18 目撃

 図らずも、再び隠密行動をすることになってしまった。

 まずは手紙が投げ入れられていたという玄関から調査を開始しよう。

 零落しているとはいえ、曲がりなりにも貴族の屋敷は玄関も広く作られている。もちろん現代の庶民の家のような郵便受けなどもない。

 夜間は内側から閂が下ろされているので、手紙を投げ入れるとしたら明かり取りの天窓からだろう。――悲しいことに、貧乏ゆえガラスの一部が破れたまま修理されていないのだ。

 とはいえ、これはあくまで「外部から投げ入れられた場合」の話である。

 内通者が最低一人いるのは間違いないのだから、内側から手紙を落としておいたと考えるのが妥当だろう。


 手紙の第一発見者はユーリスである。

 なぜ、彼は気づくことができたのだろう。

 薄暗い無人の玄関の片隅に落ちていた一通の手紙。朝まで誰にも気づかれない可能性もあるだろう。

 それなのに、手紙は「今宵」来るように指示していた。

 時間の指定も、身代金の要求も、来るべき人間の指名も何もなく、さらには今夜中に読まれるかも怪しい送り方。

 これを書いた人間は、本当にレイオール伯爵に何かするつもりなのだろうか――?


 ここで考えていても答えは出ない。思考を振り払うように息をつき、私は音がしないよう慎重に扉を開けて表へ出た。

 六月でも夜風はまだ冷たさが残る。

 手入れが行き届かず、鬱蒼と茂る木々が闇夜に揺れ、不穏な空気を感じさせる。

 非常事態だというのに、外は夜の静寂に覆われていた。

 これまた貧乏ゆえに門衛は一人しかいない。その門衛も暇そうに緊張感なくたたずんでいる。

 かろうじて動きがあるのは厩舎の方で、こちらには連絡が来ているらしく、御者が馬車の支度をしているのが見えた。

 伯爵は兵を集めると言っていたが、どこにもその様子はない。指示系統はいったいどうなっているのだろう。

 まるで、誰かが伯爵の命令を握りつぶしているかのような――


 すべての矢印が一人に向いているように感じられる。もはや他に方法はない。

 現時点で最も疑わしい人物――ユーリスの身辺を探ることにしよう。

 私は決意を固め、一歩を踏み出した。



 透明人間になっても壁抜けができるわけではないが、だからといって各部屋の扉を開けて回るわけにもいかない。それこそポルターガイストになってしまう。怪しまれないよう裏庭に回り、窓から部屋の内部を探ってゆくことにした。

 夜中でも明かりの灯る室内から覗いていく。ほどなくして、私は目的の部屋を発見した。

 手燭のぼんやりとした炎に照らし出される複数の人影。そこは伯爵の執務室に隣接する書斎だった。

 私はゆっくり近づき、窓ガラス越しに聞き耳を立てる。


「……こうなった以上、先回りして動くしかありません」

 声をひそめているため、はっきりとは聞こえないが、どうやら発言者はユーリスのようだ。

「しかし、当初の予定ではまだ――」

「もちろん主命を軽視するわけではありません。ですが最も重要なのは、どのような形であれ任務を果たすことでしょう」

 部下と思しき者の言葉を遮って、ユーリスは厳しく言い放つ。その声音は、いつもの嫌味や小言を投げつけてくる時とは比べ物にならないほど鋭かった。


 これが彼の裏の――真の顔なのだろうか。

 そして「主命」とは?

 会話の流れからしても、とてもレイオール伯のことを指しているとは思えない。彼の主とは何者なのだ?


「……承知いたしました」

「各自持ち場につくように。伯爵の見張りは私がします。それと――」

 そこで言葉を切ると、ユーリスはおもむろに窓を開け放った。そして次の瞬間、ユーリスの手首に巻かれていた腕輪が光を放つ。

 その発光と同時に、裏庭の闇に向かって獣のような影が飛び出してきた。

 何が起きたのか理解する暇もない。

 立て続けに生じた光と闇を視認する合間、私は首筋に鋭い痛みを感じた。

「――鼠が潜んでいるようですね。どこの手の者か調べておいてください」

 室内の部下に冷たくそう言い放つと、ユーリスは書斎を出ていった。


 本当なら、彼がどこへ向かうのか追いかけるべきなのだろう。だが、今はとてもそんな余裕などなかった。

 襲ってきた獣から何とか逃れ、私は庭木の陰に身を潜めた。そこで恐る恐る自分の首筋に触れると、ざっくり切り裂かれているのがわかる。

 だが、これほど深い傷でも血は一滴も出ていない。この体は偽物なのだ。たとえ鼓動や呼吸を感じても、それはあくまで自分の魂の記憶を再現しているに過ぎない。実際に切られて傷ついても、存在しない血液が流れ出ることはないのである。

 今は生身の体でないことが幸いしたが、危機的状況に変わりはない。


 私は息を殺して木陰から書斎の方角を見やった。

 突如襲ってきた黒い犬のような獣は、私が立っていた辺りの地面を嗅ぎながらぐるぐると回っている。

 人形の体では、臭いや血痕をたどることができないのだろう。

 ハスキー犬よりさらに二回りほど大きく、牙も爪も鋭い猛獣。いくら死なない体でも、これ以上の攻撃を受けたらバラバラになってしまうだろう。

 ――今のうちにもっと離れなければ。

 私は足音を立てないよう、そっと逃げ出そうとした。だが、獣は気配を察知したようだった。

 鳴き声一つ上げず、静かにまっすぐこちらへ向かってくる。姿は消してあるはずだが、獣ゆえに視覚以外の情報でこちらの位置を認識しているのだろう。


 人間と獣の追いかけっこなど、とても勝負にならない。

 生身の体でなくても、魂の記憶は平凡な人間のものでしかない。もともと足も早くなく、さらに運動嫌いの私が逃げ切れるはずもなかった。

 短い逃走劇の末、足がもつれて転倒すると、獣がその上にのしかかってきた。

 とっさに喉を手でかばったが、手首ごと噛みちぎられてしまった。

 必死の抵抗もむなしく、さらに肩から胸にかけ、鋭い爪が肉を引き裂いた。


 血は流れなくとも、痛みはある。

 言葉にできない苦痛が全身を駆ける。

 すでに喉は食いちぎられ、声を出すこともできない。


 ――この苦しみには覚えがある。


 突如襲われ、刺し殺されたあの忌まわしい夜。

 あの時と同じ状況――つまり、私はこのまま一人で息絶えるのか?


(――助けて)

 すでに喉はつぶされ、声はおろか呼吸すらできない。意識があるのは生身の体ではないからだ。だがそれすらも、もうもちそうにない。

 獣は私の胸に爪を突き立て、鋭い牙で心臓を食い破ろうとする。

 その瞬間、目の前が暗転した。


 意識を失ったのではない。どこからともなく現れた無数の黒い影が、私と獣との間に割り込むように群がってきたのだ。


(――蝶……?)


 それは蝶の群れだった。暗闇に溶けるような漆黒の蝶が、私の回りを取り囲む。

 体に食い込んでいた鋭い爪と牙が離れてゆくのを感じながら、私の意識は黒蝶とともに闇に飲まれた。

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