第154話




 ピザもどきを食べ終わって、パピヨンのお茶で口を漱いで。

 寝床だと言われた敷かれた毛布の上に座り込んだ私は今、ミヒェルに三つ編みを解いて貰っていた。

 何故なら、ユーリウス少年によって編まれた三つ編みの結び目がしっかりとし過ぎていて、私には解く事が出来なかったからだ。

 なんだか自分で自分の事が何も出来ない事に情けなさが絶賛襲来中で、更に大変心苦しい事にミヒェルはブラシまで手にしている。自分の髪すら梳かす事が出来ない駄目人間だと思われているようだ。

 もう彼には私が何も出来ない人間だと思われているのは確実だった。


「フェリシアは人にこういう事をされるのに慣れているみたいだね」

「うーん、慣れているというか、ここ数ヶ月、一年近くなのかな? こんな感じだったかなぁ。私の行動が遅いのかもだけど、やろうと思う前に誰かがやってくれて」


 トリエスに居た時はリーザ達が。クラウディウスさんの国に居た時はクラウディウスさんが。あと偶に灰色の瞳の彼も。それだけでなく、部屋に陛下と二人きりの時は、陛下も何だかんだとやってくれていた。前に自分で出来ると陛下に言った時があったのだけれど、陛下は「余がやった方が早い。そのような事に何時まで時間をかけるつもりだ」と言っていたので、やっぱり私の動きが遅いのだろう。地味に凹む。


「フェリシアは貴族?」

「違うよ。思いっきり庶民」

「でも」

「私自身は庶民なんだけど、お世話になっている人が庶民じゃなくて、其処に居候してたから」

「居候?」


 ミヒェルが三つ編みを解き終わった私の髪を手で空気を入れて広げた。それが終わると、毛先から丁寧にブラシを入れてくれる。

 私はもうただただ動かずに大人しくしていた。


「うん。その人とは飼い主とペット、愛玩動物の関係なの。彼の部屋に居候を」

「彼? 男なの?」

「うん、男の人。二十七歳の」


 少しの間、ミヒェルが沈黙した。室内が薪の鳴る音と雨の音、そしてブラシで髪が梳かれる音だけになる。

 そこにコトリとブラシを床に置く音が加わった。私の髪を梳くのが終わったようだった。


「はっきり聞いても?」

「うん、どうぞ?」


 私は振り返って背後に居るミヒェルを見る。彼も私を見ていて、ミヒェルの青い瞳と目が合った。


「それは愛人関係という事?」

「愛人?! いやいや全然違うよ! 文字通りの飼い主と愛玩動物の関係でしかないよ!」


 ミヒェルは納得していないようだった。不可解といった表情を私に見せる。彼は私の背に腕を回して支えてくれながら、毛布の上に横にならせてくれた。就寝準備が完了といったところだろう。

 座ったままのミヒェルの青い瞳が上から私を捉えていた。


「その人は独身?」

「うん、独身」

「二十七歳なんだよね?」

「そうだよ。誕生日が来てたから二十七歳」

「じゃあ、フェリシアはさ、その飼い主という男が奥方を迎えても其処に居続けるの? 貴族の婚姻は重要だろうから、一生独身という事は無いだろうし」

「……え?」

「それにその飼い主、二十七なんだよね? そう遠くないうちに結婚するんじゃないのかな。遅いくらいだよ。貴族にしても平民にしても。二十歳の僕でさえ早く結婚しろと言われているくらいなんだから」

「えっと、あの」

「そういう話は聞かなかった? 相手になりそうな女性について」

「…………」

「フェリシア?」

「えっと、居る、のかな? 二人くらい。……多分」


 クラウディウスさんのお姉さんの王女様と、いつだったかに会話に出ていた幼い王女様が私の頭に思い浮かんだ。

 私がそれについて考えを巡らそうとすると、ミヒェルの言葉が直ぐに続く。


「その人が結婚しても、フェリシアは其の人の部屋に居候を続けるの? 飼い主と愛玩動物の関係だと言ってさ。それが出来ると思ってる? 一般的にはとても非常識な事だよ? だって君は動物じゃない。人間で、しかも女性だ。子供でもないんだから」

「えっと、あの」

「奥方にも失礼だよ。それに、下手をすると其の奥方にフェリシアは殺される可能性だってある。権力を持つ人間なんてそんなもんだよ」

「…………」

「愛人になる覚悟を持っているの? 愛人なら別の屋敷を与えられるかもしれない。でも居候関係は成り立たない」

「……深く考えた事が」


 狼狽え気味に返答する私に、ミヒェルの青い目に厳しさが増した。


「考えなきゃ駄目だよ。必ず訪れる事だから。絶対に考えなきゃ駄目だ。特に相手が貴族なら尚更だ。身分差はそんなに甘いものじゃない」

「えと、」

「もう一度聞くよ? 君はその人の愛人になるの? 愛人になりたいの?」

「……それは嫌。そういうのは絶対に嫌」

「だったら離れないと。たとえ今は居心地が良かったとしても、君は離れないと駄目だ。割り切れないのならフェリシアは確実に不幸になる。その人が他の女性と営む家庭を、君は近くで見続ける勇気はあるの? その様子だと無いだろう? 想像してみなよ」

「…………」


 横になっている私を床に座って上から見ていたミヒェルが痛まし気な表情を見せた。


「なんて顔をしてるの」

「顔?」

「酷い顔だよ。好きなら尚更、その男から離れないと駄目だ」

「……え?」

「君の顔に書いてあるよ。その人の事が好きだって。好きだから離れたくないってさ」

「……好き?」

「そう。フェリシアはその飼い主の男の事が好きなんだよ。だからこそ離れないと。好きなら傷つくよ、君が。どうしようもなくね」


 ミヒェルが私の生え際に触れ、優しい手付きで私の頭を撫でだした。


「好き。私が」


 ―――陛下を好き。


 ポロリと目から滴が零れた。

 その滴は目尻を通り、私の耳に流れ込む。

 滴はポロリポロリと溢れ出した。


「僕の家の話をしようか」

「ミヒェルの家の話?」

「うん。身分が違う者同士が一緒になるという事がどういう事なのか」


 ポロポロと涙を流し続ける私を青い瞳で見つめながら、ミヒェルは淡々と語りだした。









「―――どこから話そうかな」


 私の頭から手を離し、火箸のような物で薪の位置を変えながら、ミヒェルの青い瞳は囲炉裏もどきの炎を眺めていた。

 そんな彼の手元を見る為に、私は怪我した足を気にしながら体の向きを変える。

 火箸は手慰みなのかもしれない。薪の位置を変えた後は意味のない動きをしていた。


「僕はさ、つい最近まで王都ヴィネヴァルデの学府に通っていたんだ。トリエスの最高学府」

「えっと、ごめんなさい。私ってば色々とよく分かってないんだけど、最高と付いているから其れは凄い事?」


 ミヒェルが肩を竦めた。


「凄いよ。平民の身分でよく行けたと思うよ。それも辺境と言っていい国境の村の出身だしね」

「身分が平民だと入学し難いの? 身分差別的な理由で?」

「そうではないよ。そういう意味ではないんだ。学府自体は能力があれば身分に関係無く門戸は開かれている。学府内のあからさまな差別行為も無いしね。でも、そこまで到達する事が平民には難しいという事。学ぶにもお金がかかるからさ。平民は最高学府の門を潜りたくても、そこに行くまで学び続ける事が厳しいんだ。最高学府にさえ入ってしまえば、国が色々と面倒を見てくれるんだけどね」

「そうなんだ」


 手慰みであった火箸をミヒェルは囲炉裏もどきの端に刺した。


「半年と少し前に、この村と国境を挟んで隣接していた国とトリエスが戦争を始めてさ。村が心配になって僕は帰ってきたんだよ。―――学府を辞めてね」


 ミヒェルが立ち上がった。どうやらお茶を淹れるらしい。茶葉が入った容器と茶器を持って戻ってきた。


「飲む?」

「うん、貰おうかな。……で、えっと、せっかく入学できたのに学校辞めちゃったの?」

「辞めた。僕のやりたい事は初めからこの村を発展させて村民の暮らしを良くしたいという事だったから」

「それは凄くいい事だね。村長のお母さんの助けにもなるし、親孝行だもん」

「ありがとう。でも、辞めた事に激怒した人がいる。父だよ。僕を学府の道へと強制したのは父だ。父はね、学府を卒業して僕に官吏になって欲しかったんだ」

「官吏って役人さんだよね? 安定職だから?」


 日本でいう国家公務員でしょ? と思いながら聞くと、ミヒェルは首を振った。


「そういう考え方もあるけど、父の場合は違うよ」


 お茶が淹れ終わったようだ。ミヒェルは寝そべっている私の側にお茶を置いてくれたので、私はゆっくりと体を起こす。

 ポロポロと流れていた涙はとりあえずは止まってくれた。


「父はさ、中央と繋がりを持ちたかったんだ。捨てたものを取り戻したかったんだよ。後悔しているから」

「捨てたものって?」

「身分」


 ミヒェルと私は同時に温かいお茶に口をつけた。今度はパピヨンのお茶では無く、向こうの世界でいうミントティーだ。口の中がスッキリとして、今夜は歯を磨ける環境に無い私にはとてもありがたいお茶だ。


「お父さんは貴族だったの?」

「そう、子爵家の嫡子だった。父が受け継ぐはずだった所領の隣も同じ子爵家でさ。小さい時分は父の弟分だったアルノルト・バルツァーという人物が今や法務長官で、国王陛下の覚えめでたく、家には勢いがあってさ」

「おおぅ、バルツァーさん」

「父は実家の子爵家から縁を切られている。隠しているけど、手紙を出しても送り返されているようだよ。だから父は弟分だったバルツァー法務長官に頼ろうとした。会おうとしたんだよ。貴族に戻る切っ掛けを作る為にさ。馬鹿な話だよ」

「バルツァーさん、会ってくれたの?」


 コトリと小さな音を立ててミヒェルは床にお茶を置いた。同時に溜息もつく。そんな彼を見ながら、私はミントティーに再び口をつけた。


「会ってくれる訳がないさ。門前払いされたようだよ。王城まで行って面会を求めたようだけど、多忙の為と断られ続けたらしい。会う訳が無い。法を司る役目を持つ人なんだ。その職務を理解できない者と関わりを持つ訳が無いんだよ。父はそれが分からない」

「……そっか。そういうものなんだね」

「父は今でも諦めていない。バルツァー法務長官に連絡を取ろうと悪足掻きをしているよ。そして思うように動かない長官を恨み、縁を切り少しの情けも見せない実家を恨み、そして母を最も恨み憎しみ続けているんだ」

「お母さんを? お父さん、優しそうに見えたし、夫婦仲も良さそうに見えたけど」


 ちょっと予想外な話の流れになって、私はミントティーを飲みながら目をパチクリと瞬いた。

 ミヒェルの青い瞳が囲炉裏もどきの炎から私の方へと移る。


「父が身分を捨てた理由が原因だよ」

「理由?」

「恋愛。身分を超えた恋。若い頃の好きだとか愛しているだとかの想いのままに行動して、身分差を乗り越えた自分に酔って捨てた。子爵家の嫡子という立場と貴族という身分を」

「…………」

「燃え上っている時は良かった。でも、人というものは慣れてしまうからね。暫くして冷静になった時に、そこで初めて気づいたんだよ。自分の捨てたものの大きさをさ」


 囲炉裏もどきの中の薪がパシリと爆ぜた。ミヒェルは其処で一旦言葉を止めて火箸を手に取る。室内にカラカラと音を立てながら薪の位置を変えて、再び口を開いた。


「父はさ、自分に身分を捨てさせた母を憎んでいる。勝手に捨てたのは自分なのに。辺境の村の村長の娘でしかない母に貴族をどうこう出来た訳がない。父は自身の矜持を保つ為に表面上は穏やかで優しい人間である事を崩さないけど、母は疾うに気づいているよ。気づいていて見ない振りをし続けているんだ。あの夫婦の間に愛は既に無いよ。あるのは憎悪と後悔さ」


 ミヒェルは囲炉裏もどきの中の灰に火箸を刺し込んだ。


「国境沿いの村に住んでいると、他国の情報もよく流れてくるんだ。特にこの村は商人の往来もあるからさ。その人達が言うには、トリエスは他国に比べて身分に関しては寛容らしい。でもフェリシア、今の僕の家の話を聞いて、本当にそう思う?」

「……えっと、私」

「寛容だろうが何だろうが、身分差というものは歴然と存在するんだよ。フェリシアの飼い主と君との間には超えてはいけない壁があるんだ。越えられないんじゃない。越えてはいけない身分という壁だ」

「…………」

「フェリシアはトリエスの人間じゃないよね? 何処の国の人?」

「……うんと、どう答えていいのか、あの、私ってば分からないというか」

「難民?」

「難民、なのかな」

「なら尚更駄目だ。トリエスは難民に優しい方だけど、難民は難民だ。平民とは有りでも貴族とは許されない」


 ミヒェルの言葉に私は手にしているミントティーの入っているカップをギュッと握った。

 思わずといった行為で、握る指の先が白くなる。


「王都の学府に居た時に貴族の学友も出来て色々と話す機会があったんだけど、友人ならともかく、血族に加える者として家に迎えるのには否定的な貴族が大半だったよ。身分による差別的な気持ちもあるようだったけど、それよりも家門にとって役に立たない人間を入れる拒否感の方が上みたいだったな。貴族の世界は権力闘争だからさ。彼らの考えは理解できるよ。逆の立場なら僕もそうする」

「……そうだよね」

「……そんなに強く握り締めていると手を痛めるよ」


 ミヒェルが眉を下げて、持っていたミントティーの入ったカップを私から取り上げた。


「……うん」


 カップが手から無くなり、自由になった手で私はミヒェルに借りた服の皺をなぞる。

 明瞭に見えていた皺が次第にぼやけてきた。

 再び涙が溢れてきたからだ。


「私ってば、好きだって自覚したばかりなんだけどなぁ」


 飼い主とペットの関係。性格が極悪で中身がオコチャマな野菜嫌いの陛下。ミヒェルの話の貴族どころではない、トリエス王国の国王な陛下。

 無理だなぁと、ただただ思う。振り向かせる為に精一杯頑張ろうとしたところで、そもそもその土俵にすら立てない立場な私だ。難民どころではない。向こうからしたら何処の世界かすら不明な怪し過ぎる異世界人なのだから。

 快適な陛下の部屋でこれからも一緒に暮らしたかったけれど。陛下とお話したり、美味しいものを食べたり、よく怒られてもいたけれど、一緒に過ごす時間がとても楽しかった。

 お城の皆とも仲良くなれたのに。もっともっとたくさん皆と居たかった。

 けれど。

 だからといって、陛下がこれから持つであろう家庭に不和の種を私が植えつけたくはない。勿論、それすら成らないかもだけど、少しの可能性でも排除しないといけないと思うから。


「離れないと、駄目だよね」

「……その方が君にとっていいと僕は思う」

「そうだよね。どうするかなぁ」


 どうすればいいのか、それは勿論今後の事だ。

 雨が止んで山の状態が良くなって此処を出て皆と合流して。その後、とりあえずは陛下に此れまでの事のお礼を言いに行こうとは思う。でも問題はその後。陛下に飼い主とペットの関係の解消をお願いしたその後だ。

 私が陛下の許を離れる事になっても、陛下も、ヴィルフリートさんも、ディルクさんもバルツァーさんもユーリウス少年も、ルドルフさんはちょっと分からないけれど、ホルガーさんもラードルフさんも、きっと生活する基盤くらいは整えてくれるんだろうなと思う。ヴィルフリートさんなんて「ウチに住めば?」とか軽く言いそうだ。

 でも、彼らは陛下に近い。当たり前だけれど、陛下にとても近い存在なのだ。

 それはリーザも妖精もヘロルドさんも、陛下のお城でお世話になった人は皆だ。

 この世界に来た当初、お城を出る事になった場合を心の何処かで想定していたのもあって、乙女の夢であり私の完全な趣味である逆ハー構成団を頑張って作ろうと私なりに動いていた。

 けれど、離れるべき陛下に近い人達に頼れないと分かった今、じゃあ私はどう動けばいいのか、という事が問題になる。全てが振り出しに戻ってしまったのだから。


「頑張ったんだけどなぁ。ミヒェル、私、飼い主から離れた後はどうすればいいんだろう?」

「難民申請もあるし、他の手もあるし、やりようはあるさ。難民申請を選ぶなら、手続きは煩雑だし、最近は殺到していると聞いたから時間はかかると思うけど、それならウチの村に居ればいいし」

「……いいの?」

「いいよ。小さいけれど空いている持ち家がもう一つあるし、それに通りすがりでしかない僕が余計な事を言った自覚もあるしさ。……ごめん」


 謝るミヒェルに、私は泣きながらの笑みを見せて首を横に振った。


「私がね、分かっていたつもりで全く分かっていなかった事にミヒェルが気づかせてくれたの。ありがとね。感謝してる。私ってば一人で生活できるように頑張る」

「手助けするよ」

「ありがとう、ミヒェル」


 ミヒェルが私の方へと手を伸ばし、私の頬を伝い続ける涙を何故か戸惑う様子で拭ってくれた。



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