第117話




 パーシヴァル様に抱きついたままの私は、彼の良い匂いに包まれていた。

 幸せ過ぎる!

 こんな事ってあっていいのかな?!

 私の心の中の唯一絶対神パーシヴァル様だよ?!

 パーシヴァル様の匂いと温もりに包まれるとか、どんだけのご褒美なのかと!

 前世で相当な徳を私は積んだのかもしれない!

 いや、絶対そうだよね?

 推しに会えて、その推しとのハグなんて、これはもう趣味の世界、夢の世界でしかないよ!

 そんな事を考えながら、彼の心臓の音が聞こえてしまうくらいに密着している私は、更なるご褒美を得ようと、頬を擦りつけて服越しだけれどパーシヴァル様の胸も堪能してみる事にする。

 推しの大胸筋が知りたい!

 そう思った時、頭の上の温もりと、パーシヴァル様の私を包む腕の力が緩まった。

 途端の解放感と喪失感に、ちょっと待って大胸筋堪能がっ、と私が焦ったのと当時に、首が絞まるレベルの強い力で後ろ襟が引っ張られる。


「ぐぇ」


 そんな蛙のような声がパーシヴァル様の前で思わず出てしまった。


「―――お前は一体何をやっている、小娘」


 地の底を這うような陛下の怒りに満ちた声が耳に入る。


「ちょっ、ちょっと、苦しいですって、陛下!」

「何をやっている、と余は聞いているが?」


 そう言いながら、襟を更に思いっきり引っ張り私を自分の方へと引き寄せると、陛下は私の首に腕を巻き付け羽交い絞めの体勢に入った。


「痛いっ! 苦しいってば、へ・い・か! ていうか、見て分かりません? パーシヴァル様に抱きついただけです!」

「パーシヴァル? お前の妄想の住人の?」

「妄想じゃありませんよ! 歴とした日本の大人気乙女ゲーム『愛と絶望の黒薔薇魔帝国物語』のキャラ、登場人物だって言ったじゃないですか、前に! 陛下と初めて会った時に内容についても解説しましたよね?! それにスマホで私の部屋に貼ってあるパーシヴァル様の写真、写し絵も見せたはずですよ、陛下に!」

「確かに見た。見たが、あれは陽の光が入り込んでしまって顔はよく分からなかっただろう? 長い銀髪だという以外は」

「彼、長い銀髪じゃないですか!」

「そうだな、長い銀髪だ。だがな小娘。お前の妄想の住人と、現実の人物と、本当に同じなのか? よく見てみろ」


 首に巻きつく腕はそのままに、陛下がグイッと私の顔の位置を変えた。


「どうだ?」

「……そりゃあまあ、ゲーム画面のキャラと、現実に存在する人が全く同じだって、私だって思いませんよ! でもでも、本当に現実に居たらこんな感じってくらい似ているんです、色彩も! 彼が向こうの世界のコスプレ会場、大好きなキャラの恰好をする集まりに行ったら、皆、パーシヴァル様だって言いますよ! だったら、私の心の中の唯一絶対神であり、推しのパーシヴァル様に抱きついてみたっていいじゃないですか! 此処では向こうの世界のルール、決まりは適用されないんだし!」


 そこまで私が一気に言うと、陛下が盛大な溜息をついた。

 ちなみに私の首に回っている腕の力は全く弱まらないままだ。


『すまない、ガルダトイアの。この娘は色々と拗らせていてな、心も頭も』 

『―――いえ』

『……一応、確認したいのだが、パーシヴァルという名に心当たりはあるか?』

『―――全く。彼女が何故私の事をパーシヴァルと呼ぶのかは正直分かりません』

『…………だろうな』

「ちょっと! 私にも分かる言葉で話して下さいよ、陛下の意地悪!」

「―――何が意地悪だ、小娘」


 首に巻かれていた陛下の腕が解かれた。拘束目的だっただろうから、それなりに絞まっていたのが解放されて、私はホッと一息つく。

 そして解かれたのをよい事に、此方を見ているパーシヴァル様そっくりさんに再び突撃しようとした瞬間、陛下に両肩を掴まれ、ぐるりと方向転換させられた。

 結果、未だに怒っている雰囲気を漂わせている陛下と向き合う事になる。


「何をするんですか?! 私ってば今、陛下の方をちっとも見たくないんですけど!」

「ほう?」

「今しかパーシヴァル様そっくりさんと会えないんですよ?! 早く彼の大胸筋の堪能をっ―――」

「―――どこの痴女だ、お前は」


 陛下の両拳が私の蟀谷を挟んだ。次いで、人差し指の関節の骨でギリギリと左右同時に力を入れられる。


「痛い痛い痛い痛いっ! 痛いってば、陛下!」

「小娘、お前は時と場所と相手を考えての行動はしないのか? しないのか。出来ないのか。そうだな、分かっていた。お前の頭が軽すぎる事を」

「馬鹿って言いたいんですか?! っていうか、本気で痛いっ!」

「小娘、お前はこの後始末をどうつけるつもりだ? 出来るのか? 出来ないよな? 誰がやるんだ? 余でしかないよな? 小娘!」


 その言葉と同時に、蟀谷をギリギリする陛下の力が強まった。

 あまりの痛さに私の目尻に涙が浮かぶ。

 ちょっとこれはもう繊細可憐な乙女である私に対して許せない行為だよ!


「もう、痛いって何度も言ってるじゃないですか、暴力男め!」


 フリーな手をニギニギして私は準備運動を開始した。

 もうね、これは解禁だよ!

 私は目を瞑り、精神統一に入る。

 周りの音がスッと小さくなっていき、代わりに妹の花依に特訓された記憶が再び蘇ってくる。この記憶はトリエスに来てから二度目の活用だよ!

 私は瞑っていた目を開けた。そして、一呼吸してから利き手である右手を陛下の股間に素早く向かわせ、思いっきり握る。


「金・的・攻・撃・解・禁!」

「……いっ! 小娘っ、お前! この期に及んでまでも其れをやるか! それもこの場で!」

「そもそも陛下は、パパやお兄ちゃんよりブツが大きいからって、偉そうにし過ぎなんですよ! 立派な一物だからって何なの?!」

「なんの関係がある! 言い掛かりも大概にしろ! 離せ!」


 久しぶりに見る青筋が陛下の額にビシビシッと入り、ギリギリされていた蟀谷への拳が外されたと同時に、金的攻撃を加えていた私の右手が勢いよく払われた。


「ちょっと!」


 陛下の左腕が私の腰を引き寄せ、右手が顎を捕えた。そして本気で締め付けるレベルで力を加えてくる。


「ちょっ……ちょっと待って、陛下! 痛い痛い痛い! 腰痛い! 顎痛い! マジで痛い! 内臓、破裂しちゃいますよ!」

「だから?」

「ちょっと、これ、痣が出来るやつじゃないですか! 陛下に出会って早々にやられた技ですよね?! は・な・し・て!」

「素直に余が放すと思うか? 己の行動に責任を持てと、あの時も言ったはずだが?」


 そう言って、私の腰を益々絞めつけながら、捕らえた顎を自分の目線に合うように強引に角度を変えてくる。


「痛いってば! もう本当に本気であったまきた! ウオちゃん出動!」

「きゅんぴきゅんぴ? きゅぴぴくぴぴ、きゅんぴ! きゅんぴぴきゅんきゅんぴ!」


 私はそう叫んで懐のウオちゃんを引きずり出した。

 突然の出動だけれどウオちゃんも元気に声を上げている。

 印籠のようにウオちゃんを陛下に向けた。

 陛下の目が見開く。


「小娘! ウオの参加は認めないと余は言わなかったか!」

「それこそ私が素直に従うと思ったんですかね? 馬鹿なの?」

「っ!」

「陛下が私を離さないなら今から攻撃を加えます!」

「何を、」


 私はウオちゃんを陛下に見やすいように顔の高さまで持ち上げた。


「ウオちゃん出動。攻撃スタンバイ。作戦名、赤い彗星ならぬ赤い謎肉、増量三倍! ウオちゃん、発射!」

「…………」

「…………なーんちゃって! ねねねね、陛下、本気で痛いです。色々ごめんね? 許して?」

「…………小娘、今夜一晩覚悟しろ。寝られると思うな? これでもかというくらいに説―――」



 ―――ギュイィィィィィン、ドンッ!



「は?」

「え?」

「…………」

「…………え、えとえと、陛下、今、ウオちゃん、ドンって、赤い光線を口から出しませんでした?」

「……ああ、出した」

「陛下の髪、赤い光線の風圧か何かでフワッと浮きました」

「…………」


 私は陛下の後方を、陛下は振り向いて背後を、お互い驚きに目を大きく見開いて凝視していた。

 私に至っては、口をポカーンである。

 ギュイィィィィィン、と音がした瞬間、ウオちゃんがパカリと口を開けていた。

 そして周囲の光を吸い込むような様子で光を口の中に集め、ドンッとそれを発射したのだ。

 赤い光線は陛下の顔の真横を通り、その背後へ。厳密に言うと、陛下の後方右上部の壁を貫通した。

 不吉な音がした割りには威力が無かったのか、壁に赤い光線が吸い込まれてから、特に今この瞬間まで何の変化も起きていない。

 一体何だったのだろう? やっぱりウオちゃんって普通じゃないよね? そう思いながら、とりあえずウオちゃんに視線を移すと、陛下が黄金の眉を寄せてポツリと呟いた。


「―――崩れる」

「何がですか?」


 そんな私の質問に陛下は答えてくれなかった。


「ルドルフ!」

「此処に!」

「この場に居る者達を避難させろ! 至急だ! 一刻も早く! ―――全員、命が惜しくば今直ぐ外に出ろ! 走れ! 外に出て、城から出来る限り離れるんだ! 行け! ―――ディルク!」

「はい」

「周囲の区画に居る者達を、手の者を使って急ぎ避難させろ!」

「了解」


 そこまでサクサクと指示を出して、陛下は私を米俵のように肩に担ぎ上げた。


「うわっ!」

『―――ガルダトイアの。其方も急ぎこの場から逃げよ。とりあえずは我が国の宰相の避難誘導の指示に従ってくれ』


 チラリとパーシヴァル様そっくりさんに陛下は視線をやり、分からない言葉で言い終えると、私を担いだまま走り出した。

 パーシヴァル様そっくりさんと私の目が少し間だけ合う。

 彼は何処か辛そうな色を、その血のような真紅の瞳に滲ませていた。



 ――――ズンッ。



 会場中の人達が陛下の言葉で大騒ぎしながら逃げ出している時、日本で偶に感じる地震直前の前触れような雰囲気がお城から発せられた。


「え、何? 地震?」

「今、この状況下でそんな訳があるか。先程のウオの発したもので、この区画は崩れる。火災の時に話しただろう? そういう点がこの城にはあると。余の予想では、この区画だけでは―――」


 陛下が言葉の途中で口を閉じ、走る速度を上げた。

 パラパラと砂のような小さい粒が上から落ちてきたからだ。

 陛下と私を始め、全員が全力で会場から逃げて。

 私には、この時点で皆が無事なのかどうかは分からなかった。

 何故なら陛下は、会場の外に出ると真っ直ぐに自分の部屋へと戻り、私とウオちゃんを寝台に放り投げて部屋に鍵をかけて出て行ったからだ。

 部屋に戻る途中、物凄い轟音がして、お城が酷く揺れた。

 私が事後の様子を聞けたのは、明け方になって陛下が疲れ果てた様子で部屋に戻ってきてからだった。








 ―――ポチャリ。

 ウオちゃんが陛下の部屋の端に置いてある盥の中で水音を立てる。

 今はもう夜中を過ぎて明け方に差し掛かっていて、アニと城のお針子さんが作ってくれた『い・ち・ご』の試作品な下着姿で、私は陛下の寝台の上で部屋に常備してあるお酒をチビチビと一人飲んでいた。

 陛下の部屋に置いてあるお酒はどれも美味しいなぁ、と思いつつも、陛下がなかなか戻ってこない事に気分が落ち込む。

 大きすぎる、広すぎると言われているトリエスの王城が、かなりの轟音を立てて揺れたのだ。

 全くの冗談で、こうなる事を少しも予想していなかったとはいえ、実際に起きてしまった事に流石の私も凹むしかない。

 事後がどうなったのか、とにかく気になった。

 お酒をチビチビと飲んで一瓶を空けた時、ようやく陛下が戻ってくる。

 部屋に入ってきた陛下は酷く疲れ果てている様子で、寝台の上の私に目を留めると、そのまま此方へとやってきた。


「―――疲れた」


 寝台が揺れた。

 陛下がドシリとした感じで寝台の端に座ったからで、彼は自分の大腿にそれぞれ肘を置き、前屈みの姿勢になって深く息を吐いた。


「ですよね。本当にごめんなさい」

「それで? お前は何故下着姿なんだ。寝衣の用意は?」

「あー…放っておかれた訳ではないんです。皆、とっても忙しそうだったから、自分でやるって言って」

「……で?」

「あと、『い・ち・ご』の試作品のひとつが丁度届けられていたから、出資した陛下にも一応確認してもらおうと思って」

「そうか」


 陛下が前屈みだった姿勢を起こして、サラサラな黄金の髪を掻き上げた。


「お酒、陛下も飲みます?」

「飲む」

「どれがいいとかありますか? 私ってば棚から持ってきますけど」

「お前が飲んでいたのでいい」


 そう言って、私の手にあったグラスを奪い、陛下は一気に中身を煽った。

 空になった彼の手の中のグラスに、寝台のサイドテーブルに用意してあった二瓶目を私は注ぐ。

 陛下は注がれたお酒をまた一気に喉に流し込んだ。


「―――暫くお前は此処に軟禁だ」

「え、なんで?」

「今回の事への罰という意味合いもあるにはあるが、それよりもルドルフがかなり怒り狂っていてな。厚い書類の束で張り倒されなくなければ、アレの怒りが落ち着くまで大人しく身を潜めていた方がいい。軟禁という名の保護だな」


 空のグラスを陛下が此方へ向けたので、私は三杯目のお酒を注ぐ。

 疲れた雰囲気を出しまくっている彼は、早いペースでお酒を胃に納めていた。


「はい、そうします」


 四杯目のお酒を陛下が要求した。


「まあ、あれが怒り狂うのも分かるんだ。火災の時に言ったと思うが、この城は有事の際に区画を倒壊させる点がある。その当たって欲しくない点に見事命中していてな。しかも当たり方が最悪だった。今回、ウオの吐いた光線で倒壊したのは三区画。ヴィネリンス全体でも金がかかっている上位の区画でな? 今夜の意味と客層、その他、諸々の始末と復旧を考えると宰相としては怒りしか沸かないだろう」

「……大反省しています」


 四杯目のお酒を私はグラスに注いだ。


「反省してもらいたい点は確かにあるが、ウオに関してはお前にとっても想定外だから、それはいい。城の一部……とは正直とても言えない範囲だが、その倒壊はともかく、余としては今の時点で、あれらへの人的被害が無かった事が救いといえば救いだ」


 その方面への被害が出ると一気に面倒さが増すからな、と陛下は四杯目のお酒も一気に煽った。


「あ、誰も死んだりとかは無かったですか?」

「ああ、大丈夫だ」

「良かった! お城が崩れた事もですけど、そこが一番気になっていたんです!」

「そうか」

「ねぇ、陛下、ウオちゃんについて、いい加減、どういう存在なのか考えないといけないと思うんですよね、私ってば」

「―――ウオについては、ある時から調査はさせている。が、異世界帰還方法についてもだが、有用情報が全く出てこないのが現状だ。事象はあるのだから、何かしらが引っかかってもよいのだがな。調査方法の変更を再度検討中だ」

「そうですか」


 四杯目も飲み干したので、惰性で私は五杯目を注いだ。


「陛下、ママのお友達の滋岳さん直伝のマッサージでもやります?」

「いや、今はいい。もうそういう段階ではないくらいに疲れている。酔いがまわってきた時点で少しでも仮眠が取りたい」


 そんな疲れ果てている陛下の言葉を聞いて、私は手に持ち続けていた酒瓶を寝台のサイドテーブルに置いた。


「陛下、今日は本当にごめんなさい」


 そう言って、私は陛下の真横で膝立ちになって、彼の額にチュッとキスをした。

 心の底からの大反省の意味を込めてだ。

 次いで彼の目尻にもキスをする。


「今日一日お疲れ様でした」


 左頬にもキスをひとつ。


「陛下、二十七歳のお誕生日おめでとうございます」


 顎の横にもキス。


「ねえ、陛下、これからも宜しくお願いします、色々と」


 トリエスに来てから私は結構な資産家になったけれど、でもそれは元を辿れば大半は陛下の資産だし、それでお詫びの品とかお祝いの品とかを贈っても意味が無いと思うから。

 だから私が彼にあげられるのは、キスくらいしか無くて。

 そう思いながらキスをして、反省とお祝いと感謝を込めて見つめていると、陛下が私の方へ顔を向けて視線を合わせてきた。

 グラスが陛下の手を離れて床に落ちる。

 お互いに疲れていた上にお酒も入って、おかしな気分だったのだろう。

 私達は、どちらからともなく唇を合わせた。

 何度も何度も軽いキスをして。

 私は彼の首に両腕をまわし、陛下は右手を私の太腿に添えて、左腕で私の腰を抱いて、互いに互いを寄せあった。

 軽いキスだったはずが、いつのまにか深くなっていって。

 舌を絡めたり、吸ったり、なぞったり。

 互いの唇をやんわりと食んだりして、また舌を深く絡めて。

 途中、二人して可笑しくなったりもして、笑い合いながら互いの鼻の先を擦り合わせたりして遊んで、また深く執拗にたくさんキスをする。

 体の奥から、なんだか不思議な感覚が沸き起こってきたりもしたけれど。

 本当に陛下は疲れていたし、私もなんだかんだで疲れていたのもあって、陛下も私も、ふざけ合いながらもいつの間にか眠っていたのだった。






 ―――誰のせいでもない。

 ディルクさんを始めとしたトリエスの護衛の人達は誰一人悪くない。

 彼らは任務に忠実で誠実で、だから誰の落ち度でも無い。

 けれども私は―――。



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