第120話



■ 「」 『』 について ■


「」 …… トリエス語・日本語。珍獣が理解できる言語。

『』 …… ガルダトイア語など。珍獣が理解できない言語。




******* ****** 120 話 ******* ******** *****




 肌の痒さに意識が戻り目を開けると、周囲は真っ暗で何も見えなかった。

 暫く朦朧としていたけれど、暗闇と、気を失う前に見たトリエスの人達が血まみれになる光景を思い出して、震えて歯の根が合わなくなる程の恐怖を私は覚える。


「……ぁ」


 彼らは全身から血しぶきをあげていた。

 腕も足も胸も腹も、首も顔も頭も。

 足が脛の辺りから千切られていた。指が手から離れて何本も飛んだのが見えた。胸も腹も切り裂かれて中の物がズルリと出る瞬間も目にした。首から血が勢いよく噴き出し、見えない刃は眼球の上をも滑り割り、髪がついたままの頭皮が捲れていた。

 全ては一瞬の出来事で。

 彼らは、あれで助かる事が出来たのだろうか―――。


「……ぅあ」


 酷い吐き気が込み上げる。

 これ以上は考えては絶対に駄目だと、少しでも気持ちを誤魔化す為に私は起き上がり、痒みのある肌に爪を立てて掻いた。

 寝かされていたところにダニか何かの虫が居たのかもしれない。

 そんな痒みに何度も何度も強く掻いているうちに、私はそのこと自体に違和感を覚える。

 そう、しっかりした生地で仕立てられていた陛下のお下がりの長袖の服を私は着ていたはずだ。

 なのに今、私の腕は剥き出しで―――。


「え、どうして?」


 服は着ている。裸では無い。

 でも身を纏う服は薄く滑らかで繊細さを感じさせる生地で、ふんわりとした仕立てのようだ。


「なんで陛下の服じゃないの?」


 ただでさえ怖くて仕方ないのに、どうしようもない心細さも其処に加わる。


「陛下……」


 そう私が呟いた時、蝶番の軋む音を立てて扉がゆっくりと開いた。

 開いた扉の隙間から、揺れる明かりが仄かに差し込む。

 扉の向こうは外のようで、焚火をしているようだった。

 それを背景に誰かが立っている。逆光で顔は分からない。


「―――気がついたようだね。体は大丈夫?」


 かけられた声はクラウディウスさんのものだった。


「暗いね。今、明かりをつけるから待っていて」


 そう言われて、時間にしたら五秒ほど。幾つかの柔らかい光が周囲に舞った。

 それによって視界が開け、自分が粗末な小屋の中の簡素な寝台の上に寝かされていた事を知る。

 扉はクラウディウスさんが入ってきたものしかないから、部屋はひとつだけの小屋なのだろう。

 室内は狭く、陛下の寝台とは比較にならない程に固くて小さい寝床が一つ。学校のノートを広げたくらいのサイズの小テーブルが一つ、籠が一つ、粗末な椅子が一脚あった。

 部屋の端には薪と思われる小枝の束が積まれていて、丸太で組まれた壁には幾つかの狩猟の道具のような物がかけられている。

 ずっと剥き出しの腕を搔いていた手を、クラウディウスさんが押さえた。


「そのように掻いていたら肌に傷がつくよ。これ以上は血がでてしまう」

「……痒くて」


 クラウディウスさんが寝台に居る私の横に腰を下ろした。

 そして掻いていた私の腕を取り、そこにそっと口づける。

 彼の長く美しい銀髪が私の肌を擽るように撫でた。


「ごめん。この寝台のせいだね。そこまで気がまわらなかった。此処を経路と定めた時、サデヴァの戦況が悪かった事もあるし、あまり時間も無かったから」


 そう言いながら私の腕を彼は離すと、今度は横になっていて乱れていたのだろう私の髪をゆっくりと梳き出す。

 そして何とは無しに二人で室内に舞う淡い光に視線を向けた。


「綺麗だろう? 神術で作った光だよ」

「しんじゅつ?」

「うん。出来る程度はあるけれど、私自身も神力を持っているんだ」


 クラウディウスさんはそこで一旦言葉を切ると、私の髪を梳いていた手を下ろし、今度は寝乱れた私が着ている服を整え出した。

 シンジュツで作られたらしい淡い光に照らされて初めて目にする服は、ガルなんとか国の王女様が着ていたドレスに形が似ていて、それを簡素化した感じのものだった。


「―――これ、」

「うん、着替えさせたよ。着ていた服は森の中での移動で汚れてしまっていたしね。元々この山小屋を経由する予定だったから、事前に用意をしておいたんだ」

「あ、あの、あのあの、」

「どうしたの?」

「あのね、えっと、私ってば、ドレスは着ないって決めてて」

「どうして?」

「陛下に色々言われて。んで、陛下が謝るまで絶対にドレスは着ないって」


 私の言葉に、クラウディウスさんの表情がほんの少しだけ翳った。


「ドレスと君は言うけれど、それはドレスという程のものではないよ? 君に男物の服はあんまりだし、それに……『トリエス王の物と分かるものを身に纏っているのは私が耐えられない』」

「……あの、えっと」


 彼の突然の言語の変更に私は戸惑うけれど、クラウディウスさんはそれに特に反応する事はなく、腰を下ろしていた寝台から離れた。


「立って。それでは寒いだろうから、女性物の外套も用意してある。これを羽織って」


 小さいテーブルの近くに置いてあった籠の中から、厚手の生地で一部にリボンがあしらわれている外套を彼は取り出す。

 そして、有無を言わせない様子で私の体に巻き付けるのに、何も言い返す事も出来ずに私は素直に頷いた。


「……はい」

『―――君はいつも、あのように派手な下着を身に着けているの? トリエス王の趣味嗜好?』

「え? あの言葉が、」

「ううん、何でもないよ。行こう、簡単なものだけれど、食事を用意してあるから」


 そう言ってクラウディウスさんは私に肩に手をまわし、扉の外へと促した。








 外に出ると、今が夜である事が分かった。

 空にはたくさんの星が煌めいていて、地球から見える月より大きめな星も夜空に浮かんでいる。

 私が寝かされていた建物は教えられた通り山小屋のようで、その小屋の前の少し開けた空間に焚火を起こし、クラウディウスさんの仲間が囲むようにして倒木に座っていた。

 クラウディウスさんと私が近づくと、まず最初に話をかけてきたのは、焦げ茶色の瞳の彼だった。


『使えないお姫様が、やっとのお目覚めか。服を着替えたところで穢れている事実は変わらないのに、クラウディウスもよくやる』

『ラザロス、いちいち突っかかるのは止めろ。聞いている此方が不快になる』


 機嫌が悪いのか、忌々しそうに何かを言う焦げ茶色の瞳の彼に、トリエス語を話せる灰色の瞳の男の人が眉をしかめる。

 そんな彼らの遣り取りを目にしながら、クラウディウスさんと私は空いている倒木に腰を下ろした。


「パンとスープしかないのだけれど、食べて。そろそろ何かを口にしないと君の体が心配だ」

「えっと、あの、でも、あまり食欲が今は無い、かも」

「しかし、」

「起きられて直ぐに食欲が沸かないのも仕方ありません。まずは、水から口になさって下さい」


 灰色の瞳の人にそう言われて差し出されたのは、皮革を縫い合わせた袋だった。

 移動中だからだろうけれど、コップでもなく、向こうの世界の水筒でもないのに思わず躊躇う素振りを見せてしまうと、灰色の瞳の男の視線が厳しめになる。

 彼は少し身を乗り出して私の手を取ると、水の入った革袋を強引に持たせた。


「我々が提供するものに疑いを持つのは、今は仕方がないのは分かっています。だが、貴女を害する意思は我々には無い事を信じて欲しい。これはただの水で、先程、入手した新鮮なものです。安心して口にされていい」

「私が保証するよ。安心して飲んで」


 灰色の瞳の人に強く言われ、クラウディウスさんが子供を言い聞かせるように言うのに、私は手の中の革袋に視線を落とした。

 革袋に違和感があっただけで、別に彼らを疑っている訳ではない。

 でも、頭に陛下の言葉が蘇る。



 ―――火を通していないものは一切口にするな。水も果実を搾った物も駄目だ。酒にしろ。お前は酒豪だから問題は無いだろう?



「……分かりました。ありがとうございます。いただきます」


 生水、なんだろうな、大丈夫かな、ね、陛下。

 そう思いながら私は革袋に口をつける。

 彼らが言った通り中身は水で、温かったけれど、乾いていた喉にはとても美味しいものだった。








 お水を飲んで、知らない言語での彼らの会話をBGMに暫く焚火をのんびりと眺めて。

 だんだんとオナカが空いてきた感じがしたので、灰色の瞳の彼にスープとパンを貰った。

 パンは固めで多分携帯食。スープは野菜とお肉と茸が入っているものだった。

 手渡されたパンをとりあえず一旦膝の上に置いて、私はスープから口にする事にする。

 スープは塩味でサッパリしていて、今の私にはありがたい味だった。

 それに体も中から温まる。

 私はスプーンで具材をすくった。スプーンに載ったのは野草のような葉物だ。この葉物も茸も、もしかしたらお肉も、現地調達したものなのかもしれない。

 焚火を囲うように座るクラウディウスさんと、その仲間たちを見る。

 彼らは会話をしながらパンを食べたり、スープを飲んだり、干し肉のようなものを齧りながら何かを飲んだり、各々、寛いだ様子だった。

 クラウディウスさんはスープを上品な様子で食べていた。

 今、彼が口にしたのは多分野草だろう葉物で。それを躊躇いなく口に運ぶ様子を目にして、私は手元のスープに視線を向ける。

 そして思わずクスリと笑ってしまった。


「どうしたの? 口に合わない?」


 クラウディウスさんがそれに気づき、私に気遣うような声をかけてきた。

 とんでもない、と直ぐに私は首を横に振る。


「頂いたスープはとても美味しいです。ただ、ちょっと思い出し笑いしちゃって」

「思い出し笑い?」

「はい。陛下がね、」

「……陛下?」

「はい、陛下だったら、この葉物野菜、捨てるか避けるか、私の口に放り込むだろうなぁ、って。陛下ってば二十七歳になったのに野菜嫌いのオコチャマなんです」

「…………そう」

「あと、この茸も嫌いかなぁ。私ってばね、陛下の食事のお野菜処理係みたいになってたんです。あとね? いつだったかの朝に、陛下ってば、野菜と両生類の悪夢を見た事があって、その原因が、陛下の上に乗って寝ていた私の鼻のね、音の―――」

「貴女は干した果物は好きですか? 幾らか持ってきています」


 私がクラウディウスさんに茸をスプーンに載せながら話している時、まるでそれを遮るような形で灰色の瞳の彼が突然言葉を被せてきた。


「え? あっと、はい、干した果物は大好きです」


 ドライフルーツの事だよね? と首を傾げながら灰色の瞳の彼に返事をすると、良かった、と言いながら、既にパンが載っている私の膝の上に向こうの世界の単行本サイズの小袋を彼は置く。


「貴女にそれを差し上げますので、食べられる時に摘まんでください」

「ありがとうございます」


 灰色の瞳の彼のそんな親切な言葉に私が笑み返すと、彼は予想に反して難しい顔をしていた。


「えっと、あの、何か?」

「いえ」


 灰色の瞳の彼はそう言うと、私からクラウディウスさんに視線を移す。


『よく堪えました、殿下』

『…………』

『今は耐えて下さい。焦っては駄目だ。感情に任せた言葉を決して言ってはいけない。怖がらせては元もこうも無いのです。彼女はこの世界に来て、トリエス王の許に居た期間の方が長く、今は刷り込まれている状態なのですから』

『…………分かっている』

『たとえ彼女がトリエス王との関係を伺えるような事を口にしても、』

『分かっている! 全て分かっているし、それは仕方のない事だと理解しているよ!』

『理解する必要があるのか? 力で捻じ伏せてしまえよ、クラウディウス。普通に面倒臭いだろ』

『お前は黙っていろ、ラザロス!』


 クラウディウスさんが声を荒げた後、焦げ茶色の瞳の彼が言う事に灰色の瞳の彼も声を荒げ出した。

 それに私は驚いてしまって、思わずスプーンをお皿の中に落としてしまう。

 いったい彼らは突然どうしたのだろう? 分からない言葉で会話をされると、原因を知る事が出来なくて、私はどうしたらいいのか戸惑うしかない。

 周囲を見回すと、場はシンと静まり返っていて、クラウディウスさんは辛そうに、灰色の瞳の彼は厳しい表情で焦げ茶色の瞳の彼を睨みつけ、その対象の焦げ茶色の瞳の彼は鼻で何かを嗤うように、その他の人は困ったように眉を下げていた。

 その何とも言えない雰囲気に、私はスープ皿を足元の平な所に一旦置いて、先程貰ったドライフルーツの袋を開ける。

 中には、向こうの世界でいうマンゴーとイチジクみたいなドライフルーツが入っていた。

 気まずい雰囲気の中、会話に入れない私はどうする事も出来ずに、とりあえずマンゴーもどきを手に取って口に入れる。

 味は見たまんまマンゴーそのもので、その甘みがどうしても沈んでしまう気持ちに栄養を与えてくれた。

 無言な時間が暫く続いた。

 先程までの寛いだ雰囲気ではなく、ただ口に食べ物を入れ込んでいるだけの時間だ。

 皆は引き続きの食事を、私はドライフルーツを。

 夜の暗い森のザワリとした木々や葉の擦れ合う音と、焚火の薪が時折爆ぜる音、それらを耳にしながら何個目かのドライフルーツを咀嚼していた時、静寂を破る来訪者がやってきた。

 二頭の馬と二人の人物だ。

 新たに訪れた人達は、此方に適度に近づくと馬から降り、山小屋の端にある何かに馬についている紐のようなものを括り付ける。

 その作業を終えると此方へとやってきて片膝をつき、クラウディウスさんに頭を下げた。


『―――今回の行程に君たちは含まれていないはずだけれど』

『申し訳ありません、殿下』


 クラウディウスさんの言葉に返答し、恐縮そうに言葉を紡いだのは、全体的に淡い印象な感じの人で、薄い金髪と緑色の瞳の男の人だった。

 髪は背中の中程くらいの長さで、後ろに緩い三つ編みで一つに縛っている。


『ガリス騎士団総長ベルトラン・バレス殿がどうしても、と』


 トリエス語ではないから二人が何を話しているのかは全くの不明だけれど、淡い印象な彼はそこまで言うと私に視線を向けた。


『彼女がそうですか』

『うん。ガルダトイア語を解せないから、話をかけるならトリエス語で。レネヴィア語も駄目だと思うよ』

『分かりました』


 淡い印象な彼が私に人好きのする笑みを見せた。


「お初にお目に掛かります。アドルファス・エインズワースと申します。レネヴィアの貴族ではありますが、本国とは諸事情で上手く行かず、今はガルダトイアに身を寄せさて頂いております」

「あ、私は珍獣二号と言います! 宜しくお願いし―――」

「違うよ」


 私がエインズワースさんへ自己紹介をしている途中で、クラウディウスさんが否定の言葉で遮った。

 その事にちょっと驚いて彼を見ると、クラウディウスさんの両手が私の頬を挟み、銀色の長い睫毛に縁どられた血の色の瞳が私に合わせられる。


「君の名前はフェリシア。珍獣二号ではないよ。フェリシアだ」

「ふぇりしあ?」

「うん。ガルダトイアではフェリシアと名乗ってもらう事になる」


 だから珍獣二号と名乗るのは金輪際止めるように、そう続けたクラウディウスさんに、私は何処からその名前が出てきたのか理由を聞こうとした。だけれどその時、エインズワースさんと一緒に来た、もう一人の男の人が立ち上がる。

 その男の人は体格がとても逞しくて、新旧の傷跡もたくさんあって。

 癖のある髪を後ろにザックリと撫でつけて、色は瞳も髪もこれといった特徴の無い茶色だった。


『―――お前が』


 体格の逞しい男の人が帯剣していた剣を抜いた。

 彼の視線の先にあるのは何故か私で―――。


『お前がトリエス王の寵姫か』

「あの、」

『ベルトラン・バレス、剣を収めろ』


 そう言ったのは灰色の瞳の彼。

 体格の逞しい彼が剣を抜いた瞬間、私の前にクラウディウスさんが。そしてクラウディウスさんの前には灰色の瞳の彼が入り、焦げ茶色の瞳の彼は考えるような様子で此方を見つつも動かず、他の人はその場でやはり剣を抜いた。

 エインズワースさんは体格の逞しい男の人の後ろに立つ。先程とは打って変わって、彼は冷たい目をしていた。


『退け! 俺はトリエス王の寵姫に、この女に言いたい事が山程あるんだ!』

『剣を収めろと言っている! 彼女への非礼は許さん!』

『非礼だと?! ふざけるな!』


 体格の逞しい男の人が剣を振り下ろした。それを透かさず灰色の瞳の彼が剣で受け止める。ガツンと重たい金属音が鳴った。

 それが原因という訳では全くないけれど、私は体の拙いシグナルを感じ始めて、口の中の唾を飲み込んだ。


『トリエス王の寵姫! お前が俺の女王を殺したんだ! トリエス王にサデヴァを侵略するよう唆し、そしてあの時、王を寝台で離さなかったお前が!』

『止めろ! 剣を引け! ベルトラン・バレス!』

『あの時! 俺が愛する女王を混乱の最中の国に置いて単騎トリエス王の謁見に臨んだあの時! 一言でいいから話をさせてくれと願い出た俺にトリエスの宰相が何と言ったと思う?! こう言ったんだ! 王は会われない。待っても無駄だから退城されたしと! 加えて、こうも言っていたさ! どうも昨晩は遊び過ぎて疲れたらしいので寝たいそうだ、とな!』


 体格の逞しい男の人が灰色の瞳の彼の剣を力で弾いた。

 そして再度、重い金属音を鳴らせて互いに剣をぶつけ合う。

 体格の逞しい男の人が何を怒っているのか、私には彼の話す言葉が理解出来なくて分からなかった。それでも何かを言わないと、とは思うのだけれど、嫌なシグナルがますます強くなってきて、私はまた唾を飲み込み、胸を抑えた。


『お前のせいで女王は殺された! 首を刎ねられ無惨に城壁に晒されていたさ! 俺は間に合わなかった! 王弟を抑える事も、トリエス王を止める事も出来なかった! 全てお前のせいだ! お前が王を唆さなければ! お前が王を開放していれば! トリエス王と話さえ出来ていれば! 女王は若く美しい女性であったのに! まだ十八という若さだったんだ! お前だけは、お前だけは許さん!』


 剣を合わせる二人の力が拮抗していた。互いに相当な力を加えているようで、不吉な音を鳴らす。

 そんな中、今まで黙っていたクラウディウスさんが落ち着いた様子で話し出した。


『ガリス騎士団総長ベルトラン・バレス、彼女に危害を加えるのは私が許さない。勝手な事はよしてもらおう。それに、サデヴァが滅んだのは自業自得だ。彼女がトリエス王に進言したという事実は此方も把握している。けれど、内戦を起せばトリエスが出て来るのは、彼女が進言しなくともいずれ実行されただろう。それが少し早まった、それだけの事だよ。そもそもガリス総長、内戦へと導いたのは女王と君だろう? 君がやるべきだったのは、トリエス王への歎願ではない。同年の異母姉弟であった女王と王弟による内戦を食い止める事に心血を注ぐべきだった』


 クラウディウスさんの言葉に、体格の逞しい男の人が大きく歯軋りした。


『……たとえそうであっても! この女だけはっ』

『ガルダトイア神王国としては、とてもいい迷惑な出来事だった。君と女王の失態で、サデヴァという緩衝国を失った。トリエスと国境を接する事になったんだよ』

『…………』


 ―――ああ、駄目だ。

 クラウディウスさんが話終えたのか、その後は誰もが口を閉ざし無言になって、辺りが夜の森が奏でる木々の音だけになった。

 そんな中、擦れ合う金属音を鳴らして、体格の逞しい男の人と灰色の瞳の彼が剣を下ろす。

 揉めていた原因が本当に分からないのだけれど、とりあえず落ち着いたのかなという雰囲気の中で、私は場の空気を乱す事が分かっていても、どうしても聞かざるを得ない事を聞く為に口を開いた。


「あの、クラウディウスさん!」

「うん、なに?」

「この近くに川か井戸か何でもいいんですけど、水回りな場所ってありますか?!」

「水回り? 直ぐ向こうに小川はあるけれど、どうした―――って、フェリシア?!」


 彼の回答を聞いて、私は猛ダッシュで小川があるという方向に向かって走った。

 もう駄目、我慢が出来ない。陛下の部屋でもそうだったけれど、あの場でも絶対にやりたくない。

 迫り出す木の枝に足を取られて縺れさせながらも、とにかく小川を私は目指す。

 後ろから何人もの人が追ってくる気配も声も音もしたけれど、今はそんな事を気にしてはいられない。

 頑張って堪えて私感覚で五十メートルくらい走った場所に、確かに小川と呼べるものを見つけた。

 それを視界に入れた私は、前回の教訓の元、走り近づきながら髪が前方に回らないように工夫する。

 そして小川に辿り着くと直ぐさま前屈みになって、勢いに任せて吐いた。

 やっぱり生水が駄目だったなぁ、前回より軽いといいなぁ、とグルグルと同じ事を思いながら、私は何度も嘔吐を繰り返す。

 苦しくて。そして、この場に陛下が居ない事がとにかく不安で。

 陛下が居ないのに、あの時のように寝込んだらどうしようとか、陛下が居ないのに、私はこの後どうなるんだろうとか、とにかく不安で怖くて寂しくて孤独で。

 連続する嘔吐の苦しさと陛下が傍に居ない事に、私は涙目になって小川で吐き続ける。

 何度も何度も吐いて。でも前回よりも胃の中に入れていた量が少なかったからか、そう長い時間がかからずに一先ず落ち着く事が出来た。

 とりあえず一度、深呼吸をして空気を肺に入れて。次いでした事は、嘔吐した場所よりほんの少しだけ上流で口を漱ぎ、顔を洗った。

 ホッと一息ついて葉を踏む音に気付いて後ろを向くと、先程の場に居た全員が私から少しだけ離れたところに立っていた。

 急に吐いてごめんなさい、生水に当たったみたいです、そう言おうと思ったのだけれど、皆の様子が何処か張り詰めている感じがして言うのを躊躇う。

 どうしたのだろう、と思いながら彼らを見続けていると、クラウディウスさんは酷く辛そうな表情をしながら右手で額近くの髪を握り、灰色の瞳の彼は無表情に。

 焦げ茶色の瞳の彼は汚い物を見るかのような視線を私に投げて、他の人は困惑気に。

 エインズワースさんは考えるような様子で、そして体格の逞しい男の人は。


『ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁ!』


 目を血走らせ、髪を振り乱して酷く激昂していた。


『どういう事だ! 何故なんだ! 俺は彼女を失って、何故お前のような悪女がっ!』


 私は目を見開いた。

 叫んだ彼が再び剣を抜いて、私に向かってきたからだ。

 私は動けない。動く事が出来ない。

 驚きと現実感の無い場景に、思考が上手く働かずに呆然とするしかない。


「―――え」


 パタパタパタと生温かいものが私の顔に降ってくる。

 額に、頬に、口元に。それが流れ落ち、顎へと伝わる。

 自分の見ているものへの理解が追い付かなかった。

 だって―――。


「ひっ……きゃあぁぁ!」


 だって、体格の逞しい男の人の剣を灰色の瞳の彼が弾き、問題は。

 問題なのは、エインズワースさんが体格の逞しい男の人の後ろから、彼の首の側面に剣を叩き込み、骨に当たる首半ばで凶器を引いたのだ。

 瞬間、首から血が噴き出した。

 その血が私にかかって―――。


「フェリシア、神術で眠らせるね」


 悲鳴をあげた私に、クラウディウスさんが直ぐに近づき、私の目を手で覆った。

 途端、不思議な感覚と眠気が私に訪れる。

 私が完全な眠りにつく前に、彼らの会話が耳に入った。


『なぜ殺した』


 これは焦げ茶色の瞳の彼の声。


『私には殿下の意に沿わない貴方が信じ難い。彼は既にガルダトイアにとって害にしかならない残党でしかなかった。殿下の大切な方を殺めようなど、たとえ防げても看過できる行為ではないだろう』


 そんなエインズワースさんの声に返したのはクラウディウスさんだ。


『それに異を唱えるつもりは私にも無いが、彼女の前ではやらないでくれないか』


 そこまで聞いて、私はクラウディウスさんのシンジュツによって眠りについた。



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