第141話
―――どうして、どうして、どうして。
村の少年イリアスは、必死に足を動かして走った。
何がどうなって今の状況になっているのか全く分からない。
ガルダトイア神王国王都の北西に位置する長閑で平和なはずの小さな村全体が、今、激しい炎に包まれていた。
生活の大切な糧である家畜を放置し、消火活動もせずに村人は必死に逃げ惑う。
それもそのはずで、村は今、悪魔の手先であるトリエス王国軍に蹂躙されていた。
何故このような何もない小さな村を彼らは襲うのか。不思議でならなかった。疑問でしかなかった。
村の誰かが言った。
トリエス軍は何かを探しているようだ、と。
イリアスは走りながら、解けかかった銀色の髪を括る紐を縛り直す。
黒い瞳に村を焼き尽くす炎を映しながら、イリアスは叫んだ。
『母さん、アネーシャ、何処に居るの?!』
母親と幼馴染の少女が心配でならなかった。
大好きな二人だった。イリアスにとって、大事で大切で掛け替えのない二人。
イリアスに父親は居ない。イリアスが赤子の時に事故で死んだと聞いた。母親が女手一つで育ててくれて。感謝してもし足りないくらいに大切で大好きな母親だった。
幼馴染のアネーシャも大切な存在だった。いつも気にかけてくれた。助けてくれた。優しくしてくれて、たくさん二人で遊んだ。大好きだった。恋愛という意味でも。
そんな二人が見つからなかった。一体、何処に居るのか。先に無事逃げる事が出来たのか。
探して走り回っているうちに、イリアスは村の中央広場まで来てしまったようだ。
中央広場は小さな噴水と気持ち程度の花壇があって、普段なら村人の憩いの場だった。
つい数刻前にはイリアスとアネーシャだって、この広場で手を繋ぎ笑い合っていたのに。
広場全体に視線を巡らすが、逃げ惑う村人らの中に母親もアネーシャも見当たらなかった。
直ぐに別の場所を探そうとイリアスは踵を返そうとする。
しかし出来なかった。イリアスの前に短い褐色の髪を持つ一人のトリエス軍の男が立ち塞がったからだ。
寡黙そうな雰囲気の男で、地獄の花の青薔薇色の瞳にイリアスを捉える。
男が口を開いた。
「―――見つけた」
『え?』
「銀髪に黒い瞳。神王の落胤。イリアス」
青薔薇の瞳の男が剣を抜いた。
『な、なんで? どうして?』
一歩一歩ゆっくりと近づいてくる青薔薇色の瞳の男に、イリアスは後ずさりした。
足を縺れさせ、尻もちをつく。
それでも近づいてくる男に、尻もちをつきながらも懸命に後ずさった。
男の持つ得物の刀身が村を嘗め尽くす炎の色に染まる。
男はそれをイリアスに向けた。
今、イリアスを支配するのは疑問と、どうしようもない恐怖。震えが止まらなかった。歯の根が合わない。逃げ惑う人々の悲鳴と家屋を焼き尽くす炎で村全体は騒々しい限りなのに、カチカチと歯の鳴る音だけは鮮明に耳に入る。心臓が早鐘を打っている。恐怖で全身の血が頭に上っているのが分かる。息が上手く吸えない。手の平は地面を触っているのに、土の感触を全く感じる事が出来なかった。
それ程の恐怖。命を強制的に絶たれる不条理への絶望。イリアスの黒い瞳から知らず涙が零れる。
男が剣を振り上げた。
その瞬間だ。
『止めて!』
イリアスと男の間に探していた母親が飛び出してきた。
茶色の髪を振り乱し、母親は男を拘束するように必死な様子でしがみ付く。
得物を振り上げていた男の動きが一旦止まった。
『お願い、止めて! この子は見逃して! 何も主張しない! 何も求めないわ! 王都にも行かせない! もっと遠くの田舎の村へ行かせるから! そこで一生を終えさせる! だから!』
『―――退け。用があるのは王族の血を引くイリアスだけで、王城の元使用人では無い』
『どうしてトリエスが神王陛下に見捨てられた子でしかないイリアスを殺そうとするの! トリエスに何ら影響は無いではないの!』
『理由を言う必要性を感じない。もう一度だけ言う。退け』
『……母さん、どういう事?』
『逃げて! イリアス、逃げなさい! アネーシャと一緒に! 貴方はあの子と幸せになるの! 二人一緒なら何処に居ても楽しく過ごせるはずよ! アネーシャは今、村に火を―――』
『イリアス! おばさん!』
アネーシャの声だった。
イリアスは声のした方へと視線を向けると、いつも綺麗に編まれている三つ編みはボサボサで、着ている服も煤で汚れてボロボロな姿のアネーシャが居た。
剣を持つ男の姿を視界に入れると、アネーシャは目を見開き、次いで睨みつける。
そんなアネーシャの目に涙が滲んだ。
『イリアスは渡さない! 殺させない!』
アネーシャがイリアスに向かって走り寄った。
逃げる為に。逃げて逃げて逃げ切って、平凡でも小さくても、心温まる可愛らしい幸せを掴む為に。大好きなイリアスを守る為に。逃げて、一緒に過ごして、結婚して。命を育み、家庭を持って。皆で食卓を囲んで笑い合って、晴れた日には花の咲いた丘の上で美味しいパンを食べよう―――。
『アネーシャ!』
『アネーシャ、この子をお願い!』
『イリアス、立って!』
『―――行かせる訳が無いだろう。警告はした』
男が動いた。
手にする得物の向きを変え、イリアスの眼前でまずは母親から。
『母さんっ』
炎の色に染まっていた男の剣が、母親の真っ赤な血で彩られる。
男の身から縋りついていた母親の手が離れた。
体が地面に倒れ、母親の纏う服が勢いよく血の色に染まっていく。
『か、かあ、さん』
『おばさん! イリアス、早く! おばさんは貴方に逃げなさいって言ったのよ!』
アネーシャがイリアスの前に辿り着いた。それと同時にイリアスを引っ張り立たせ、直ぐさま走り出す。
『―――邪魔だ』
母親の血で赤く染まった男の剣が、アネーシャの背中を貫通した。
走る勢いのままアネーシャは大地へと伏し、更に赤い色を濃くした得物を男は引き抜く。
倒れ伏した物言わぬアネーシャの身から、剣が引き抜かれた瞬間に血が噴き出した。
『…………あ、あね、あねーしゃ。え、なんで? おきて? どうして?』
『逆らわなければ死なずに済んだ』
イリアスはアネーシャの体から零れ落ちる赤い命に震える手を当てた。
―――いかないで。流れないで。お願いだからアネーシャの体に留まって。
止まらない涙で視界を歪ませながらアネーシャに手を当て続けるイリアスに、男が剣を向けた。
イリアスはその動きにつられて男の方を向く。
男の青薔薇色の瞳と目が合わさった。
『お前も彼女らと共に逝け。恨むのなら己の身に流れる血に』
二人の血で赤く光る剣を男が振り上げた。
イリアスが最後に見たのは、その刀身が勢いよく自分の頭部へと向かうのと、男の手首に革紐を通して括られた不思議な形の青い石だった。
トリエス王国王城ヴィネリンスの青薔薇庭園の庭師であり、トリエス王国軍第十三騎士団副団長ベルント・ツァイラーは、血糊で汚れた剣を手近にある息絶えた者の衣服で拭った。
ある程度拭い取ると鞘に収め、その場を後にする。
火を放たれた事でイリアスの発見が遅れ、余計な時間を費やしていた。
早く次の任務に移らなければならない。
「王城に向かう」
ベルントは周囲に集まりだした配下の者に退去の合図を送った。
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