第47話 無我

 ゾン美さんがその先を続けることはなかった。


 そしてまた、あの時みせた愁いの仕草。


 視線を逸らしていくところまで同じだった。


 続きを求めたところで何も得られることはない。


 これまでのやりとりからそんなことはわかりきっていた。


 もどかしさが暴発しそうで顔をしかめる。


 何もできないまま表情だけが歪んでいった。


 それでも明らかにゾン美さんは何かを求めている。


 疑いようもなかった。


 憤ると同時に、なんとかするんだ、という決意のようなものが湧き上がる。


 肩を掴んでいた両手にさらに力をこめると、ゾン美さんがしなやかに視線を戻した。


 視線はこちらに向けられた。


 何に惑わされることもなく、何に移ろうこともなく、ありのままに、そのままに。


 揺らぐことのないまっすぐな視線には想いがのせられたせいか、一瞬の中でひどくゆっくりとやってくる気がした。


 ふたりの視線はようやく重なる。


 潤んだ瞳の先に自分の姿があった。


 目と目を合わせてそのまま何かを交わし合う。


 相手を見ているようで互いの瞳に映る自身をも透かし見ているような感覚。


 隔てられた境をひどく曖昧にしながら、やがてふたりは重なっていく。


 そのとき、ふたりはきっと同じものを見ていた。


 じっと見据えたままに同じものを。


 そんな中だった。


 ゾン美さんは瞳をこちらに向けたまま、瞬きもせずにそこから何かを溢れさせる。


 やがて、それはこぼれた。


 瞬間、こぼれたものが何かを打つ。


 穿うがち、突き進み、こじ開けた。


 先にあったのは……


 重なり合ったふたりの姿だった。


「ありがとう」


 ゾン美さんの声は、安らぎの中から、そう、聞こえていた。

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