15.船人達の海上墓地

 ロマニがつい先ほどまで乗っていた船が、海上を漂う豆粒のように見えていた。

 それほどに高い竜柱から、ロマニは飛び降りた。落下する体はまんまとフナモクズの口の上ど真ん中。


 ロマニは魔物の口に到達する前に、3分の2ほどの高さで自分の体を真上に翻し、アンカーを射出する。狙うは、未だうごめき続ける12本の手足の内の一つ。その関節だ。


 柔らかい白みがかった関節の身にアンカーが刺さり、汁気を飛ばす。しかし、それだけではフナモクズは痛がる様子を見せない。


 ロマニはアンカーに弱めのブレーキを付けながら、自分の落下する衝撃を殺し、そのまま僅かに残った衝撃を横へ滑空するための勢いに転用した。


 アンカーの設置点を軸に弧を描き、未だ手足に乗り続けている海水をまき散らしながら重々しく揺らめく巨大な手足の合間を潜り抜けた。


 フナモクズに取り付くのは成功した。ロマニはフナモクズの上空をワイヤーの揺れるままに滑空しながら確信すると、アンカーを巻き上げて、刺し込んだ設置点である関節に向かった。


 両足が蟹足の表面に付きながら、アンカーはピンと鉄線を張る。すかさず、ロマニは腰のポーチからナイフを取り出し、柔らかい関節の身にナイフを刺し込んだ。


「かたっ、んにゃろ!」


 手だけでは深くは入らず、ロマニはナイフを引き抜いては刺し込み、蹴りを入れてさらに深く押し込んだ。


 そしてまた抜いてその横に刺し込み、蹴りを入れて深く抉っていく。それを繰り返し、蟹汁を浴びながら、魔物の関節に横線の傷を作った。

 さすがに断続的に続く切断する痛みが答えたのか、最下部の海面近くにあるフナモクズの口から、濁った泡を力いっぱい押しつぶし破裂させたかのような、嘔吐を催す気味の悪い絶叫が響き渡った。


 フナモクズは激怒している。その証拠に、鋏の付いている手足を3本程外側に揺らし、それから大きく開きつつロマニの居る関節に向かって振りかぶって来た。


「よし来た。今自分の足ないがしろにしちゃ、大変なことになるぜっと」


 鋏がたどり着く寸前、ロマニはアンカーを解除してまたも重力のままに落下した。


 ロマニが仰向けに落ちる真上で、3本の鋏がロマニが切ったばかりの腕を、まるでギロチンのような勢いで挟んだ。


 瞬間、ただでさえ、切れ目が入っているところに飛び込んだ鋏は、ロマニが切り込みを入れた横線の傷穴に見事ハマりこみ、傷を更に深く掘り進め、真反対の裏側にあるはずの自分の鋏にジャキッっという音と共に再会を果たした。

 フナモクズの腕が、自らの力を持ってして斬り落とされてしまった。


 フナモクズの全身が揺れバランスを崩すほどの絶叫が、魔物全体に響き渡った。


 ロマニは落下しながらフナモクズの足が一本ちぎれたのを確認すると、自分に向かって攻撃して来た鋏の関節に再びアンカーを打ち、落ちてくる巨大な蟹の足を滑空してかわした。


「自分の腕さえも落とせちまうのか…。恐ろしいもんだ」


 落ちた腕がフナモクズの甲羅に当たり、そのまま海へ滑り落ちていくのを見届けると、ロマニは上空へ目を向ける。


「ベラ!」


 そして見つけた鋏の先では、ベラが今も挟み続けられ、苦しそうな声を上げていた。


 自分の攻撃が効くことを確認したロマニは、今使っているアンカーを解除し巻き戻すと、ベラの捕まっている鋏へアンカーを打ち込み飛び込んだ。


「もう少しだけ耐えてくれ! 今助ける!」


 これ以上時間がかかると、何時ベラの体が真っ二つになるかも分からない。今はただ、ベラの肉体が並みの人間よりも丈夫であることを祈り、切断に専念するのみだった。


 再び関節部分にたどり着くと、ロマニはナイフを取り出して関節の肉を削っていく。

 横へとどんどん斬り込んでいくが、ロマニが周囲の手足に警戒をしてみても、残りの手足がロマニ目掛けて攻撃を仕掛けてくる様子は無い。


「今さっき自分の腕を、自分で斬り落としちまったことが効いてるのかね……。だが、してこないならしてこないで、このままベラを離すまでやるまでだ……!」


 ロマニは目の前に再び顔を向け、ナイフを蹴っては抜き、刺しては蹴りを繰り返し続ける。


 止まることないロマニ自身の攻撃で蟹汁は噴き出し続け、ロマニの衣服はどんどん汚れていく。それでも、ロマニは臆することもなくナイフを関節の肉に叩き込み続けた。


「げはっ、かはっ!!」


 ふと、上部で苦しそうに息が漏れる音が聞こえた。


 ロマニが見上げてみると、ベラがようやく呼吸できるだけの余裕を取り戻したらしく、か細かった息を咽させながら吐き出していた。

 効いている。だんだん鋏に力が入らなくなってきているようだった。


「ロマ、二……」


「あともうちょいだ! それまで頑張れ! 必ず助かる!」


 ロマニは、ベラと自分に言い聞かせるように声を掛け、続ける。


 その時、フナモクズの一番底の方で嫌な音が響いたのを、ロマニは確かに聞いた。


 なんだ? まるで、口の中で下劣に咀嚼するような、唾液の混ざる音だと、ロマニは思った。


 振り向き確かめようとするが、その前に下の方から、空気の弾ける音がした。


「──まずっ!」


 何が迫ってくるのか見るよりも先に、ロマニはアンカーを刺したまま内蔵のリールを解除しゆるゆるにすると、すぐに斜め下へ向かって跳んだ。

 落下する最中、ロマニは自分の真横で、巨大な塊が下から上へ横切っていくのを見た。


 次の瞬間、ロマニがつい先ほどまで居た関節に、フナモクズが放った塊のような唾液が着弾し、はじけ飛んだ。


「つば!?」


 ロマニは驚いた。一番底のフナモクズ本体から自分の居た関節部分まで、何十尺もあったと思う。この巨体を安定させたまま海上に立たせる水圧を噴き出す能力を持つ、フナモクズの底力を感じさせた。


 だが、それだけだ。あくまで海上のフナモクズ本体の口から、手足めがけて唾で攻撃ができるという事が分かっただけだ。


 例えフナモクズが何度唾を撃ち込んできたとしても、何度でも回避し、元の場所に戻ればいい。


「っ、なんだ……?」


 ──が、そんな事が許されるほど、事態は甘くは無かった。


 ロマニが元の関節に戻ろうと見上げると、つばの着弾点で大量に蠢くものがある。それは、灰色の塊としてもぞもぞ動き、突如、ロマニ目掛けて落下して、空中で散開した。


「! フナモクズの、幼体──!!」


 落下してきた灰色の塊は、大量のフナモクズの幼体であった。


 フナモクズの幼体の全長は、掌程のサイズで。成長するに連れ成体のフナモクズの形になるのか、比較的従来の蟹に近いような形をしている。


 溢れんばかりの蟹の雨。それが、雨のようにロマニに向かって降り注いだ。


 ロマニは咄嗟に、残っている生身の左手で頭を守る。それからすぐに、全身にフナモクズの幼体がぶつかった。


 一体一体の質量は、想定よりも軽さを覚えたが、それでも、左腕の表面に痣ができるほどの強打が全身を襲った。


 殆どの幼体はそのまま自らを射出した親の表面や海に落下したが、いくらかの幼体がロマニの体にしがみついてきた。


 それらは容赦なく、ロマニの腕や手足に近づくと、まるで意表返しだとばかりに鋏を刺してきた。


「痛っ! やめろ、この……!」


 ぎりぎりと締め付けられ皮膚が青くも赤くもなり、ところどころでそれだでは止まらず、出血が始まる。ロマニは乱暴に体を揺らし、フナモクズの幼体をできるだけ離そうとした。


 関節部分に戻り、体のバランスを取り戻してから取り外すべきだ。と思い、切断途中の関節部分を見上げるが、それが無理あることをすぐに思い知った。


「! あんなに、残ってるのか……」


 見てみれば、先ほどつばが着弾した地点には、ロマニの体にしがみつている数では済まない量のフナモクズが付いていた。そこに戻るまでのワイヤー上にも、いくらかのフナモクズの幼体がしがみ付いていた。


 焦り巻き上げてしまえば、その内のどれかが義手内部のリールに巻き込まれてしまい、義手そのものの故障を招きかねない。


 この高所で、しかも魔物の手中の中で義手の故障に至るという事は、ベラを救い出せないだけでなく、ロマニ自身の死そのものさえも意味する事だった。


「くそっ、こんな、小さい奴らに……!!」


 ロマニは急ぎ宙づりのまま体に付いたフナモクズを外していく。


 しかし、そんなロマニの手詰まりを見逃すほど、フナモクズもまた、待ってくれる様子はなかった。


 フナモクズ全体に重々しいものがきしむ音が響く。ロマニはハッと気が付いて真横を見てみると。残っていた鋏の内の一つが、あの攻撃の予兆を見せていた。


 大きく外側へのけぞり、振りかぶる。それが攻撃する先は、間違いなく宙づりで身動きが取れなくなっているロマニ自身だった。


「っ──!」


 まずい。アンカーを解除し落下することはできるが、幼体がワイヤーに取り付いている以上、どのみち巻き戻せば故障事故の危険がある。それが起きれば、例え巻き戻しても、落下する自分を支えるものは、もう何もない。


 避けられない!


 巨大な蟹の鋏が、ロマニ目掛けてその腕を振りかぶって来た。


 瞬間。ロマニは何度か感じた危機感の中でも、さらにその先の静けさを迎えた。

 焦る息も心臓も、緊張で麻痺する手足の感覚も。煩わしいもの全てから自分が解放されるのを感じた


『──あ、これって──』


 ロマニはこの瞬間。自分が何かに殺される瞬間、ここまですべてが静かなものなのだなと、理解した。


 自分は、死ぬ。


「ロマニ!!」


 しかし、次の瞬間にはブラックアウトする筈だったロマニの意識を、鮮明に現実へと引き戻す声を聞いた。


「死ぬな! ロマニ死ぬなんて、絶対に嫌!!」


 今でも呼吸が苦しいであろうベラが、片腕で無理やり上体を起こし、歯をむき出しに噛みしめて下の光景を睨んだ。


 ──そして、次の瞬間。ベラはこの世界の全てに届くのではないかと言うほどの咆哮が轟いた。


 その声は、見間違いで無ければ、赤みがかった色を帯びた音の波紋のように見えた。

 目に見える程の光を伴ったその波紋は、果たして魔力なのだろうか。正体が分からないそれは、ロマニが見える全域に満遍なくどこまでも広がっていった。


 その直後だった。ロマニにあともう少しで直撃するはずだった蟹の鋏は、そのギリギリで動きを静止させた。


 来るはずの痛みに一瞬目を閉じてしまったロマニは、恐る恐る目を開けて驚くことになった。


「! 魔物達が……」


 辺り一帯に広がるは、灰色の雨。


 雨の粒一つ一つは大きく、いや、一つ一つどれもが、先ほどまでおぞましくうごめいていたフナモクズ達であった。

 ロマニの体やワイヤー、親の手足にしがみついてたはずの幼体たちは、突然体の制御を失ったように動かなくなり、どれもが自分の体を支えきれず海に向かって落ちてしまっていた。


 そして、ロマニのすぐ眼前で、フナモクズの巨大なハサミが止まっている。あともう少しの所で、ロマニの全身を打ち、命を奪い取ってしまうところであった。


「なんだこれ……これをベラがやったのか?」


 ロマニを追い込んでいた魔物の全てが、逆らう事さえも許さないとばかりにすべて圧され、無力と化して散っていく。


 それは、竜の本懐に思える、神々しい景色だった。

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