第2章【夢ではなかった】

 アラームが鳴っている。

 喉の渇きを覚えながらも、枕元にあるであろうスマホを手探りで探す。

 やっと掴んだスマホを見ると画面には『7月22日 水曜日 6:31』と表示されていた。


 あぁ……、まだこんな時間か。……なんだって俺はこんな朝早い時間にアラームをセットしたんだっけ……。


 寝起きのボーっとした頭を何とかフル回転させて考えた。


 あ、みちる。……死神見習いのみちるが朝から掃除と洗濯に来るんだったっけ。

 ……死神? 今、俺ナチュラルに『死神』とか日常生活では絶対に使わないワードを使ったよな。……昨夜のアレ。ありゃタチの悪い夢だった。きっとそうに違いない。


 コンビニやスーパーに買い物に行ったりする以外は、この1DKのアパートの一室に、ずーっと閉じ籠って昼夜逆転の生活を送ってるから、ちょっと神経がナーバスになって、それで変な夢でも見たんだな。


 ……しかし、死神がリクルートスーツを着た、ちんちくりんの女の子って……、俺ロリコンでは無いけどなぁ……、自覚してないだけで、よほど性欲が溜まってるんだろうか?


 敷きっぱなしの布団の上で上半身を起こし、そんな事を考えていると、不意にダイニングキッチンの壁に据え付けられたインターホンが来客を告げた。


「あー、はいはい、今出ますよ」


 俺は頭を掻きながら、急いでダイニングキッチンへ向かい、壁に据え付けられたインターホンの液晶画面を覗き込んだ。


「あ! み、みちる! 死神!」


 液晶画面の中には、魚眼レンズのせいで滑稽に歪んだ月夜 みちるが居る。昨夜俺の元に訪れた死神見習いの女の子だ。


「あー……、クソ! 夢じゃなかったのか……」


 夢にしては随分生々しかったし、現実なんだろうという事は自分でもわかっていた。

 だけども、自分の元に死神がやってきて、1週間後に死ぬと告げられるだなんて……。

 そんなマンガみたいな話は認めたくなかった。……認めたくはなかったが、これが現実なのだ。


 考え込んでいる俺を、再度インターホンから聞こえてきた呼び出し音が俺を現実の世界に呼び戻した。

 また、魔法みたいに部屋の中に突然現れてこられたら困る。俺は寝起きで少々よろけながら、玄関に向かった。


「おはようございます! 小野寺さん」


 玄関のドアを開けると、満面の笑みをうかべた死神見習い、月夜 みちるが立っていた。

 昨夜と同じ濃紺のリクルートスーツ姿だが、両手になにやらパンパンに膨れたビニール袋を3個も4個もぶら下げている。スーパーかどこかで買い物でもしてきたようだ。


「小野寺さん、ちょっとこれ、持ってくださいよー。重いんですからー」


 呆然としていた俺に、みちるはそう言ってビニール袋をいくつか持たせた。


「おまえ……、こんなにたくさん何買って来たんだよ……」

「言ったじゃないですかー。今日は朝から掃除洗濯しますよって。昨日、ざっと小野寺さんの部屋を見た感じじゃ、洗濯機と掃除機以外には洗剤も雑巾も、仙台市の指定ごみ袋すら無い感じだったんで、買って来たんですよー」


 流石は女だ。短い時間で細かいところまでよく見てやがる。


「それに小野寺さん、コンビニ弁当とか宅配ピザとかそんなものばかり食べてますよね? だから、今日は私が朝ご飯を作ってあげようと思って」

「おまえは押しかけ女房かよ……」


 俺の一言に、みちるは急に顔を真っ赤にして怒り出した。


「に……女房とか、な、なに言ってるんですか! うら若き乙女をからかわないで下さい! ……キ、キスだってしたことないのに」

「ハハハ、じゃ俺がお前のファーストキスの相手になってやるよ」

「死ねー!! セクハラ親父ー!」


 みちるはそう言って、勢いを付けたスーパーのビニール袋を俺の脇腹にぶつけてきた。

 2リッターのお茶のペットボトルが入った袋が俺を襲う。


「グホッ!」


 結構な衝撃を喰らい、俺は左の脇腹を抑えてその場に座り込んだ。


「……なんだよ、ちょっとからかっただけじゃねーか。それに俺は親父じゃねーぞ、今年で26歳、おそらくお前より年上だけどよ。お兄さんって呼べよ」


 みちるがいやらしい笑みを浮かべている。


「じゃあ、私の方がお姉さんですね。私は今年で1024歳。小野寺さん、まだまだひよっこです。うふふ」

「……お姉さんを通り越してババアだろ。この妖怪ロリババアめ」


 みちるの髪が逆立ち、目がみるみるうちに漆黒の闇に包まれていく。


「わー、悪かった! 俺が悪かったよ! みちるは可愛い。超可愛い! だから、変身すんなって」

「えー、私ってそんなに可愛いですかー。いやーん。照れちゃいますー」


 みちるは両手で頬を覆って顔を赤らめている。


 ……年頃の女の子を怒らせるのはやめておこう。相手が死神なら尚更だ。


 俺は固く自分に言い聞かせた。


 部屋に入ったみちるは、ヒヨコの刺繍が施されたピンクのエプロンを身に着け、肩まで伸ばした髪をポニーテールのように束ねてキッチンに向かっている。

 不覚にも可愛いと思ってしまった。なんだか胸がドキドキする。


「もー、小野寺さん食器くらいキチンと洗いましょうよー。汚れた食器が積み重なっていたら、キッチンの役割を果たさないじゃないですかー」


 みちるは小言を言いながらも、テキパキと手際よく食器を洗い、汚れた流し台を掃除している。ダイニングのテーブルの上もすっかり片付き、台拭きで奇麗に拭かれている。

 自分の部屋だけど、こんなきれいな状態のキッチンを見たのはいつ以来だろう?


「ほら、小野寺さん。私は朝食の準備をしていますから、少しはあなたも部屋のゴミを片づけるとか、して下さいよ」


 俺はみちるにいわれて渋々部屋のゴミを片付ける事にした。みちるが買ってきてくれた仙台市の指定ごみ袋を取り出し、分別の準備をする。

 部屋のそこかしこに無造作に転がっているコンビニ袋を開ける。中身は主に食べ終えた弁当の容器や空のペットボトル、割りばしや使い捨てのスプーン・フォーク、それにカップラーメンの空容器などだ。

 袋を開けたとたんに酸っぱいような臭いが鼻をつく。


「うわ、クサッ」


 咄嗟に右手で鼻を覆った。よくまあ、食べ終わった弁当の容器なんぞ部屋に放置してたもんだ。他の誰でもない、自分の仕業だけど。


 部屋中のゴミを片付け、同様に部屋中に散らばっていた衣類を一か所にまとめたところでキッチンの方から、みちるが俺を呼ぶ声が聞こえてきた。


「小野寺さーん、朝ご飯出来ましたよー。一緒に食べましょう」


 ダイニングキッチンに出向くと、みちるがテーブルの上に食器を並べている。

 ご飯に焼き鮭、ほうれん草のお浸し、納豆、豆腐と揚げの味噌汁、それに漬物が用意されていた。


「ご飯は炊いてる時間が無いんで、パック入りのやつをレンジで温めて茶碗によそっただけですけど。……さ、食べましょう」

「みちる……、おまえスゲーな。いい嫁になるぞ、おまえは」

「大したことないですよー。お浸しは、ほうれん草を茹でて切って鰹節をのせただけ、鮭は焼いただけだし、作ったと言えるのは味噌汁くらいなもんです。それも大したことないですけど」


 そうは言いつつも、みちるは褒められた事が嬉しいらしく、にこやかな顔をしている。

 朝陽が差し込む部屋の中、ダイニングのテーブルでは俺とみちるが向かい合って朝食を食べている。味噌汁を一口のんだ。うまい。脳裏に幼い頃の朝食の様子が思い浮かんできた。母さんが作ってくれた朝食、素朴だけど美味しかった。

 もちろん、みちるの味噌汁と母さんが作ったそれは同じ味ではない。だが、みちるが俺の為に作ってくれた。それが母さんを思い起こさせた。

 涙が一筋、俺の頬を伝った。それを見たみちるが何事かと俺に問いかける。


「ど、どうしたんですか? 小野寺さん」

「……な、なんでもねーよ。ちょ、ちょっとあくびが出ただけだよ」


 みちるは黙って微笑んだ。


「……ところでさ、みちるはなんで死神になろうと思ったの?」


 俺の唐突な問いかけに、みちるは大きく目を見開いた。


「え? わ、私がなぜ死神になろうと思ったかって?」

「うん、他にもイロイロ進路はあったんだろ?」

「それは……。ウチ、お父さんが死神長なんです。死神全体を統括する役職。小さい頃からずーっと、ウチのお父さん、仕事仕事でほとんど家に居なくて、お母さんは奪衣婆だつえばで……詳しく説明すると三途の川で渡し賃の6文を持っていない亡者から、渡し賃の代わりに着ている服を貰う仕事なんですけど、お母さんも仕事で忙しくて、昼間学校から帰ってきても家では私、独りぼっちでした。あ、ペットの白虎びゃっこは居ましたけど。ミーちゃんっていう名前の白虎。」


 みちるは何だか浮かない表情をしているように見える。


「へえー。みちるのお父さんってエリートなんだな。それにお母さんが奪衣婆って……結構な歳なのか?」

「小野寺さん、何言ってるんですか。奪衣婆と言ったって老人じゃありませんよ。あくまで役職名が奪衣婆ってだけです。それに三途の川の渡し賃の代わりに着ている服を貰うといっても、昔みたいに身ぐるみ剥ぎ取るわけじゃないですよ? あくまで形式的に上着とか……いったん預かって三途の川を渡って貰って、対岸に着いたら預かった衣服は亡者に返します」

「え? 三途の川の渡し船って有料なんじゃないの?」

有料ですよ。だけど、お金のない人から渡し賃の代わりに衣服を剥ぎ取ったり、あとは貧富の差で差別するのかとイロイロ問題になって、700年ほど前から実質無料になってます。それに300年ほど前に開通した三途大橋の影響で、渡し船を使う亡者は減ってきているんです」

「へー、あの世も近代化してるんだなぁ」

「そりゃそうですよ。現世だけが発展してると思ったら大間違いです。小野寺さんをご案内するのは夜行の高速バス、来世号ですよ」

「高速バスかよ……あれ、嫌いなんだよなぁ」

「三途大橋には鉄道も通ってますけど、深夜バスの方が圧倒的に安いですから……、霊界も経費削減でイロイロ大変なんです。……って、私がなんで死神になろうと思ったかでしたね。脱線してごめんなさい」


 みちるはそう言って片目をつむり、短く舌を出した。


「……人間の世界って一定周期で大量の死人が出るんです。疫病、戦乱、天変地異なんかの自然災害……。後から分かった事ですけど、そんな大量の亡者が迷わず霊界に辿り着けるように、お父さんもお母さんも身を粉にして働いていたんです。『一人の亡者も迷わせるな』これ、今でも死神部のスローガンとして使われてますけど考えたの、ウチのお父さんなんですよ」


 心なしか、みちるは誇らしげな表情をしているように見えた。


「今は、お父さんは現場を離れて閻魔庁死神大学校で教員として後進の育成に当たってますけど。私はお父さんみたいな立派な死神になりたい。そう思って閻魔庁に入庁しました。それで、念願かなってようやく死神部に配属されたんです。そんな私の最初の担当が小野寺さん、あなたなんですよ」


 真剣な表情で語るみちるを見ていると、1週間後に死ぬ事が、なんだかとても重大な使命のような気がしてきた。

 公僕としての使命感に燃えて職務を全うせんとする公務員。大いに結構な事だ。

 こういう公務員なら応援したい。……だけど、彼女は死神。そして、そんな彼女の初仕事が1週間後に死ぬ俺を霊界までエスコートするってのは……ぶっちゃけ複雑な気持ちになる。


 みちるは俺の複雑な胸中を察したのか、以降は黙って食事をしている。

 食事を終えた所で、みちるがお茶を入れてくれた。


「おー、サンキュー。みちるは気が利く死神だな」

「えへへ、ありがとうございます」


 死神が淹れてくれた緑茶を飲みながら残りの日々をどう過ごそうか、ぼんやりと考えた。


「よし、旅に出るぞ! みちる」

「どうしたんですか? 小野寺さん、急に大きな声を出して……。旅に出るって……、何処へ行くんですか? 旅費は小野寺さんが出してくださいよー。まさかペーペーの私にたかろうって考えているんじゃないですよね?」

「みちる、心配すんなって。1週間2人で旅をするくらいの金なんて、どうって事ない、大船に乗った気持ちで居ろよ」

「へ、部屋は……泊まる部屋は別々にして下さいよ。お、男の人、家族以外の男の人と同じ部屋で寝た事無いんで……」


 みちるは顔を赤らめ、恐る恐る聞いてきた。


「お、おう……わ、分かってるよ。そんなの当たり前だろ」


 何だかこちらまで恥ずかしくなってきた。


「それはそうと、旅に出る前に部屋を掃除して、汚れた衣服は洗濯してから出かけますよー。立つ鳥跡を濁さず。さ、ひとまず私はダイニングキッチンの掃除と衣類の洗濯をしますから、小野寺さんはお風呂とトイレの掃除をして下さい」

「へーい、……あまり気は進まないけど、みちるに朝飯作って貰ったからな。しょうがない。やるか!」


               *


 ……こんなに汗をかいてまで部屋の掃除をしたのは何年ぶりだろうか?

 世話焼きの死神にご飯を作って貰って、掃除洗濯までしてもらっているんだ。俺が何もしないという選択肢はない。

 それにしても、汚いな……ピンク色の水垢がバスルームのアチコチにこびりついている。我ながらよくこんな状態で風呂に入っていたものだ。ある意味感心するな。

 アパートの狭いバスルームの中ということもあってか、しゃがんで壁や床をスポンジで擦っていると、滝のような汗が全身から噴き出してくる。Tシャツの首元や履いているパンツは汗でべちょべちょに濡れている。

 毎日少しずつ、あるいは風呂に入った都度、掃除をしていればこんなに汚れる事も無かったのかもしれない。

 俺は洗剤が染み込んだスポンジを片手に、そんな事を考えながら壁や床を擦った。


 しばらくして、シャワーで壁や床の洗剤を洗い流した。

 おぉ! 経年による劣化はあるものの、入居した時のような小奇麗なバスルームが復活していた。掃除をするのも悪くないな。さて、お次はトイレ掃除だ!

 気合を入れてバスルームから出ると、ちょうどみちるが衣類の山から、洗う物を少しずつ洗濯機に入れているところだった。


「小野寺さーん、汗臭いっていうか……男臭いですよー。洗濯は毎日とは言いませんが3~4日に一度はするようにしましょうよー。せっかく乾燥機能付きのドラム式洗濯機なんてイイ物があるんですから。清潔感が無い男は女の子に嫌われますよー」

「あぁ、そうだな。これからは意識を改めるよ……っていっても、1週間後に死んじまうのと、明日から旅に出るから、もう遅いか……へへへ」

「心がけだけでもしておきましょう。それだけでも立派ですよ。ウフフ」


 互いに笑いあうと、心の中のモヤモヤが少しだけだが和らいだ気がした。

 本当に1週間後に死んでしまうのかな、俺……。いや、今は余計な事を考えるな勇樹。掃除に専念だ! さ、トイレ掃除、トイレ掃除。


 俺は気を引き締めてトイレ掃除に向かった。トイレはバスルーム以上に長期間掃除をしていない。それを考えると少し気が滅入るが……、仕方がない。他人のトイレではなく、自分の部屋のトイレ。汚したのも自分自身なのだから。

 みちるが買ってきてくれた家事用の薄手のゴム手袋をはめて、柄のついたスポンジを片手に持ち、もう片方にはトイレ用洗剤のボトルを持った。便器に洗剤をかけて柄のついたスポンジでひたすら擦る。額にじんわりと汗をかいてきた。

 企業の経営者が率先してトイレ掃除をするという話をよく聞くが、今まではそういった類の話は全く理解できなかった。ただの対外的なパフォーマンス。そういう風に考えていた。ところがどうだ? 今一所懸命に便器を磨いていると、不思議と気持ちが晴れてくるではないか。何事も経験。確かにそうなのかもな。

 ただ、定期的に掃除した方が良かったね。今更言うのもなんだけど。


 慣れない事をしたせいか、それとも変に力んで掃除をしたせいなのかトイレ掃除が終わったころにはぐったりとするくらいに疲れた。

 トイレからダイニングキッチンに入ると、みちるが乾燥が終わった洗濯物をテーブルの上で畳んでいるところだった。


「あ、小野寺さーん、お疲れ様ですー。こちらも粗方終わりました。洗濯ものがまだ少し残ってますけど……」

「おう、お疲れ! あー、それにしても汗かいたわー。風呂に入りたい気分だ。みちるは汗かいてないか?」


 俺の言葉を聞いたみちるは、洗濯物を畳む手を止め、怪訝そうな表情を俺に向けている。


「小野寺さん、またエッチな事考えてるでしょ? ……わ、私と、い、一緒にお風呂に入ろうとか……」


 みちるは一気に顔が赤くなり、そのまま俯いてしまった。

 ……おいおい、ウブな中学生女子かよ。


「お、お前と一緒に風呂に入ろうなんて考えるワケねーだろ」

「え? わ、私……そんなに女性としての魅力が無いですか?」


 俺の言葉に反応して顔を上げたみちるは泣きそうな表情をしている。

 やれやれ……いちいち面倒くさい死神だ。


「そうじゃねーよ。……み、みちるは可愛いよ。付き合ってもいないのに一緒に風呂に入るとか……イロイロとまずいだろ」


 いや、例え付き合っていたとしてもアパートの狭い風呂に一緒に入るのはどうかと思うが。


「みちるには朝飯も作って貰ったし、掃除や洗濯までしてもらったから、スーパー銭湯でも一緒に行こうかなって思ってさ。ほら、もう午後1時を過ぎてるし昼飯もスーパー銭湯で一緒に食おうかなって思って」


 みちるが目を輝かせて俺を見つめている。


「小野寺さん優しいですー。是非行きましょう! スーパー銭湯!」

「よし、じゃあ俺は支度するから、みちるも今畳んでる洗濯物が終わったら、出かけようぜ」

「はい!」


 みちるはそう答えると、急いで洗濯物を畳み始めた。


               *


 俺とみちるはアパートの部屋から出ると、階段を下りて隣接する駐車場へと向かった。

 砂利敷きの駐車場の向かって左側の列、道路側から数えて3台目。仙台ナンバーの黒いレガシィツーリングワゴンが俺の愛車だ。

 みちるは助手席に乗り込むとワクワクが隠せないといった感じで口を開いた。


「お昼ご飯何食べよー? 小野寺さんは何食べるんですかー?」

「そうだなー……、俺はロースカツ煮御膳でも食おうかなー。みちるもなんでも好きなもの食えよ。俺のおごりだ」


 助手席のみちるは今までで一番の笑顔を俺に見せた。

 車を発進させ、行きつけのスーパー銭湯へと向かう。銭湯はアパートのある六丁の目中町から、県道23号線と137号線の重複区間、通称『産業道路』を挟んで5分ほどの蒲町東かばまちひがしにある。

 我ながらいい場所にアパートを借りたものだ。


 スーパー銭湯に着くと、みちるは驚いた様子で辺りを見回している。


「スーパー銭湯にしてはすごく大きいですねー」


 ここは普通のスーパー銭湯とは違い、スポーツジムも併設している。敷地内にはテニスコートやウォータースライダー付きプールなどの施設まであるのだから、大したものだ。かつて『ウエルサンピア仙台』として宿泊、研修、レストラン、屋内プールを備えた大きな施設であったが閉館してしまい、その跡地の施設を改修する形でスーパー銭湯として再オープンをした、地元民なら誰でも知ってる穴場スポットでもある。


 館内に入り、受付カウンターで入場料と追加の岩盤浴の料金、2人分を支払い、館内着、フェイスタオル、バスタオルのセットを受け取った。


「みちる。先に昼飯食うよな? 腹減ったろ」

「はい、お腹すきました。 えへへ」とみちるが頷いた。


 2人でレストランに向かい。席に案内をされる。みちるはメニューを見てかなり迷っているようだ。


「なんでも好きなモノ食えよ。遠慮は要らないぞ」

「えー、本当にいいんですかー? ……じゃあ、私『恵の織御膳』にします。それに……ジンジャーエール」


 近くの従業員を呼び止め、料理をオーダーした。


「すいません。恵の織御膳一つと、熟成ロースカツ煮御膳。それにジンジャーエール2つと、特製杏仁豆腐を1つお願いします」

「かしこまりました。他にご注文はございますか」

「いえ、それで」


 俺たちのテーブルから従業員が去って行って10分ほど経った頃、オーダーした料理が運ばれてきた。

 みちるの注文した『恵の織御膳』がテーブルに並べられる。

 握り寿司5貫、旬の野菜と海老の天ぷら、蒸し鶏サラダ、手作り豆腐、季節の和え物、豚の角煮、海鮮汁、特製杏仁豆腐……と豪華な内容に相応しく値段もゴージャスだ。

続いて俺の注文した『熟成ロースカツ煮御膳』と特製杏仁豆腐がテーブルに並べられた。

『恵の織御膳』に比べると品数は少ないが、こちらは見た目が豪勢だ。鉄鍋で煮込まれ、卵でとじられた大きな熟成ロースカツをメインに味噌汁、漬物、ご飯がセットになっている。追加で注文した特製杏仁豆腐も、いかにも喉越しのよさそうなプルンとした質感の四角い塊がとても美味そうに見える。


「じゃ、お疲れ!」

「お疲れ様でーす」


 俺とみちるはジンジャーエールで乾杯をした。

 みちるは目の前に並べられた料理を見て、目を輝かせながら『どれから箸をつけよう』と迷っている様子だ。

 まさかスーパー銭湯でこんなに豪勢な食事ができるとは思っていなかったのだろう。彼女の気持ちは良く分かる。

 そんな彼女を尻目に、おれは分厚いカツ煮に箸を伸ばした。濃い黄色の卵でとじられたカツが食欲をそそる。

 しばしの間、2人は無言で食事に箸をつけた。

 ふと顔を上げると、偶然同じタイミングで顔を上げたみちると目が合った。

 互いに照れ臭そうに笑い合う。美味しいものを食べている時、人は自然と笑顔になるものだ。


 デザートの杏仁豆腐まで完食し、二人とも腹をさすっている。


「小野寺さん、ごちそうさまでしたー」

「なに、気にすんな。みちるは朝飯作ってくれたし、掃除に洗濯までしてくれたろ」

「そんな大したことじゃないですよ」

「それはそうと、ここのスーパー銭湯さ、とにかく広くて設備がいいんだ。ハンモックで寝ながら漫画が読めるコーナーとか、イロイロあるから、小一時間休んでから風呂に入ろうぜ。あと、岩盤浴の追加料金も払っておいたからさ」

「えー、ハンモックですかー! 私ハンモックに寝た事ないんです! ぜひハンモックに寝てみたいです!」

「それじゃ、一旦ここで別れてそれぞれくつろぐなり、風呂に入るなりして後でロビーで落ち合おうぜ。……そうだな、午後6時くらいにロビーに集合で、どうよ?」


 一瞬だがみちるが暗い顔をしたように見えた。


「……不安か? 大丈夫だよ、1週間後のはキチンと守る。それに逃げたりなんかしねーから。俺を信用しろよ、みちる」

 みちるの顔に笑顔が戻った。


「じゃ、午後6時にロビーな!」

「はい!」


 俺たちは一旦分かれて、それぞれにくつろぐことにした。


               *


 腕時計を見ると時刻は午後5時52分を指している。

 飯食って、寝て、風呂入って、寝て……、あー何だか疲れた。

 心地よい疲れのおかげで今夜はぐっすり安眠できそうだ。唯一残念だったのは車で来ているのでビールが飲めなかったことくらいか。アパートから車で5分の距離とはいえ、歩けばそれなりの距離だし、時間もかかる。

 あ! どうせ1週間後にゃ死ぬんだった……、タクシーで来れば良かったかな。

 そんな事を考えながら、ロビーの椅子に座り、売店で買ったストロベリー味のアイスクリームを食べていると、廊下の奥からみちるが姿を現した。

 随分とリラックスした様子で、ニコニコと微笑んでいる。


「おう、みちるもアイス食うか?」

「いえ、私は遠慮しておきます。さっきジュース飲んだばっかりだし……」

「そうか、じゃちょっと待っててな。いまコレ食い終わるから」


 俺は残りのアイスを急いで食べ終えると、みちると2人受付カウンターにタオルセットと、館内着を返却した。


 外に出るとムッとした熱気が身体を包み込む。

 みちるもまた、心地よいに包まれているのか、2人は無言で駐車場まで歩いて行った。車に乗り込むと俺はみちるに問いかけた。


「なあ、みちる。お前は今日もホテルに泊まるんだろ? 送っていくぞ。どこのホテルなんだ?」

「あ、すいません。えーと、国道4号線仙台バイパスと県道137号線の交差点の所にあるホテルです」

「なんだ、直ぐ近くじゃねーか。仙台駅の近くとか、もっと遠くかと思ったよ」

「私、車の免許持ってないですし……、それになるべく担当するクライアントの近くに泊まったほうが良いかなって思いまして」

「く、クライアントって……」


 俺は思わず苦笑いをした。みちるも俺に合わせて笑みを返してきた。


「ホテルは何泊予約してるんだ?」

「え? そりゃ、7泊ですよ」

「じゃ、明日以降の宿泊分はキャンセルしておけ。明日から旅に出るからな」

「え? ……あ、はい。分かりました。……で、何処に行くか決めたんですか?」

「いや、まだ決めちゃいねえよ。俺の人生最後の旅なんだ。俺の好きなようにさせてもらうさ」

「はい。私は黙って小野寺さんにお供しますね」


               *


 みちるをホテルまで送り届ける道中、県道23号線と137号線の重複区間、通称『産業道路』に出た。

 この道路の地下には仙台市営地下鉄 東西線が走っていて、今居る場所の下には六丁の目駅がある。

 産業道路に入り、ホテルに向け西に走り始めてすぐ、中央分離帯寄りの車線に誰かが立っている。俺は妙に気になりハザードを点灯させて車を路肩に寄せた。

 中央分離帯の傍らに立っている人物は辺りに街灯があるにも関わらず、そこだけが真黒く、まるで墨で塗りたくられたようになっていて、人物のシルエットしか分からない状態だった。

 俺はハッと息を飲んだ。

 車道に立っている人物に、東から走って来た大型トラックが衝突した。

 ……衝突したと思ったのだが、トラックは黒い人型のシルエットをすり抜けて行ったのだ。


「あ、あれは……」


 もう一度、良く目を凝らして黒い人型のシルエット見つめると、微かに揺れていることが分かった。あれは人物のシルエットではない。人の形をした黒いもやが車道の真ん中で微かに揺れているのだ。


「……あれは、ここで交通事故に遭って死んだ地縛霊ですね」


 助手席のみちるが静かにつぶやいた。


「み、みちる! おまえ、アレが見えるのか?」

「見えますよ。だって私、見習いとは言え死神ですから」


 そうだった、あまりに可愛らしいのですっかり忘れていたが、みちるは死神なんだった。


「おい、なんで死神はああいう地縛霊を霊界に連れて行かないんだ?」

「……連れて行けないんですよ。無理なんです」

「は? どういうことだ?」


 俺はみちるを見つめて彼女が答えるのを固唾をのんで待った。


「……現世に強い未練や恨みを残して死んでいった者の魂は、私たち死神の力を以てしても、救うことが出来ないんです」

「じゃ、じゃあ……アレは……あの黒い靄は、ずーっとあのままあそこに居るのか?」

「黒い靄? あぁ、今の小野寺さんはまだ弱い霊感しかありませんから、黒い靄にしか見えませんが、じきにはっきりと霊の姿が見えるようになりますよ」

「お、おい……冗談じゃねえぞ。俺には霊感なんて無いんだ。なんだって急に霊感が……」


 みちるはバツの悪そうな顔をして、俺から目を逸らした。


「……ごめんなさい。死神の私に触れたから、小野寺さんにも霊感が芽生えてしまったんです……」


 車内にはハザードのリレー音だけが響いている。俺もみちるも黙りこくってしまった。


「あの、私と別れた後、霊を見ても決して凝視したり、耳を傾けたりしないでくださいね。私と一緒に居れば霊の方も死神の私を恐れてむやみに近づいてきたり、悪さをしたりはしませんが、人間だけ、いや小野寺さんだけだと霊がすがってきてしまいます。霊も好きで現世に留まっているわけではありません。彼らも本音では霊界に行きたい、つまり成仏したいんです。だけど、強い未練や恨みが呪縛となって現世に縛られてしまっている。そうした彼らの苦しみは並大抵のものではありません。さらには現世に長い間留まっていることで、霊から魔物に変化を遂げる者までいます。そういう魔物はとても危険です。だから、小野寺さんが一人で居る時は霊を見かけても決して凝視したり、耳を傾けたりしないでくださいね」


 みちるはそう言い終えると、真剣な表情で俺の目を見つめた。


「あ……、あぁ、分かった。気を付けるよ」


 ホテルまでの道のりは5分とかからなかったが、今の俺には永遠のようにも感じられた。

 みちるを降ろしてからの帰り道。俺は反対車線の黒い靄を必死で無視した。ステアリングを握る手は汗でびっしょりと濡れていた。


 俺はアパートに着くと、早々に寝る事にした。さっき見た黒い靄の事が忘れようにも忘れらず、とても気味が悪い気分だったからだ。こんな時にはサッサと寝てしまおう。

 寝室のクローゼットから、布団を取り出すと急いで畳の上に敷き、部屋の照明を消して、頭からタオルケットを被った。

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