心暗鬼のまま、見上げていた。その視線には攻撃的でもあった。敵が入って来た、そういうとらえ方に近い。

 青年はわずかにも目を反らさなかった。とぼしい明りの中、視線を合わせ続けた。

 しばらく会話はなく過ぎた。ふと、老人はじつに不愉快そうに顔を背けた。

 すると、青年は背中のメッセンジャー・バックをまえへずらし、手を入れてごそごそとする。老人はその挙動を無視して顔を背けていた。

 バックから手を抜き出すと、手には白いお手玉のような小袋があった。

 老人は、それをいぶかしげな表情で見た。

 説明はなかった。

 右手に持った小袋を頭上に掲げた、直後、寝具近くの畳みへ鋭く叩きつける、小袋は破裂して、老人の周辺は瞬時のうちに煙幕に包まれる。

「っご」と、短い濁音が聞こえた。

 次には老人が寝具の上へ、まるで一撃のうちにやられたボクサーのように、どさっと音を立てて倒れてしまった。

 あとは微動だにしない。

「あ」

 様子をドアの傍でのぞき見ていた女性は小さく驚きの声をあげた。

 青年はとけ始めた煙幕から出でてドアの方へ顔を向けた。

「終わりました」

 彼女へそう告げた。

「あの、あれ………旦那さまは………」

 彼女は心配というより、唖然として訊いていた。

「眠りました」

 答えて、歩き、そのままドアを抜けて廊下へ出た。

「家の明り、もう全力でつけても大丈夫ですよ。しばらくは、たとえ太陽光を直に眼球へ当てても起きませんから」

「え、あの………寝たんですか、旦那さま?」

 いましがた言われことが信じられないのか、また、あらためてきく。

「眠りました」

 同じ調子で答える。

「………うそ」

 ぽん、と疑いを口にしたが、まだ、唖然、の方が強く働いていそうだった。

 その女性をかわし、青年は廊下へ出て歩いていった。女性は慌てて、ドアを閉めてようとしたが「ドア、あけっぱなしにしときましょう。その部屋、空気の入れ替えをしたほうがいい」青年に言われ、戸惑って中と外を交互に見た後、従ってドアはそのままあけて追って来る。

「あ、そうだ」

 女性が追いつくと、青年は立ち止まって、ぬるりと顔を向けた。

「在来線って、何時ぐらいに動き出きますか」

「え」窮に生活感のある会話を展開され、女性はあたらしく戸惑ったが「始発までは、まだ四時間以上があります」持前の職務意識が自動的にそう答えさせていた。

「さいですか」

 聞いた青年はポケットから携帯電話を取出し、時間を確認した。女性はついつい、青年のスマーフォンの画面をのぞきこんでしまう。そこに表示されていた壁紙は購入時のデフォルトのままでじつにプレーンな画像だった。青年がポケットにおさめると同時に、女性は我に返ったように視線を外す。

「あの」

 ふたたび、ぬるりと青年は顔を向けた。

「食べ物、いただけますか」

 上から要求するでもなく、下から頼むでもなく、ただ不思議な間合いで頼んできた。

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