第156話
「捻挫の足首は少し腫れが引いてきたね。でも、擦り傷の方がなぁ」
薬草をゴリゴリと調合し終えたミヒェルは私に俯せになるよう言って、昨夜に巻いた包帯を慎重に解いてくれながらの彼の第一声が其れだった。
「酷い?」
「皮がね、なかなかな感じで捲れててさ」
「痛い痛い痛い痛いっ! 聞くだけで痛い! もう私ってば治るまで足の後ろを絶対に見ない! 怖すぎ!」
「薄皮が出来るまでは見ない方がいいと僕も思うよ。あまりにも滲みて痛いようなら言って。前回の薬を軽く拭いて再塗布するから」
「ありがと! もうミヒェルに全力で丸投げするね! お願いします!」
そっと、本当にそうっとした手付きでミヒェルが傷口を拭いてくれた。
ゆっくり丁寧にやってくれているから、当然、時間もそれなりにかかる。
私は素直に大人しくしていて、ミヒェルは手を動かしながら少しして話し出した。
「さっきの質問の続きなんだけどさ」
「おおぅ、何でも聞いて!」
「フェリシアはさ、貴族と平民だったら、どちらを選ぶ?」
「身分の事? うーん、現実的な回答をするなら、別にどっちでもいいかなぁ。食べるのにも困るような貧乏は嫌だけど、普通に生活が出来るなら身分とかは気にしないよ。私ってば居心地重視派だし」
「じゃあ、辺境の村に住むのに抵抗は? 今後の人生の殆どという事だよ?」
「パピヨンの村の事? のんびりしてそうでいいと思うけど」
「王都に未練は?」
「特には。だって私ってば二回しか街に出てないし、そういう意味では未練も無いしなぁ。余裕がある時に旅行に行ければいいかなって程度だよ。旅行は結構大好き」
本当はさ、卒業旅行として家族で京都へ行こうって計画してたんだよねぇ。ママがさ、何をしているのか知らないけど、仕事で特別報酬を貰ったとかでさ。旅行には未来の家族として千夏ちゃんも一緒で、楽しいこと間違い無しだったんだよ。んで、ママのお友達の滋岳さんと向こうで合流するはずだったんだよね。皆で鮎料理を食べようって。もし行った先で蘆屋さんに会ったらガン無視しようって滋岳さんが息巻いててさ。滋岳さんさ、蘆屋さんの事、心の底から大嫌いみたいなんだよね? 高級フルーツくれるいい人なんだけどね、蘆屋さん。
あー…京都の名物お菓子、皆で色々食べようと思ってたんだよねぇ、私ってば。
そういえばさ、陛下から離れるなら、日本に帰りたいなぁ。
飼い主とペットの関係を解消する時に、帰還方法が見つかったか、もう一度聞いてみようかな。
「拭き終わったから、薬を塗るよ。我慢できなかったら言うんだよ」
「あ、うん、ありがと!」
ひやりとした物が足の傷に触れた。
ピリリとした痛みは感じるけれど、我慢できない痛さではない。
私はまな板の鯉状態でじっとしていた。
「あのさ、フェリシア」
「なに?」
「難民申請ではなく、婚姻という手を選んでみない?」
「こんいん?」
「そう、婚姻。結婚するという事」
「え? 結婚?! 誰と誰が?!」
「フェリシアと僕が」
「え? なんで?」
怪我の手当をやってもらうのに俯せになっていた私は、ミヒェルの言い出した事に驚いて顔だけを背後に向けた。
視線の先のミヒェルは手を動かし続けていたけれど、目元を少し赤くしている。
想定外の会話の流れに口をポカンとしていると、ミヒェルの青い瞳が手元の傷から移動して私と目が合わされた。
「フェリシアと一晩接してみて、いいなと思ったのがまず第一の理由」
「お、おおぅ、それは、あの、えっと、ありがとう?」
「第二の理由は難民申請。難民申請の手続きは煩雑だって言ったよね」
「うん、言ってた」
「そして殺到しているとも」
「うん」
「ここ最近は本当に凄い事になっているんだよ」
「難民申請が?」
「そう。難民申請手続きが煩雑なのは仕方ないんだ。虚偽の申請をする者がいるからさ」
「えっと、なんで?」
「トリエスの難民の扱いが、問題のある他国の国民に比べて恵まれているから。あとトリエス国民であっても身上を一新したい疚しい事のある人間も居るしね」
ミヒェルが私の足の傷に視線を戻し、手に包帯を持った。
傷薬の再塗布が終わったようだ。
傷に触れないように私の太腿に手を置き、彼はゆっくりと新しい包帯を巻き出す。
「それに加え今回の戦争だ。この国は今年に入って最初にサデヴァ、そして今度は同時に三ヵ国と戦争を起こした。短期間で合計四ヵ国とだよ」
「…………」
「まずは治安の悪化が著しいサデヴァからの難民が現在進行形で押し寄せている。次いで戦争開始前から大量の難民を出している国がある。レネヴィアさ」
「……そうなんだ」
「もう少し時間が経てば、残りの二ヵ国の国民もトリエスへの移動を考えると思うよ。たとえ国がトリエスに吸収されて晴れてトリエス国民になったとしても、荒れた地域より豊かな地域に移りたいというのは皆が考えることだから」
右足の包帯が巻き終えたみたいで、ミヒェルが私の左足の太腿に手を移した。
「申請窓口は何処も難民で溢れ返ってる。行政がもう追いついていないんだ。そりゃあそうさ。唯でさえ難民の数が倍倍に増えていたのに、数ヵ国と戦争を起こしたんだからさ」
「ミヒェル、詳しいね」
「そうかな? まあ、王都の学府に途中までだけど通ったからかな。まだ学府に居る学友が情報として手紙をくれるんだ。僕の商売の役に立つならと」
「そっかぁ。やっぱりお友達って大事だよね」
「そうだね。で、そんな学友からの情報を得て思うのは、何故こんな無謀とも思える行為を王が行ったのかという事なんだ」
「……王? トリエスの?」
「勿論。周辺国では色々と悪評のある方だが、この国にとっては優れた賢い方だと思っているよ、僕はね。けれど、ここ最近の事は納得がいかないんだ。末端が破綻する程に回らなくなるのが分かっておられると思うのに、今回の強行は腑に落ちない」
「……そうだよね」
私はミヒェルの方を何となく見ていられなくて、顔を俯せの姿勢に戻した。
傷の手当は終わって、今度は捻挫の湿布ゲルを彼は用意している。
未だ熱を持つ患部に冷たいものが当てられた。
「一般の人間には与り知らぬ物事が何かあるのだろうけど、それでも敢えて言わせてもらうなら、我々平民にはいい迷惑だ」
「…………」
「トリエスは全体的に治安が悪くなるよ。旧国境の往来を一時的に封鎖するだろうけど、既に入り込んだ難民を追い出す事は難しい。難民申請窓口がある町や大きい村は治安の悪化がもう言われているよ。僕の耳に届くくらいにね。厳密に言えばサデヴァと隣接している此の村だって全く影響が無い訳じゃない。唐突すぎるんだ、今回の事は。後手にまわっている事も多いし、此処まで事前の根回しが全く無いのは、これまでのトリエスでは考えられなかった事だしさ。まあ、今後の王の手腕に期待といった所なんだろうけど、中央は今、火を噴く忙しさなんじゃないかな。そこは他人事だけどね」
キュッと足首の包帯をミヒェルは結んでくれた。そして「痛くはない?」と聞いてくれながら、私の両脇に手を差し込み、身を起こしてくれる。向かい合うように座ると、ミヒェルは私の左手を握った。
「フェリシアに何が言いたいのかというとさ、この村に居ながら難民申請の順番を待つのは有りだと思うよ。でも申請が通るのが本当に何時になるのか分からない。申請が通るまでの間、トリエス国民としての恩恵が一切受けられないし、僕が一番懸念しているのが、今言ったように、難民申請窓口がある町や村の治安の悪化だよ。フェリシアをそういう場所に行かせたくはない。それに、行政が正常に回り出すまでの期間、いや、その後も暫くは女性ひとりの身では生き難くなると僕は予想するよ。治安の悪化に加え、物価も高騰するだろうしね。王都の学友と此の村に訪れる商人らの情報を擦り合わせるとさ、今回の戦争は開戦した全ての国から賠償金は取れないんじゃないかと思うんだ。加えて、蓋を開けてみればトリエスにとって特需を期待できる程の戦争でも無かったみたいだしね。景気は後退するよ。王の今後の対処如何によっては酷い不況に陥る。ねえ、フェリシア。君はさ、その状況下で上手く立ち回れる? 乗り切れるかな? 僕には君の頑張ろうとする気持ちが空回りする気がするんだ。フェリシアさは、多分、経験値が圧倒的に足りない。今までは特に必要としない生活環境だったのかもしれないけど、現状、そうも言ってはいられなくなった。そして不足する経験を積む余裕は、今は無いと言っていいよ」
「……でも、頑張るしか」
「だから結婚。それがフェリシアにとって安全に、且つ、手っ取り早くトリエス国民になれる方法だよ。簡単だしね。婚姻届けを国に提出するだけだから。極端な事を言えば、今から急げば今日中にだってやろうと思えば出来る」
「……結婚は好きな人同士でするものだよ」
「そうも言ってはいられない場合もあるよ。今回のようにね。それに僕は君がいいなと思ったと最初に言ったし、フェリシアも僕に生理的嫌悪を感じないんだよね?」
「うん」
「気持ちは後からついてくるよ。互いに互いを思い遣る事を忘れなければさ」
「……でも、それでもさ」
「なに? 疑問に思う事は何でも聞いていいよ」
「私ってば、飼い主が好きなんだよ?」
「それは時間が解決してくれるよ。今すぐに忘れろなんて言わない」
「ミヒェルが今、提案してくれた事はさ、私にはメリット、えっと、利点はあるけど、ミヒェルには無いじゃない。……悪いよ、流石にそれは。そういうので戸籍を汚すのはさ」
「フェリシアとの結婚で僕の戸籍は汚れないよ」
クイと握られる私の手がミヒェルに軽く引っ張られた。
座る体勢がそれで崩れる事は無かったけれど、ミヒェルは自身に寄せた私の左手に口づけを落とす。
ミヒェルの青い瞳に私がずっと映り込んでいた。
「利点はさ、僕にもあるんだ」
「本当に? 嘘ではなく?」
「嘘じゃない。昨晩、僕の両親について話したけどさ」
「うん」
「どこまでも君に失礼な言い方だと思うんだけど、気を悪くしないで欲しい。何も出来ないフェリシアはさ、きっと父が気に入る」
「え?」
「貴族の深窓の姫君のように何も出来ない君を父は快く受け入れるよ。そして母は、父との緩衝材になる君は大歓迎さ」
「えっと」
「そして僕は君がいいなと思っている。僕にとっても利点しかないだろう? だから心置きなく僕を利用して欲しい。結婚しよう、フェリシア」
「でも、あの、えっと、私ってばどうしたらいいのか」
「頷いて欲しい。ゆっくりでいい、時間をかけて僕と幸せな家庭を築こう」
「あの、でも」
「頷いて」
「えっと、はい?」
「ありがとう!」
流され戸惑いまくる私の返事に、それでも了承でしかない言葉に、ミヒェルは足の傷を気にしてくれながら私をふんわりと抱きしめた。
それからはミヒェルがまた新しく淹れてくれた向こうの世界でいうレモンバームティーを飲みながら、二人で将来について、のんびりとした感じで話していた。
ミヒェルは子供が好きなようで、恵まれるようなら五人くらいは欲しいらしい。
パピヨンの創作料理屋の構想も聞いた。どう展開していきたいのかも話してくれた。資金も既に用意は出来ているらしい。
パピヨンの加工品の販路の拡張も考えていて、貴族の学友と話をある程度つけているのだとか。
どういう結婚式を挙げたいのかも希望を聞いてくれた。
それ以外にも色々とお話して、価値観は結構一緒だった。
きっと平凡だけれど、でも幸せな家庭を持てそうだなと思えた。
私は恵まれているなと思う。そう改めて思った。
この世界に来た時は陛下が保護してくれた。
攫われたりもしたけれど、クラウディウスさんは私に優しかった。
そして今、ミヒェルが将来を示してくれている。
異世界に来て、向こうの世界の巷に溢れる小説や漫画の最悪な状況には結局陥る事は無さそうだ。
ありがたいと思う。この異世界に来て出会った人達に感謝している。
私はレモンバームティーを飲む。とっても美味しい。
陛下にお礼を言って、さよならをしたら、ミヒェルを好きになろう。
チクチクと心が痛むのは見ない事にして、しっかり蓋をして。
直ぐに忘れろとは言わないとミヒェルは言ってくれたけれど、でもやっぱり陛下を好きで居続けるのは彼に失礼でしかないから。
陛下を好きだけど、忘れよう。
さよならをしたら、綺麗さっぱりと心を入れ替えよう。
そう思ったら色々と決心がついて、私はミヒェルに笑みを見せた。
そんな私を見ていたミヒェルが、私の頬に手を添える。
―――ああ、キスされる。
そう思った時、ふと空気が動いた。
バタンという扉の大きな開閉音は其の直ぐ後から認識する。
「―――そこまで。斬り捨てられたくなければ其のまま此の方から離れろ」
ミヒェルと私の顔の間に、銀色に光る刀身が差し入れられた。
ディルクさんだった。
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