第46話 傾慕

「早く」


 ゾン美さんはただ首を横に振っただけだった。


「いいから早く」


 同じように首を振る。


「とにかく……」


 ゾン美さんが動じることなくようやく返す。


「どこへ行こうと無駄です、逃げることなどできはしません」


 わだかまりのない口調で言い切った。


 高揚が目の前にあった冷静を確かめると、その温度差が言いようのない当惑を生み、やがて行き場のなくなった感情が懇願としてあらわれる。


「頼むから……」


 へたり込みそうになっていた。


 不可抗力な脱力を前に、ゾン美さんはそれら一切を包み込むように微笑する。


 いつかどこかで見たような気がしたその面様おもよう


 見とれていると、落ち着きはらった様子でそのまま目を静かに閉じた。


 またしても逡巡しゅんじゅん


 それにも見とれる。


 が、すぐに不乱になって呼びとめた。


 何度も訪れる動転に抗するように残っていたのは結局、焦燥だけだった。


 すると、ゾン美さんは沈んでいった先から舞い戻ったようにして静かに口を開く。


「最後に……」


 不意にあらわれた言葉に、一瞬だけ、何もかもが消失していくような気がした。


 それでも必死に自分を繋ぎとめる。


 早く言えよ、と急かすように前のめりになっていた。


 焦燥がはっきりとした対象をもたない怒りにまで変わってしまいそうだった。


「和尚の……」


 すでに些細なことにかまけている余裕などなかった。


 何だよ一体、ゾン美さんの肩を無意識につかんでいた。


 どこにも行ってほしくないほど強く。

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