10 身代わりの花嫁

 翌日、市場に出かけることは思いのほか簡単に許可が下りた。

 伯爵邸のすぐ下の街なので、さすがに危険はないと判断されたのだろう。それにここ何日も書庫か自室に引きこもっておとなしくしていたことも、功を奏したのかもしれない。

 直接ナナキから指示を受けていたソーシャに連れられて、私は市場の外れの小さな家を訪れた。

 護衛役として一人だけ付いてきた従僕を外に待機させ、私とソーシャはその家の扉をくぐった。

「いらっしゃい。予定通りに来られて何よりです」

 ナナキはお茶を用意して私たちを待ち受けていた。ガラスのポットに入っている葉と香りからして、何かのハーブティーのようだ。

 ――いや、注目すべきなのはそこではない。

「まあ、本当にそっくりなのね! すごい腕だわ!」

 持っていたティーカップを皿に戻し、目を輝かせて駆け寄ってきた人物。

 それは私――いや、今の私にそっくりな少女だった。

「あ、アイシア・ワクマー……?」

「今はアイシア・レイオールでしょ」

 腰まで届く柔らかな髪、艶のある滑らかな肌。人形のように整った顔に好奇心をたっぷりたたえた彼女は、私が代理を務めているはずのアイシア本人だったのだ。


「ナナキさん、これはどういうことですか?」

「君たちはこれが初対面でしょう。一度は本人と顔を合わせた方が良いかと思いましてね」

 そういうことではない。それならなぜ私に黙っていたのだ。そういうサプライズは求めていない。

「さすがは『森の賢者』だけあるわね。ここまで凄い変貌術は初めて見たわ」

「森の賢者……?」

 森の賢者と言えばマウンテンゴリラでは? ナナキにゴリラ感は全くないが。

 どうやらゴリラとは関係なく、「宵の森」に隠棲するナナキがその二つ名で呼ばれているようだ。

「自らそう名乗ったことはないんですけどね」

 ナナキは照れくさそうに苦笑した。確かに自分でそう名乗るのは中坊の妄想っぽくて恥ずかしい気がする。

 そしてアイシアが感心しているのは、私のことを自分の姿に変身した人間だと思っているからだ。変貌術とやらで他人そっくりに化けるのは、相当に高度な技術なのだろう。


 ともあれアイシア本人と私を会わせるためだけにここへ集めたとは思えない。いったい何をするつもりだろう。その疑問にナナキはすぐに答えた。

「鉱山麓の村に行って調査をするには時間がかかります。伯爵夫人があまり長い間遠出をするわけにもいかないので、身代わりを立てる必要があるでしょう」

「それでアイシアさんが身代わりに……?」

 そもそも私がアイシアの身代わりなのだが。身代わりの身代わりを本人が務めるのか? 何だか混乱してきた。

「でも、それじゃあ私が身代わりをしていた意味がないような……」

 もともと伯爵自身はこの婚姻を一時的なものと考え、仮面夫婦を演じるつもりだった。それすらもアイシアが拒否したからこそ、この花嫁代行計画が実行されたはずである。そのアイシアが本来の伯爵夫人の席に座るのなら、もう私の役目は終わったことになるのではないだろうか。

「せっかく実家を出られても、この辺の街ってあんまり見て回るようなところがないのよね。王都まで行こうかと思ったけど止められるし」

「護衛もなしに遠出は危険です、お嬢様」

 アイシアの呑気な台詞を咎めるのは、後ろに控えていた女性である。この人が唯一本物のアイシアに仕えているというワクマー家の侍女なのだろう。

「ていうことで、退屈してたところだったのよ。でもあなた、何かいろいろ調査してるんですって? 面白そうだから私も協力しようと思って」

 アイシアはこともなげにそう告げる。

 何のことはない、ただの暇つぶしか。


 もともと仮面夫婦であろうと伯爵夫人になったら自由がなくなるという理由で身代わりを要求してきたお嬢様である。せっかく得た自由時間が退屈になったら、また新しく面白そうなことをやってみたくなったのだろう。

「面白そうって……そんな動機で協力してもらっていいんですか?」

 溜息混じりに私はナナキを見やった。

 事態は思ったよりも深刻で、伯爵家の存亡に関わりそうなことなのに、そんな暇つぶし感覚で参加されても良いものだろうか。私はそう思ったのだが、ナナキの考えはまた別だったようである。

「危険な仕事は僕たちの方で担いますからね。アイシア嬢には本来の家に戻ってもらうだけです。むしろ最も安全ですよ」

 それは確かにそうだ。今、アイシアはナナキの手配した潜伏先に側仕えの侍女と二人きりで身を隠している。王都に気軽に遊びに行けないという話からして、女二人では何かと危険な世界なのだろう。それなら貧乏とはいえ伯爵邸内に身を置いた方がはるかに安全なのは間違いない。そもそも彼女がいるべき場所なのだから。


「レイオール伯爵は私を身代わりの別人だと思ったままだから、代理の妻には手を出さないという契約は有効でしょ。それなら安心して伯爵家に滞在できるじゃない」

 そっちの心配をしていたのかよ、お嬢様。

「夫の目を盗んで悪巧みするなんて、なんだかとってもわくわくするわ。あなた、しばらく戻ってこなくても大丈夫よ」

 ――伯爵、このお嬢様を妻にして大丈夫ですか。

 私は心の中でレイオール伯に問いかけた。

 期間限定なのがせめてもの幸いだろう。永く添い遂げるには多分に不安の残る奥方である。


 その後、アイシアは私の着ていた伯爵夫人のドレスに着替え、側仕えの侍女とソーシャを連れて伯爵邸へ戻っていった。

 もう一人の侍女については、実家から追加で派遣されてきたことにするらしい。

 本来は怪しまれないようにソーシャだけにすべきだが、わがままなお嬢様の世話をするのは慣れた侍女の方が良いだろう。それに身代わりの身代わりなのがバレるのを防ぐためにも必要である。

 こうして、私は期せずしてナナキと二人きりで現地視察をすることになったのだった。

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