16 二度目の夜
しばらくしてレイオール伯が屋敷に帰ってきた。まだ暗くなる前の帰宅は珍しい。今日は仕事が早めに終わったのだろうか。
「行商人が来ていたそうですね。何か欲しいものはありましたか?」
「あ、いえ……それより、大事なお話があるのですが、お時間はありますか?」
そう尋ねると、伯爵は私の耳元に唇を近づけ、声をひそめてこう聞いてきた。
「それは、二人だけの秘密の話ですか?」
「は、はい」
思い出したが、やはり彼も距離がだいぶ近い人なのだ。今は周りに人がいないのだから、仲良し夫婦を演じる必要もないだろうに。ぎこちなく伯爵から身を離し、ひとまず大事な話をできる場所へ移動することにした。
夫婦が密談をするのに最も適した場所は――やはりと言えばやはり、寝室だった。
この部屋に二人で入るのは、新婚初夜以来である。本物の体ではないとはいえ、私が人生で初めて異性とベッドを共にした夜だ。
しかも話をするため、今は広いベッドに並んで腰かけている。しかも声をひそめて話すため、必然的に距離も近くなる。そのせいで、どうしてもあの夜を思い出し、無駄に緊張してしまう。
いや、今はそれどころではない。雑念を無理やり追い出して、私は鉱山で見てきたことをレイオール伯に話した。
ただし、あえて内通者の可能性については黙っておいた。自分に仕える人間の中に裏切者がいるなどと、このお人好しな伯爵に伝えるのはできるだけ後回しにしたかったのだ。
「そうですか……鉱山がそのようになっていたとは……」
彼はすでに鉱山の件だけでも充分ショックを受けているようだった。
領主の知らないうちに、閉鎖した鉱山や村が盗賊に占拠されていたのだ。慈悲深く懸命に領地を治めていたはずの彼にとっては受け入れがたい事実だろう。
「ところで、その話はどうやって知ったんですか? まさかまた見に行ったのではありませんよね?」
「あ、いえ……先ほどの行商人から聞いたんです」
真剣に尋ねてくるレイオール伯に、私はつい言葉を濁した。行くなと釘を刺されていたのに、あれだけ危険な鉱山付近にまた行ってきたとはとても言える雰囲気ではなかったのだ。
そういえば伯爵はナナキのことを知っているのだから、行商人などと濁さず正体を明かしても良かったのかもしれない。だが、何となく言いそびれてしまった。
「教えていただきありがとうございます。明日にでも兵を調査に差し向けましょう」
微笑んで、レイオール伯は私の頭を撫でた。
軽く触れられただけなのに、彼の顔をまともに見られず、私はうつむいてしまった。
こうして触れられると、かえって別の手を思い出してしまう――昨夜の、肌に伝わるナナキの熱を。
これではまるで世の不倫妻のようではないか。夫以外の男と一晩ベッドを共にしたのは事実であるが。
とはいえ私は本物の妻ではないので不貞には当たらないだろうが、それでもどこか後ろめたさを感じてしまうというのに、実際に不貞行為を働いている人妻たちはどれだけ神経が図太いのかと感心してしまう。
幸いにもレイオール伯は私の異変に気づいてはいないようだった。ほっとするとともに、かえって罪悪感が増してしまう。
まったく、これまで仕事以外で異性と話すことすらほとんどなかったのに、ここへ来てからずいぶんと密接に関わりすぎる。やはり自分に色恋沙汰は向いていないのだと改めて実感した。
兵の手配などをするため、伯爵は話が終わるとすぐに部屋を出て行った。私もまだ寝るには早い時間なので寝室を出た。そしてすぐ廊下でユーリスと遭遇した。
「行動を慎んでくださいと申し上げたはずですが」
「な、何の話かしら……」
眼鏡の奥の目つきが、いつもより鋭く感じられる。
これは寝室の会話を盗み聞きでもしていて、脅しに来たということか?
だとすれば――やはりユーリスがクロということになる。
「あまり頻繁に行商人を密室に招かれますと、あらぬ疑いを招きますからね。少しは自重していただきませんと」
「は、そっち?」
私は思わず拍子抜けして、間抜けな声が出てしまった。ユーリスの目つきがますます凶悪になる。
「そっちとは?」
「あ、いや、こっちの話」
ユーリスが釘を刺しに来たのは、ナナキが行商人として訪れ、「密会」をしていたことに対するものだった。鉱山調査の件はまだ知らないということなのか――それとも知らないふりをしているのか。現時点ではまだ確証が持てない。
「あなたが偽物であろうと、あなたの行動が旦那様の品位を穢しかねないのですから、充分お気をつけください」
ナナキは冷たい目で私を見下ろし、そう告げた。
それがただの忠告なのか、裏で動いている私に対する牽制なのか、その能面のような表情からは読めない。こういう時、糸目は有利だとつくづく思った。
不穏な空気を感じつつも夜は更け、自然な流れでまた二人で夜を迎えることになった。
「――は? 何で!?」
これから寝ようという時刻、寝室にレイオール伯が渡ってくるという知らせをソーシャから受け、私は思わず頓狂な声を上げてしまった。
「実は……」
困ったようにソーシャは事情を説明した。
私と入れ替わった当日、アイシアは夜中まで邸内をうろついていたという。恐らく本人は探検のつもりだったのだろう。必要以上に好奇心の旺盛なお嬢様なので想像は容易である。
そこへ遅くに帰宅した伯爵が遭遇し、アイシアを寝室まで送り届けた後――結局そのまま二人とも朝まで出てこなかったらしい。
そしてそれから毎晩、二人は寝室を共にしていたのだと――
「――話が違うじゃない!」
何をしてるんだ、アイシア!
結婚が嫌だから身代わりまで立てたくせに、何で本当に夫婦生活を営んでるんだよ!
今思えばアイシアの様子がおかしかったのは、夫と離れたくなかったからなのか。
だったら言ってくれよ、頼むから。別にこっちは本物の夫婦の邪魔したいわけじゃないんだから!
「――アイシア、どうかしましたか?」
「い、いえ……」
そういうわけで、今、私はレイオール伯と寝室に二人きりである。ソーシャはすでに退室し、二人並んでベッドに腰かけている。
「今夜はいつもと様子が違いますね。熱でもありますか?」
心の中でアイシアに怒りをぶつけていたのを、伯爵はいぶかしく思ったらしい。
心配げに私を覗き込み――そして、額に大きな手が当てられた。
「少し熱いようですね。顔も赤いですし」
それは羞恥心に耐えられないからですよ、伯爵。
恥ずかしさといたたまれなさで顔が紅潮し、体温も上昇しているのだ。
激しい動悸にめまいが起きそうになっていると、不意に視界がぐらりと揺れた。
――倒れたのではなく、倒されたのだ。
気づけば、私はベッドに仰向けに寝かされていた。
「アイシア、君は――……」
伯爵は私の体を覆うように両肩を押さえ、覗き込んでくる。
室内灯の炎を映し出して、彼の瞳が赤く輝く。その眼差しは真剣そのものだった。
これはまずい。
かなりまずい。
伯爵はここ数日ずいぶん仲良くなったアイシアを私だと思っているのだ。ここで変に抵抗したら怪しまれる。
昨日までのアイシアこそが本物で、偽物と入れ替わっていたのだと説明すべきだろうか?
しかし、そんなことをしたら私がその間、何をしていたのか訊かれるだろう。また鉱山を探索していたと白状すれば、今度こそ温厚な伯爵も腹を立てるかもしれない。
だが、だからと言って、偽物の私がこのままの勢いで伯爵と何かあれば、アイシアに対する裏切りになってしまう。
「――あの、伯爵、いえ、旦那様」
もはや猶予はない。伯爵が本気モードになる前に制止しないと、取り返しがつかなくなる。
「実は、私は――……」
意を決して私が真実を口にしかけたその時、
「――お休み中のところ申し訳ございません! 火急の用にて失礼いたします」
ノックと同時に緊迫した声が響く。その声の主はユーリスだった。
伯爵は一瞬驚いたように動きを止めたが、少ししてすぐに表情を引き締めた。
「……何がありましたか? 起きているから入りなさい」
伯爵が命じると、扉がやや遠慮がちにゆっくり開いた。火急の用とはいえ、やはり夫婦の寝室にずかずかと入るのはためらわれるだろう。
「先ほど、邸内にこのような手紙が届けられました。今のところ私しかまだ読んでおりません――幸いにも」
ユーリスが差し出した手紙を受け取り、伯爵はランプの明かりの下で読むと、目に見えて表情をこわばらせた。
「これは――!」
レイオール伯の声はやや震えている。何事かと、私も後ろからその文面を覗き込むと、そこにはただ二つの文章が書き殴られていた。
花嫁は預かっている。
返してほしくば、今宵鉱山に来られたし。
「花嫁とは無論、本物の奥様のことですよね。これはいったいどういうことですか?」
ユーリスはこれ以上ないほど鋭い視線で私を問いただす。
だが、私の耳にはほとんど届いてはいなかった。今はただ一つのことが頭を占めていたのである。
――本物のアイシアが誘拐されてしまったという凶報だけが。
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