渋谷の音(ヒューマンドラマ)

 限度額いっぱいまで母がチャージしてくれた電子切符をするりと改札機に滑らせる。いったい誰が使いこなしているのだろうかというほどいくつもの改札口があり、初めて来た僕は右往左往しながらやっとのことで目標としていた改札口にたどり着いた。

「ここが渋谷かぁ」

 思わず声を出して感動する。

 僕は就職を機に上京してきた田舎者だ。どうしても、仕事を始める前に渋谷に来たかった。駅を出てすぐにあるスクランブル交差点は、外国人観光客がわざわざ見に来るほどの有名スポットだと言われていた。

 僕はカバンから特殊なゴーグルとヘッドホンを取り出し、装着した。

 歩行者用の信号が青に変わり、波のように人が歩き出した。僕は静かに目を閉じ、人々の会話に耳を澄ます。どこのスイーツがおいしいだの、昨夜の合コンにかわいい子がいただの、本人たちには大切なのであろう会話が全方向から聞こえた。人々の様子に目をやると、電話口に謝りながら走り去るビジネスマン、友達と笑い合う女子高校生、そしてキョロキョロと周りを見回す自分と同じようなお上りさんもいた。どこぞの国は「人種のるつぼ」と呼ばれていたそうだが、このスクランブル交差点も十分「人種のるつぼ」だろう。

 歩行者用信号が点滅し、赤色に変わった。人々のざわめきは動きを止め、車の騒音が加わる。そこに新発売のCD宣伝用のトラックが軽快な音楽を流しながら走り去っていった。

 僕は開いた口を塞ごうともせず、ぐるりと360度を見回した。

「ここが、渋谷」

 自分が生まれるより数十年前。世界は未知のウイルスが蔓延し、多くの人が亡くなってしまった。一時期は80億人を誇った世界の人口も当時は10億人を下回ったそうだ。消滅してしまった国もある中、日本人は運よく1000万人程度生き残った。人々は感染から逃れるため、我先に田舎へと疎開をしたそうだ。そんな話をおばあちゃんは幼かった僕に何度も話してくれた。きっと僕が考えるよりも壮絶な人生だっただろう。

おばあちゃんはこの渋谷で働いていたそうだ。おじいちゃんと出会ったのも渋谷だったらしい。僕はおばあちゃんが愛した渋谷を見たいと思った。それが、僕が上京して都市再生開発組織に就職したきっかけだ。

 ヘッドホンから流れるクラクション音を聞きながら、先ほど自分の目で見た渋谷を思い返す。渋谷は廃墟が立ち並ぶ大都会だった。

 歩行者用の信号が再び青く光る。

 止まっていたざわめきが動き始め、自分を追い抜いていく声に耳を澄ませる。

「これが、僕の目指す渋谷の音」

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