第143話




 ガルダトイア王城から王都の地下を通るという王族専用の隠し脱出路を抜けた先は、鬱蒼とした夜の森の中だった。

 其処から北東方面に伸びる広大な森は、神話の時代に神獣が降臨したという神聖な森である。

 そのような森に手にした明かり以外の然したる備えも無く、護衛する騎士が一人も居ないという信じ難い状態で、ガルダトイア王城の王妃付き侍女であるデスピナは、ガルダトイア神王国第二王女アルシノエと二人、手を繋ぎながら一生懸命に走っていた。

 森の木々の迫り出た根や、人が踏み荒らしていない柔らかい腐葉土に足を取られる。

 デスピナがよろめくと、王女であるアルシノエが繋ぐ手に力を入れて支えてくれた。


『申し訳ございません、アルシノエ様』

『いいのよ。気にしないで。それより体は大丈夫?』

『え? はい、大丈夫でございます』

『そう。良かったわ。急ぐわよ。出来るだけ王城から離れて、事が落ち着くまで身を隠さないと。頑張るわよ』


 いつも綺麗に編まれている銀色の髪を無造作に一つに括り、黒い瞳に難しそうな色をアルシノエは宿して、デスピナの手を気遣う様子で引っ張り走る。

 そんなアルシノエにデスピナは感じ続けていた疑問の言葉を投げた。


『アルシノエ様、お聞きしても?』

『走りながらで良ければいいわよ』

『あの、何故、王城を脱出しなければならないのでしょう?』

『気づかなかったの?』

『何をでしょうか?』


 問い返されてデスピナは首を傾げた。

 アルシノエの黒い瞳がチラリと疑問符を浮かばせているデスピナに向かい、繋ぎ合う手の力を些か強める。

 走り続ける二人の息遣いが、深い森の中ではやけに目立った。


『双子が殺されたわ』

『……え?』

『それだけで済むはずがない。騎士らが動いているけれど、入り込んだ賊の方が上手な気がするわ』

『賊……』

『ええ、そう。十中八九トリエスよ。悪魔の手先が王城に入り混んでいるの。狙いは勿論王族ね。レオニダス兄様が戦死なさったわ。双子は殺され、ヴィネリンスに居るクリスティーヌ姉様も無事であるとは考え難い。そんな状況で王城に侵入よ? 狙いが王族でなくて何なの』


 デスピナが柔らかすぎる腐葉土に再び足を取られた。

 すかさずアルシノエが繋ぐ手で体勢を支えてくれる。

 何も分からないデスピナに、アルシノエが説明を続けた。


『お父様とお母様が対応に追われているわ。クラウディウス兄様は必死に奪われた神獣の乙女をお探しになっている。間に合うとよいのだけれど、相手はあのトリエスなのよ。かなり厳しい事態だと思っているわ、わたくしは』

『……トリエス』

『今後がどう転ぶにせよ、わたくし達だけでも逃げ切るわよ。古より続く血脈を繋いでいかないと。繋いでいけば、いずれまたガルダトイア神王国は復活する。尊い神の血脈が再び継承者を誕生させるのよ。この森に狩猟をする者たちの集落があるの。王族に何かあった時の保護先ね。そこに一旦身を隠して、万が一にもガルダトイアが亡国とされたのなら此の森で繋がっている隣国に移動するわよ。ここまではいいかしら?』


 アルシノエの王女らしい明瞭な物言いに、デスピナは少しの逡巡の後に首を縦に振った。


『それは……分かりましたが、あの、わたくし達だけでも繋ぐというのは?』

『あら、わたくしが分からないと思っているの? 医療の神術を得意とするのよ? だって貴女―――』

『―――アルシノエ王女、何処へ行かれるおつもりですか?』


 走り続けていた二人の気配しか感じられなかった鬱蒼とした森に、突如、男の静かに語る声が乱入した。

 アルシノエは息を飲んで足を止め、デスピナも驚きに心臓を跳ね上げながら立ち止まる。

 二人の行く先の木の影から、緩やかな曲線を描く金髪をひとつに束ねた男が姿を現した。


『誰?!』


 険しい表情でアルシノエが誰何の声を放った。

 それを聞いた男は場違いにも優雅な微笑みを浮かべ、夜会の会場で出会ったのかと錯覚を起こさせる仕草で礼の形を執る。

 男はアルシノエに視線を遣ってからデスピナにも碧い瞳を向け、意味あり気に口角を上げた。


『そうですね、一先ずご挨拶を差し上げましょう。私はトリエス王国軍第一騎士団団長ヴィルフリート・アッヒェンヴァルと申します。お見知りおきを』


 王女にあるまじき歯軋りの音がアルシノエから聞こえた。

 それにヴィルフリート・アッヒェンヴァルは面白そうに片眉を上げ、デスピナはそんな彼が恐怖でしかなく震える。

 デスピナから見るヴィルフリート・アッヒェンヴァルは、酷く楽しそうだった。

 忌々しさと嫌悪が滲む声音をアルシノエが出す。


『……悪魔の犬畜生の一匹』 

『おや、そのように言われているのですか? 私が犬畜生の一匹なのであれば、他の面子は死神、ルドルフ、ディルクあたりでしょうか。なんにせよ光栄ですね』

『何故、此処に現れたの』

『予想がおつきでしょう? ガルダトイア王族の血脈である者らを始末しに』


 ヴィルフリート・アッヒェンヴァルが浮かべていた微笑みをニタリとした笑みに変えた。


『貴女が使われた隠し通路は既に此方は把握済みでしてね。珍獣様、いえ、神獣の乙女も脱出の際にお使いになられたのですよ。其処まではご存じでは無かったのかな? ガルダトイア王族の情報伝達網に不備があるようですね。ああ、混乱の最中なのか。次々と殺されていたでしょう?』

『お前っ』

『トリエス王国軍の第一と第十三が現在王城に潜入中です。任務は確実に遂行されるので、幾らもしないうちに王族全員が始末されるでしょう。死後の世界で感動の再開を果たされるといい』


 ヴィルフリート・アッヒェンヴァルが一歩、アルシノエとデスピナに近づいた。

 近づかれた分だけ二人は下がる。

 僅かにだが金属の擦れる音を立て、ヴィルフリート・アッヒェンヴァルが腰に下げていた剣を抜いた。


『ガルダトイア神王国第二王女アルシノエ、トリエス王国国王マティアス陛下より御命を奪うよう命令が出ています。諦めなさい。あの方は決して見逃さない。どのような手段を使ってでも地の果てまで追いかける方だ。逃げられない、誰も。―――そう、神獣の乙女でさえも、ね』


 抜き身の長剣を手に、余裕さを崩しもせずに嗤う眼前の男がとにかく怖くて、デスピナは震え続ける体をどうする事も出来なかった。

 本来なら身を挺して守らなければならない王女アルシノエの背に隠れ、彼女の手を縋るように繋ぎ続ける。

 そんなアルシノエの手がデスピナの手を振り払うように離れた。

 デスピナは驚きに目を見開く。


『あっ』

『逃げて、貴女だけでも! デスピナ!』


 デスピナはアルシノエに肩を押された。行けと、此処から離れろと。


『早く行きなさい! 逃げるのよ! 遠くに! 貴女にはその義務がある事を悟りなさい、デスピナ!』

『アルシノエ様!』

『させないよ? 私は二人を此処で屠るつもりだからね』

『知って―――』

『当然。トリエスの諜報を舐めないで貰いたいね』


 ヴィルフリート・アッヒェンヴァルの手にした剣がアルシノエの体に吸い込まれた。

 瞬間、アルシノエの口から鮮やかな血が滴り落ち、おかしな呼吸音も漏れ出す。

 肺を傷つけられたのだ。

 突き刺した得物を手慣れた様子でヴィルフリート・アッヒェンヴァルが抜き、アルシノエが崩れ落ちるように大地に伏した。


『アルシノエ様っ』


 デスピナは震える両手で口を覆い、悲鳴を上げる。

 アルシノエの息はまだある。けれど、彼女のドレスが勢いよく真っ赤に染まっていく。

 デスピナは跪いた。震えがずっと止まらない手で、アルシノエの頬に張り付いた銀色の美しい髪をそっと避ける。呼吸の度に口から溢れ出る血がデスピナの手にベタリと付き、アルシノエのピューピューとした呼吸音が徐々にか細くなっていった。


『……酷い。なんという事を』

『人の心配をしている場合かな? 私は此処で二人を屠ると言ったと思うのだけれど』

『どうして……』


 デスピナの全身から力が抜けた。

 アルシノエの命を懸けた望みを無碍にしたくは無かったが、目の前の恐ろしい男から逃げ切れるとは思えなかった。

 アルシノエが言ったではないか。悪魔の犬畜生の一匹と。

 この男、ヴィルフリート・アッヒェンヴァルは、大陸中を震撼させ、人々に恐怖と絶望しか植え付けない悪魔、トリエス国王マティアスの忠実なる犬なのだから―――。


『ねえ君、神力を持つ血脈の血の味はどのようなものか知っている?』

『血の、味?』

『そう、血の味』


 アルシノエの血に染まった刀身をデスピナによく見えるように掲げ、ヴィルフリート・アッヒェンヴァルは興味深げに赤い其れを眺めていた。


『神の力を宿す血は果たして甘いのか、辛いのか、苦いのか。それとも普通の血と同じ味なのか。持たない者らを見下し続けた血は、その行為に相応しいものだったのか。是非、この機会に確認してみたいものだけれど、まあ、実際は不衛生だしね。出来ないのが残念かな』


 諦めたように息をついて、ヴィルフリート・アッヒェンヴァルが掲げていた赤い刀身の先をデスピナに向けた。


『神獣の乙女がこの世界に現れて直ぐの頃に聞いた事なのだけれど、彼女の世界では肌の色が差別の理由の一つとしてあるらしい。けれど、この世界ではそういった事は聞かないよね。どうにもならない理由の差別を解消するのはとても時間のかかる難しい事だけれど、この世界は極一部の神の力を持つ血脈だけが差別をする側だ。ならば原因となる目障りな其れらを排除するのは別になんら悪い事ではないと思うんだよ、私は。それで地上の大半の者らが不快な思いをしなくて済むのだからね。その考え、間違っているかな?』


 ヴィルフリート・アッヒェンヴァルがデスピナとの間を縮めた。


『……ひっ』

『まあ、我が主は他に思うところがあるようだけれどね』


 血濡れた刀身の先がデスピナの顎に触れ、持ち上げられた。

 デスピナの瞳とヴィルフリート・アッヒェンヴァルの碧い瞳がヒタリと合う。

 生きている者の確かな証である温かい涙がデスピナの頬を伝った。


『君自身には何の価値も無い。本来なら見逃されるどころか此方が気にも留めない路傍の石だ。―――だけれど君、王弟の子を身籠っているよね』


 ビクリとデスピナは体を大きく震わせてしまった。

 それは決して取り消す事の出来ない肯定の意味でしかない愚かしい反応だ。

 デスピナの頬を伝う涙が止まらなかった。


『ゆ……許して。見逃して。お願いします、この子はどうしても産みたいの』

『我が陛下は地の果てまで追いかける方だと先程言ったと思うけれど聞いていたかな? 見逃されないし、私も見逃す気は無い。私の理由も説明した。それに、その腹の子の父は既に他界している頃だと思うよ? 私の部下がその任務を負っていたからね』

『……え?』

『死後の世界で家族水入らずで過ごすといい。どちらにせよ君のその気性では、頼る者無しに王族の子を産み育てる事は出来ないだろう』


 溢れて止まらない涙の先に見えたのは、一切の感情を消した恐ろしい程に無表情な悪魔の犬と、アルシノエの動かなくなった体。

 そして彼女の血に赤く染まった刀身が、デスピナ自身に躊躇いも無く埋まっていく光景で。

 埋まり、剣が引き抜かれ、仰け反り、大地に還るように倒れて。

 鬱蒼とした森の木々の葉の隙間から星々が見え、デスピナは愛する王弟殿下を想い、そして謝りながら、幾らも膨らむ事の出来なかった腹に手を当てて静かに息を止めた。



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