第145話
―――六千数百年前の遥かなる昔。
何処までも続く広大な森の奥深くで、神獣は樹洞から大きな体の半分だけを出していた。
無気力だった。全てにおいてどうでもよく、少しのやる気も出ない。
つけられた傷を治す事も、水辺に向かう事も、何かを食べる事も。
人間という生き物と同じか、少し大きいと思われる大きさの漆黒の体から、どくどくと体液が漏れ出るのを放置して、神獣は小さすぎる紅い目を瞑る。
神獣は自分がどのような存在かは、地上に生まれた時から理解していた。
しかし何故、生を受けた場所が地上であったのかは分からなかった。
何かを聞こうにも誰も神獣の言葉を解する者が居ない。そもそも姿すら見る事の出来る者が極端に少ない。
稀に。本当に稀に神獣の姿を見る事の出来る者が居ても、皆が皆、牙を向いて攻撃してくるのだ。
今、体液が漏れ出ているのも其れが原因で。
孤独だった。どうしようもなく寂しかった。
何故、神獣である自分は此の地上に居るのか。いつまで存在し続けなければならないのか。
長すぎる生はきっと辛い。孤独との闘いになるだろう。
―――狂わなければいいけれど。
それが何よりも神獣は怖かった。
あまりの無気力に瞑っていた小さな紅い目を神獣は開けた。
あってはならない気配を感じたのだ。
時空が強引に捻じ曲げられてこじ開けられる、そういう気配。
最初に感じたのは禍々しい力。
次第にそれを浄化するような力が加わり、しかし開かれ続ける空間をどうする事も出来ない、そんな感じ。
こじ開けられた空間から生き物が出てきた。それに付随して人ならざる者も数体。
それらが完全に此方の世界に足を下ろしたのを確認して、神獣は力を使って空間を閉じた。
このまま開き続ければ地上に悪影響を及ぼすからだ。
これは理に反しない。制約から逸脱しない。
神獣は別の界から現れた生き物に視線を向けた。
人だった。此方の世界に存在する人と同じ見た目。神獣を傷つけた者とも同じ。でも、其れらとは比較にならない程にとても力の強い者。魂の輝きが凄い。強靭で力に満ち溢れている。
生き物は不思議な衣を纏っていた。手にしている半円のものをパチリと閉じ、溜息を深くついている。
そんな様子の生き物は周囲に在る人外の者に囲まれながら、ボソボソと愚痴りだした。
「蘆屋道満にしてやられた。界を超えてしまったよ」
神獣は注意深く小さな紅い目で生き物を見ていた。
この生き物は自分が見えるのだろうか。もし見えたら、やはり傷つけてくるのだろうか。
恐怖に顔を歪ませて―――。
「さて、どうするか。―――おや、君、怪我をしているではないか。可哀想に」
生き物が神獣に気づいたようだった。
黒い瞳を突然輝かせ、目尻を下げて。少しの躊躇いもない様子で近づいてくる。
不思議な衣が土で汚れるのも構わずにしゃがみ、異様に大きい腕の部分の衣を地に引きずりながら手を伸ばしてきた。
触れるつもりなのだろう。
神獣は樹洞から出していた体を引っ込めた。
「ああ、入らないで。此方へおいで。怖がる必要は無いから」
『(……放っといてよ)』
「そう言われても、怪我をしているのを見てしまっては放っておけない性分でね」
『(ボクの言葉が分かるの?)』
「分かるよ? 君はこの界の神獣だろう? 先程、歪みを閉じてくれたのだよね。ありがとう、助かったよ」
『(……うん)』
不思議な衣を纏った生き物は樹洞の中に手を入れた。ひんやりとした神獣の体に触れ、体液が漏れ続ける傷に其の手を当てる。変わった手の動きをさせて、生き物が口の中でモゴモゴと何かを呟くと、漏れ続けていた体液が止まった。
『(…………)』
「何故君はこのような寂しいところで一人怪我をしているの」
『(ボク、嫌われているから。稀にボクの姿が見える人が現れるんだけど、皆、気持ちが悪いって言うんだ。神獣だって伝えたくても、ボクの言葉を分かる生き物は居なかったよ。君が初めてかな。お話出来たのは)』
「そうかな? 探せば居るのではないかな。何かの縁だ。探してあげようか?」
『(……いいの?)』
「いいよ。本当なら君を私の界に連れて行きたいところだけれど、それは君の理に反してしまうのだろう?」
『(うん。一時的にという訳でないなら行けない)』
「決まりだね。其処から出ておいで」
不思議な衣を纏う生き物が神獣の頭を優しい手付きで撫でた。それに少しの安心感を覚えた神獣は、のそりとした動きで樹洞から這い出る。
漆黒の大きい体を完全に外に出した神獣は、目の前の生き物の手の甲が傷ついているのに気づき、長く伸ばす事の出来る舌でベロリと舐めた。
『(君も血が出ているよ)』
「ああ、本当だ。でも大した傷ではないよ。蘆屋道満に使い魔を差し向けられてね。同時に卑劣な術も何重にも仕掛けられて、しくじってしまったよ」
神獣に舐められた手を嬉しそうな表情で眺め、不思議な衣を纏う生き物は立ち上がった。
「まあ、偶にはこういうこともある……と言いたいところだけれど、界を渡ってしまって、今、内心では正直困っていたりするのだけれどね」
『(美味しいね、君の血)』
「そう?」
『(うん。力が漲っているよ。能力者なんだね。それも強力な。元の界に帰りたい?)』
「そうだね。やらなければならない事があるから。都をあのまま放ってはおけないかな」
『(分かった。じゃあ、ボクが元の界に帰るのを手助けしてあげるよ。君と協力すれば大丈夫だと思う。向こうと繋がる物があれば、もっと確実かな)』
神獣の言葉に不思議な衣を纏う生き物が微笑んだ。
「ありがとう、助かるよ。繋がる物は偶然だけれど所持している。滋岳殿に対になる物の片方を渡されていたんだ。調べるようにと」
『(よく分からないけれど、良かったね?)』
「良かったよ。でもその前に、君の声を聞ける者を探そう」
『(ありがとう。優しいね。―――君の名前はなんて言うの?)』
「私の名は晴明。安倍晴明という」
『(セイメイ)』
「そう。そして気になっていたと思うけれど―――」
そう言いながら、晴明は自分の周囲に控える人外の者らを、不思議な衣の大きな袖を広げて指し示した。
人外の者らは気難しそうな表情こそしていたが、神獣への敵意は全く無かった。
「私の周囲に居るのが人ならざる者。十二天将と言われる者達で、右から
巨体の白い獣に伸し掛かられ、ガブガブと頭を噛まれている晴明に、神獣は頭を傾げながら一応忠告のようなものを言う事にした。
『(セイメイさ、トウシャとテンクウとビャッコの姿ってボクと一緒で怖がられると思うよ。多分だけど)』
「ああ、大丈夫。姿を変えられるから。この界の者に接触するのだから、人型になってもらうよ。向こうの界でも偶に視える者が居てね。悲鳴をあげられるのも煩わしいから、その辺りは臨機応変に対応しているんだ」
『(ふーん。じゃあボクも姿を変えた方がいいかな? 黒いし、目は紅いし、大きいから。今の体を脱いで捨てれば、もっと小さくなれるよ。色も変えられる)』
「今のままでいいと思うよ。なにせ今から力のある有り難い神獣様として売り込む訳だし」
『(そうなの? 分かった。セイメイの言う通りにする。ねえ、ビャッコ、セイメイの頭から血が出てきたから噛むの止めてあげて? なんか痛そうだよ?)』
白虎が晴明から離れた。
晴明の額から流れる血を、神獣はとりあえず舌をベロンと伸ばして舐め取る。
晴明の血は、やはり美味しかった。
「ありがとう。ところで、今度は君の名を教えて?」
『(ボクの名前?)』
「そう、君の名前」
『(ボク、名前は無いよ。気づいたら地上に神獣として生まれてたから。誰とも話せなかったし)』
「名付けてもよい?」
晴明が柔らかく微笑んだ。
『(付けてくれるの?)』
「私で良ければ。いい?」
『(うん!)』
「では―――魚はどうだろう? ウオ」
『(ウオ?)』
「そう。どう?」
『(うん! ウオ、気に入った! ありがとう、セイメイ!)』
「(礼など言うな、神獣ウオ。晴明の名付け能力が壊滅的だと今知った)」
「そのような事はない! 酷いな、騰虵!」
「(確かに、ウオは無いな)」
「天空までっ! ……痛い痛い痛い、本当に噛むのは止めて、白虎っ」
『(そうなの? でもボクは嬉しいから。本当にありがとうね、セイメイ)』
「良かった! では行こうか。向こうの方角に微かにだけれど感じるものがある」
晴明が先程パチリと畳んだ棒のようなもので遠くを指した。
小さく紅い神獣ウオの目が、晴明の言う方角を眺める。
再び血が垂れてきた晴明の額をペロリと舌を伸ばして舐めて、神獣ウオはのそりと動き出した。
『(あっちの方向はガルダトイアという小さい国が興ったばかりかな)』
「では其処に。皆で仲良く旅をしよう。短い間かもしれないけれど、宜しく、ウオ」
生まれた瞬間から孤独で嫌われものだった神獣は、異界の生き物である安倍晴明と、人外の騰虵、天空、白虎と共に、少しの間だったけれど楽しい旅をしたのであった。
それはもう神獣ウオにとって幸せすぎる時間に他ならない―――。
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