19 目覚め
体に響く振動と音で、私は目を覚ました。
「ここ……は……?」
見上げた先には天井ではなく、見知った色のない顔があった。
「馬車の中ですよ。時間がなかったので移動中に処置をさせていただきました」
そう言うと、ナナキは安堵したように息をついた。彼のもともと白い顔が、今はいっそう生気を感じさせない。それだけに心配していたということなのだろうか。
「どこも痛みはありませんか?」
問われて、私はゆっくりと体を起こし、全身を見回した。
ずたずたに切り裂かれ、食いちぎられたはずの体が今は元通りになっている。
アイシアのなめらかな柔肌には、もはや傷一つついていなかった。
「すみません、一人で行動をさせるべきではありませんでしたね。まさか魔獣使いがいるとは予想していませんでした」
「魔獣使い?」
「そうです。飼い慣らした魔物、すなわち魔獣を使役する者を魔獣使いと呼びます。精霊術師よりも数が少ない珍しい術師です」
魔獣使い――それがユーリスの裏の顔だったのか。伯爵は呑気に「腕が立つ」などと褒めていたが、それどころの話ではない。あんな獰猛な獣を操るなど、危険極まりないではないか。
「危ないところでした。今の君は肉体を持たない霊体ですからね。あのまま心臓を食い破られていたら、魂ごと消滅していたでしょう。僕の術でも魂を復活させることはできませんから」
その言葉に、私は背筋が冷えた。
ナナキから先に聞かされていた通り、魔物は魂を餌とする。特に今の私のように、生身の肉体を持たない霊体は大好物なのだ。あの魔物――ユーリスの放った使い魔は間違いなく私を食おうとしていた。あの世の入口に足をかけたところで踏みとどまれたのは、突如として無数の蝶が割り込んできたからだ。
「蝶……」
私はあの不思議な光景を思い出してつぶやいていた。
「黒い蝶がたくさん飛んできて、私を助けてくれたんです。あの蝶は……?」
闇の中から私を守るように集まってきた黒蝶の群れ。あれはいったい何だったのか。
その問いに、ナナキはあっさり答えた。
「あれはソーシャです」
「え……?」
「言っていませんでしたか。ソーシャの魂は蝶の精霊に定着させているんです。なので、姿を蝶に変えたり、僕のところへ蝶を飛ばして連絡を取ったりできるんですよ」
そういう大事なことはもっと早く言ってほしい。助かったから良かったようなものの。
それにしても、ソーシャの口数が少ないのは、もともと物言わぬ蝶の化身だったからなのか。何だか妙に納得してしまう。
そして、私は彼女に対する認識を改めるべきだと思った。
私と違って前世の記憶のない精霊である彼女は、どこか人間味に欠けるように感じていた。だが、私を守ろうと必死にかばってくれたあの蝶は、決して情のない人形などではなかった。
今は肉体も記憶も持たなくても、彼女の魂はやはり人なのだ。
「ソーシャはどこにいるんですか?」
「今は御者を任せています。君を治しながら移動するにはこれしか方法がありませんでしたから」
車内に姿がないと思ったら、この馬車を走らせているとは思わなかった。だが、伯爵家の人間に私の姿を隠している以上は、ソーシャにしか任せられないだろう。
「危ない目に遭わせてすみませんでした」
するりと背中に回った手が、私を強く抱き寄せる。
抗う暇もなく、私の体はナナキの腕の中に覆われてしまった。
「君の魂は僕が守ります。――もう二度と君を失わないように」
耳元でささやくその声には、いつになく熱がこもっているようだった。私が傷を負ったことに責任を感じているのだろうか。
「ちょっと、ナナキさん……っ、私はもう大丈夫ですから! どこも痛くないですから!」
ソーシャが御者を務めているため、車内は私とナナキの二人きりである。
前回の二人乗りの馬上で密着するのも緊張したが、密室で強く抱擁されるのはその上を行く。
混乱と動揺で頭がまともに働かない。
何とか振りほどこうとしても、力強い腕はびくともしない。見た目は細身のくせに、なぜこんなに力があるのだろうか。しかも暴れる私を抑えようと、抱き寄せる腕はさらに強さを増し、呼吸すら苦しくなるほどだった。
「あのっ、レイオール伯爵と執事のユーリスは、今どうしてるんですか? 私を襲ったのはあの執事だったんですよ!」
呼吸を得るために何とかナナキの腕から顔を出して、私は尋ねた。
実際、こんなところで抱き合っている場合ではないのだ。事態は何も変わっていない。それどころか、ユーリスがクロだと判明した今、最悪の方向へ向かっていると言える。
しかし、ナナキはその件についてはまったく動揺の欠片も見せなかった。
「そちらの方はもう大丈夫です。鉱山に着けばすべて解決するはずですよ」
ナナキの余裕が戻ってきたようだ。だが、そう簡単に解決などできるのだろうか。
「……アイシアさんは無事なんでしょうか」
何しろ、さらわれた花嫁の安否がまだ不明なのだ。
洞窟内で盗賊たちの下品な会話をナナキも聞いていただろうに。若く美しい花嫁が、下賤な男どもの元にあって無事で済む保証はない。
私はアイシア本人とはまだ二回しか顔を合わせていない。
自分勝手な言動にはまだ幼さが残り、いかにもわがままお嬢様と言える彼女だが、むしろ突き抜けていて不快さはなかった。
普通に出会っていたら決して友達にはならないタイプだが、彼女を辛い目に遭わせたくないと思うほどには情を感じている。
それは、この体に眠るアイシアの記憶に感化されているからだろうか?
ここしばらく、私の魂は常に彼女の肉体の情報と同居していたのだから。
「それも大丈夫です。――君はもう、心配しなくていい」
腕の中で私の頭を撫でながらそう告げると、ナナキはそれ以上何も言わなかった。誤魔化されている気はするが、もはや訊くだけ無駄だろう。
馬上の二人乗りよりもはるかに密着した状態のまま、私たちはついに目的地へと乗り込んだ。
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