第121話




 水音がして、額に頬に口元にと冷たい布で顔を優しく擦られるのに、私は意識をゆっくりと浮上させた。

 瞬かせながら目を開けると、幾つかの柔らかい光に照らされた山小屋の室内で、クラウディウスさんが寝台の端に腰をかけ、私の顔を拭っていた。


「目が覚めてしまったね。ごめん。でも、もう少し拭わせて欲しい。君はそのままで」


 そう静かに彼は言って、シンジュツで作った光に長く綺麗な銀髪を煌めかせながら、粗末な椅子に置いた木桶に拭っていた布を浸した。


「君の着るものの予備があったから着替えさせたよ。小川の水で濡れていたし、色々と汚れてもいたから」

「ありがとう、ございます」

「うん。……気分の方はどう?」


 クラウディウスさんが濡れた布で私の口元から顎にかけて拭いだした。

 冷たくて、今の私にはとても気持ちがいい。


「まだ少し胸がムカつきますけど、大丈夫そうです」

「……そう」

「陛下の部屋でも吐いた事があるんですけど、その時は長引いてしまったんで、早めに治まりそうで良かったです」

「………………」


 拭う布が顎から首にかけて移動した。クラウディウスさんが引き続き、優しく丁寧な手付きで拭いてくれる。

 そんな彼が銀色の秀麗な眉を僅かに寄せた。


「……この首飾りは邪魔だね」


 そうポツリと言って、クラウディウスさんは陛下によってつけられた首輪を手にとった。


「それ、陛下につけられたんですけど、陛下が持っている鍵がないと外せないらしいです。剣でも叩き割れない材質にしたって言ってました」

「……そう。国に戻ったら、この手のものに詳しい者に見せよう。この石が、」

「石?」

『君への執着を感じさせてね。忌々しい気持ちしか湧かないから』

「…………」


 クラウディウスさんは時折、会話の途中でトリエス語ではない言葉に替わる。

 やはり異国語での会話より母国語での会話の方が話しやすいからなのかなと思うのだけれど、なんとなく。なんとなくだけれど、クラウディウスさんが母国語であろう言葉で話す時は、気分を害していそうな様子なのは私の気のせいだろうか。

 でも、そんな事を聞く訳にもいかないと流石の私でも分かるので、私は胸のムカつきを少しでも逃がすように息を吐いて、彼に拭かれるがままに大人しくしていた。


「そういえば君の本当の名前を聞いていなかったね。向こうの世界での君の名前は何と言うの?」

「あー…私の名前。私ってば、向こうの世界での名前は、この世界では言わない事に決めたんですよね」

「どうして?」

「陛下がね、珍獣だって言うから。あの無駄に偉そうな陛下が謝りながら聞いてくるまで絶対に言わないって思って。ドレスはもう今回着ちゃいましたけど」

「……陛下、ね」

「はい。あ、でも、ウオちゃんと一緒の珍獣同士なので、今は珍獣で満足しています」

「ウオちゃん?」


 クラウディウスさんが首を少しだけ傾げた。それによって銀色の髪がゆらりと揺れて淡い光源で輝き、彼を幻想的で至高の存在のように錯覚させる。

 鮮やかな血の色の瞳が私を映し続けた。


「はい、珍獣三号のウオちゃん。お城の地下のアヤシイ小部屋で発見された両生類なんですけど、向こう世界のオオサンショウウオに形が似ているんです、って、クラウディウスさんも見てますよね? 陛下のお誕生日の時に。あの赤い光線を発射したのがウオちゃんです」

「そう。君は、あの存在にそういう名をつけたんだね」


 ふわりとした感じでクラウディウスさんが微笑んだ。何故か嬉しそうな様子なのに私が問うような視線を向けるけれど、彼は拭いていた布を木桶に戻し、私の手を取る。

 そして私の手を口元に持っていき、そっと口づけながら言葉を紡いだ。


「―――繋がっている」

「繋がっている?」

「うん。全てがね」


 彼は何処か満足そうにそう言うと私の手を離し、今度は私の背中の下に手を入れた。


「体を起こすよ? 座れそう?」

「あ、はい。大丈夫です」


 そう返答すると、彼は私の体をグイッと丁寧に起こしてくれた。

 次いで、寝台の足元に置いてあった少しも汚れていない新しい外套のようなものを手にして、私の体に羽織らせてくれる。

 それが終わると小テーブルを少しだけ引き寄せて、置いてあった場に不似合いな美麗な杯をひとつ手に取った。


「水は飲める?」

「あ、えとえと、私ってば水は要らないです!」

「喉は乾かないの? 戻していたし、水分を体に入れておいた方がいいと思うけれど」

「あの、あのあの、出来れば、なんでもいいのでお酒なら飲めるかな、なんて」


 自分でもこんな時に何を言っているの、と激しく思うのだけれど、正直、何か飲みたいのは事実だし、喉は凄く乾いているし、背に腹は代えられないというかで思い切って言ってしまう。

 それでも、あまりに気まずすぎて上目遣いでクラウディウスさんを見ると、彼は何かを考えている様子だった。


「お酒……」

「はい。あ、でもでも、こんな時にお酒も何もないですよね! じゃあ、あの、あのあの、水をですね、一度、」

「あるよ、お酒」

「え?」

「お酒はある。―――そうだね、飲みたいのなら、この際だしやってしまおうか」


 何を思いつき何を決めたのか、クラウディウスさんはそう言うと寝台から立ち上がった。

 そしてシンジュツによって作られている淡い光の中を品のある動作で足を進め、外への扉を開ける。

 しかし扉を開けはしても外へ出る事はせずに、その場で誰かに声をかけた。


『誰でもいい。果実酒と真珠を持ってきてはくれないか。用意はしてあったと思うけれど』


 そんな彼の言葉に誰かが返事をしていた。が、室内の奥に居る私の位置からでは、その声はいまいち聞き取れない。

 クラウディウスさんが何かを受け取ったようだ。彼は扉を閉めて、淡い光に照らされながら此方へと戻ってくる。

 そして手にした物を小テーブルの上に静かに置いた。

 置かれた物は、向こうの世界でも、陛下の部屋でもよく見たワインボトル一本と、装飾の施された小箱だった。

 私がそれを見ている中で、彼はまず美麗な杯の中身を木桶に捨てた。次にワインボトルを慣れた様子で開けて、それを杯に注ぐ。それを終えると今度は小箱を開けて、中身を一粒だけ取り出した。


「真珠だよ。今から作るのはね、ギズューズと言って、果実酒に真珠を入れて溶かして発泡させて飲むものなんだ」

「ぎずゅーず?」

「うん、そう。此処まではね、神官や貴族達が何かの時に偶にやる飲み方。でも王族には、というより継承者にはギズューズを使ったある儀式があってね」

「儀式、ですか?」

「うん」


 そこで一旦クラウディウスさんは会話を切ると、果実酒を入れた杯に真珠を入れた。


「え、何?! クラウディウスさん、何をしているんですか?!」


 次に彼がした事に私は喫驚して、口元に両手を当てて寝台の上で後ずさった。

 クラウディウスさんは杯の上に左手を翳し、右手の二本の指を真っすぐに伸ばしてスッと線を描くように横切らせた。そんな動作しかしていないのに、彼の左手から瞬時に血が滴り落ちる。

 その滴り落ちた先は杯の中で―――。


「継承者はギズューズに自分の血を入れて、その相手に飲ませる。そういう儀式があるんだ。まあ、これは数ある儀式の中のひとつという事なんだけれど」

「あの、血が、傷が」

「傷? ああ大丈夫だよ、この程度。深くは無いし、直ぐに血も止まる。それより、」


 クラウディウスさんは翳していた左手を杯から離すと、懐からハンカチのようなものを取り出して傷口に手際よく巻きつけた。

 そして血と真珠の入れられた杯を手に持ち、寝台に居る私にピタリとくっつくように座る。

 私は彼に肩を抱かれ、口元に杯を寄せられた。


「―――飲んで」


 そんなクラウディウスさんの言葉に私は驚倒だよ!


「えっと、あのあのあのあのあの、血なんて飲めません、私ってば!」

「そんな事はない。飲めるよ、飲んで」

「無理ですって! 私ってば、蚊じゃないんです! 蚤でもなければ蛭でもないんです! ヴァンパイア、吸血鬼でもないんだよ?!」

「飲めるよ。君はトリエス王の血を既に飲んでいるのだから」

「え? 陛下の血? 飲んでいませんよ! 陛下の血なんて!」

「いや、飲んでいる! でなければ、あれが姿を現す訳がないんだ! 血の契約が成されなければ、私と君以外の大半の者は見る事も出来ないんだよ! ましてや力を振るうなど有り得ない!」

「本当に飲んでいませんって! 陛下は血を飲めなんて一言も言わなかった! そんな事、陛下は絶対に言わないです!」

「とにかく飲んで―――」

「いやっ!」


 口の中に中身を強引に流し込もうとするクラウディウスさんの手首を押して、私は力いっぱい血の入った杯を叩き払った。

 杯は中身を全て飛び散らせながら、木材の床の上を転がり滑る。

 それを二人で目で追って、私は少しの後悔もない安堵を、クラウディウスさんは押し黙った。

 多分だけれど、彼は静かに怒っている。それもかなり。

 クラウディウスさんは小さく息を吸って吐いた。

 時間にして三十秒くらい。お互いに何も話さずにいて、それが過ぎると彼は上着のポケットに手を入れて小瓶を出した。

 中には数粒の黒く丸いものが入っている。


「まだ胸がムカつくと言っていたよね?」

「…………はい」

「それも嘔吐した程に」

「……はい」

「これはその薬だよ。胸のムカつきを改善する薬。これを飲んで暫くすれば嘔吐する事も無くなる。……それに今からする事はトリエス王ともしたはずだよ」


 そう淡々とした様子でクラウディウスさんは言うと、一粒の黒い玉を取り出して、コトリと小テーブルの上に小瓶を置いた。

 そしてそれを自らの口の中に入れ、左手で私の後頭部を、右手で私の両頬を押すように掴み、上半身の重みで私の体を寝台に倒して、無理矢理に口を合わせてくる。


「……っん」


 彼の右手に押されて強引に開かされた私の口の中に、クラウディウスさんの舌が入ってきた。

 けれど、舌を絡めるとか舐めるとかそういうのでは全然なくて、彼が薬と言っていた粒を私に強引に飲ませようと、奥へ奥へと押し入ってくる感じだ。

 暫く私も舌で抵抗していたけれど、それがとても苦しくて、とうとう負けてコクリと粒を嚥下してしまう。

 それが分かったのだろう、クラウディウスさんはゆっくりと合わせていた口を離した。

 起き上がって、彼には似合わない自嘲するような薄笑いを浮かべる。


「噛まないんだね。私の血を少しでも君の中に入れようと思ったのに」


 その言葉に私は全身に震えが走った。


「か、噛みませんよ、人の舌なんて!」


 嫌だよ、そんなの、怖くて出来ないよ!

 血! 血! 血! 血! 血!

 血なんて飲みたくないよ! 見たくもないよ! 

 考えないようにしていたのに!

 助けに来てくれたトリエスの人達が血まみれになったのも!

 体格の逞しい男の人の首から血が噴き出したのも!

 絶対絶対絶対考えないようにしていたのに!

 少しも思い出さないようにしていたのに!

 怖いよ! 陛下、怖くて仕方がないよ!


「どうしたら君は、私の血を飲んでくれる?」

「いやっ、絶対飲まない! 陛下っ! 陛下陛下陛下陛下陛下ぁ!」

「君は!」


 クラウディウスさんが私から身を離し、立ち上がった。


『君は直ぐに陛下、陛下、陛下、陛下だ! 君の中はトリエス王で占めていて、私の入る隙が見えない! 君は私のものなのに! 私のものなんだ! 最初から私のものであるはずなのに!』


 私には分からない言葉でクラウディウスさんが捲し立てる。

 そんな彼の血で出来た魔法石のような瞳は、とても酷く傷ついているように見えた。


『…………血の契約を交わし、体の関係までも持つ。継承者でないトリエス王を、あれが認めたのは今でも不思議だけれど。でもそれよりも何故、君はトリエス王の下に落ちてしまったのだろう。選りにも選ってだ!』


 そこまで言うと、クラウディウスさんは扉の方へと足早に歩いて行き、扉に手をかけた。


「―――先程の薬を飲むと、いずれ胸のムカつきは消えるとしても、暫くは体調を崩すと聞いている。少しでも今は休んで。また後で、私の頭が冷えたら様子を見にくるね」


 小さな声でそう言って、彼は外へと消えた。


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