第142話
―――ラガリネ王国王城、王女宮。
自分に与えられた美しい宮の庭園で、美しい使用人らを幾人も従え、茶器を広げて、今年十歳になったラガリネ王国王女アルベルティーナは我が世の春を謳歌していた。
両親である国王夫妻は遅くに出来たアルベルティーナを溺愛して何でも与えてくれる。年の離れた兄達もアルベルティーナのお願いを大抵は叶えてくれた。
欲しい物や人は何でも手に入る。王城では頭を下げる必要性は殆ど無く、誰もがアルベルティーナに跪いた。
アルベルティーナは十歳と幼くはあったが、それを正しく理解していた。
緩やかに編まれた淡い金の巻き毛の髪を可愛らしく揺らめかしながら、長い睫毛に縁どられた緑色の瞳を輝かせる。
目の前に美しく飾られた菓子が運ばれてきたからだ。
アルベルティーナは美しいものが大好きだった。菓子もドレスも宝石も。自分の周囲に置く使用人達も。年の離れた姉姫が其れに眉を顰めているのを知っている。姉姫はきっと美しいものに囲まれる事によって、それに自分が埋もれる事を良しとしないのだろう。なんとも狭量な事だと、アルベルティーナは侮蔑していた。
美しいものには順位がある。その最上位に位置する二人のうち一人が近いうちにアルベルティーナのものになりそうだった。
アルベルティーナは自身の表情が歓喜に彩られ続けているのを自覚している。
金髪に青い瞳を持つ美しい使用人の一人である今一番のお気に入りのゾフィーアにお茶の追加を指示しながら、アルベルティーナは美しく飾られた菓子に手を伸ばした。
美しい菓子は美しい存在を連想させる。
アルベルティーナが手にする美しい存在の一人。それは―――。
『お父様は何をグズグズとなさっているのかしら? 美しいという噂が絶えないマティアス陛下が、わたくしの夫となるのよ? 早く契約を締結して欲しいわ。わたくし、直ぐにでもヴィネリンスに移りたいのに』
手にした美しい菓子をアルベルティーナは口に入れた。サクリとした食感で、甘くてとても美味しい。アルベルティーナの大好きな果実の風味でもあった。
『わたくしがトリエスに嫁ぐのに何の迷いがあって? トリエスは大陸一の大国よ? マティアス陛下は其処らの国王が太刀打ち出来ない程の莫大な財産をお持ちと聞いたわ。絶大な権力を手にされているとも。姿絵も見たわ。何の不満もわたくしは無いのに。マティアス陛下はとても美しいもの。そうは思わなくて? ゾフィーア』
話を振られた侍女ゾフィーアは、困ったような微笑みを見せた。
菓子を手にした事で、ほんの少しベタついてしまったアルベルティーナの指を丁寧な仕草で拭ってくれる。
されるがままに手を任せたアルベルティーナは、ゾフィーアの妖精のような容姿に満足を覚えながらも不満の言葉を続けた。
『お父様を始め、老臣達の考えは古いのよ。トリエスが地獄の地と言われているから何? マティアス陛下が悪魔という二つ名を持っておられるから何なの? 地獄なんて神話時代の迷信ではないの。悪魔の二つ名だって、お強いからでしょ? 血脈についても気にしていると思うわ。わたくしがまだ何も知らないと思っているようだけれど。わたくしから言わせれば、全てがただの僻みでしかないのよ!』
拭い終わった手がゾフィーアから解放された。
それと同時にアルベルティーナはお茶に手を伸ばす。腹立たし過ぎて喉が渇いてしまった。
お茶には赤い薔薇の花弁が浮かべられている。
ゾフィーアが困ったような微笑みを浮かべ続けながら、アルベルティーナがお茶で火傷をしないよう補助にまわった。
アルベルティーナは其れを当然の事と受け入れる。
『仕方がございませんわ。トリエスはとかく評判が悪いのですもの。それにトリエス国王も恐ろしい御方だとよくお聞きします』
『分かってないわね、ゾフィーア。大陸中の王が僻んでいるから悪評が立つのよ。マティアス陛下は正当な評価がされていないだけ。わたくしは早くトリエスに行きたいわ。直接お会いしたい。きっととても素晴らしい御方だと思うの』
『トリエスの王城ヴィネリンスにはガルダトイアのクリスティーヌ王女が長く滞在されているとお聞きします。アルベルティーナ殿下がご不快な思いをなさってしまうのではないかと私は心配でございます』
アルベルティーナが手にする空になった茶器を、ゾフィーアがやんわりと取り上げた。
手が空いたアルベルティーナは、再び菓子に手を伸ばしながら、年齢不相応の笑みを見せた。
『馬鹿ね、ゾフィーア。クリスティーヌ王女なんて敵では無いわ。七年もヴィネリンスに居て王妃になれないのよ? それもガルダトイア神王国の王女という肩書をも持っているのに。情けない女でしかないわ』
『ですが、年齢の問題もございます。十歳であられるアルベルティーナ殿下と二十七歳におなりになったマティアス王は十七歳差でございますわ』
『それこそ何の問題があるの。わたくしが若いってだけよ。あと五年お待ち頂ければ、わたくし、立派に王妃の御役目を果たしてみせるわ。なに? まだ何か思う事があるような顔ね、ゾフィーア』
『珍獣と呼ばれる者がマティアス王のお傍に居るという情報が』
『知っているわ』
アルベルティーナは手にしていた菓子を皿の上に放り投げた。
『異世界の品の無い庶民を寵愛していると、お姉様が意地の悪そうなお顔で教えて下さったわよ。でもだから何よ。わたくしがヴィネリンス入りすれば終わる事。殺せばいいわ。遣り方なんて幾らでもあるもの。お兄様の影を借りて連れて行くわ。直ぐに終わる話よ』
『……そう上手くいくでしょうか』
『いくわよ! ゾフィーア、貴女もヴィネリンスに連れて行くわよ! わたくしの手足となり働きなさい!』
そうアルベルティーナが当然の命令をゾフィーアに下した時だった。
バサリと羽音を立てて、群青の美しくも禍々しい色の羽を持つ一羽の鴉が、妖精のような容姿に困った様子の微笑みを絶やさなかったゾフィーアの上を旋回した。
周囲の侍女らが突然の事に息を飲み動きを止めた中で、ゾフィーアが平然とした態度で止まり木にするように腕を伸ばす。
群青の鴉がゾフィーアの許へ下降し、羽を畳んだ。
『……ゾフィーア、それは何?』
『ご覧の通り、鴉でございます。伝書用の』
『伝書? 何処と』
『トリエスとでございます。―――まあ、ようやくご指示が貰えましたわ』
アルベルティーナの眼前で、群青の鴉の足に括り付けられていた紙を器用に外し広げ、ゾフィーアはアルベルティーナが一度も耳にした事が無い嬉しそうな声音を上げた。
『トリエス? どういう事?』
『アルベルティーナ殿下がお慕いになっておられるマティアス陛下からでございます。アルベルティーナ殿下、遅かったのでございます、ラガリネは。マティアス陛下は唯一を見つけてしまわれた』
『何をっ』
アルベルティーナは立ち上がった。
―――此れは危険な存在。
激しい警鐘が全身に鳴り響く。十年ではあるけれど、王族として身についていた察知能力が一刻も早くゾフィーアから離れろと自分に告げる。
アルベルティーナは通常よりも離れた所に控えている騎士らに声を上げようとして、冷たく長い針が自分の喉元を貫くのを感じた。
美しい者で揃えているとはいえ、無粋な得物を腰に下げている騎士らを遠ざけていたのが仇になった。
侍女らの悲鳴が上がる。
そんな中、少しも狼狽える様子を見せずにゾフィーアが美しい笑みを見せた。
『苦しむ事の無い毒を塗っておりますのでご安心下さい。数年という短い間でしたが、アルベルティーナ殿下、良くして下さりありがとうございました』
手慣れた様子でアルベルティーナの喉元から針を引き抜き、ゾフィーアがアルベルティーナを椅子に座らせた。
アルベルティーナはまだ意識が有り、自分の命が急速に奪われていくのを理解する。
全てが突然のことであり過ぎて、死への恐怖が感じられない。
死ぬ事への実感が湧かなかった。
―――お父様、お母様、お兄様、お姉様、どうしよう、助けて。
『自己紹介がまだでございました。私はトリエス王国軍第十三騎士団所属ゾフィーア・ザイツと申します。トリエス国王マティアス陛下より、ラガリネ王国アルベルティーナ王女の始末を命じられ、任務を只今遂行致しました。ご安心下さい。ラガリネ王国は滅びます。アルベルティーナ殿下の御家族も直ぐに殿下を追う形となるでしょう。私は此れでようやくトリエスに戻れます。ヴィネリンスに私の妹達が居るのです。ヘルミーネ、ルイーゼと申しますが、珍獣様に大変良くして頂いているとの事。早く戻りたいですわ、トリエスに。貰う手紙を読むと、とても楽しそうなのですもの』
段々と霞んでゆくアルベルティーナの緑の瞳に「ずるいわ」と口を尖らせるゾフィーアが映り、悲鳴を上げ続ける同僚であった侍女らにゾフィーアは冷たい視線を投げて言った。
『早くお逃げになった方が宜しいわよ? 巻き添えになりますもの。周囲に分かるように私に伝書が送られたという事は、貴女方の言う悪魔の手下のトリエス軍は、もう直ぐ其処。一部はこの王城に既に潜入しているでしょう。彼らはまず王族と重臣らを始末していくと思いますから、今から逃げればもしかしたら助かるかも? 軍同士の衝突もあります。どうぞ其れ迄に。トリエスとガルダトイアが戦端を開いたというのに、この国の危機意識の低さは何なのでしょう。不思議でなりませんでした。―――ああ、ラガリネ近衛騎士の皆さん、遅いですわ。アルベルティーナ殿下をお守り出来ないなんて、なんという無能。マティアス陛下でしたら即斬首を言い渡しますわ。あの方、無能は大嫌いであられますの。まあそれは私もですけれど。あら、私に剣を向ける暇がお有りだと思って? 来ましたわよ、ほら、其処にトリエスの者が。私の頼もしい下僕達ですの』
それがアルベルティーナの最後に聞いた言葉だった。
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