8 夫婦の休日

 その夜、伯爵と寝室は別だった。彼の「疲れているだろうから」という気づかいによるものである。本来、生身でない体は疲労しないし、眠らなくても活動はできるのだが、彼はそのことを知らない。

 そのため、翌朝は不審がられない程度の時間に調整して寝室を出たのだが、伯爵はすでに起きていた。昨夜は夜中に馬で何時間も駆けて、いつも以上に疲れているはずなのに。

「おはようございます、アイシア。昨夜はよく眠れましたか?」

 そう言う本人の顔には充分疲労が残っている。休みならまだ寝ていればいいものを。だが昨晩本人が言っていた通り、今日一日夫婦で過ごすために、早くから起きてきたのだろう。実に生真面目な人であるらしい。


 伯爵は私を裏庭に案内した。温かな日差しの中、優雅に庭園散策をするのはまさに貴族らしい暮らしと言える。

「こちらの庭は手入れされているんですね」

 これには私も驚いた。正面玄関の庭木は一目でわかるほど荒れていたのに、裏の庭園はかなり念入りに手入れされていたのだ。普通は逆だろうと思うのだが。

「ここは薬草園ですからね。薬草だけは優先して育てているのですが……他の庭木にまでは手が回らなくて」

 まさかの実用だった。見栄えよりも実利を優先していたのか。

 鉱山に向かう途中でも野生の草花を見かけたが、元の世界と植生が似ているのだろう。この薬草園には私でもわかるようなラベンダーやローズマリーなどのハーブ類が植えられている。他のものもおよそ観賞用とは思えない地味な草花がほとんどだった。

「では、表の庭は私が手入れしましょうか。少しはお役に立てるかと思います」

 別に私はガーデニングに詳しいわけでもないが、やり方を教われば手伝いくらいはできるだろう。伯爵家の玄関がみすぼらしいのはさすがに可哀想なので、私が花嫁代理をしている間くらいは協力しようと思ったのだ。それは、この伯爵がいい人だから助けてあげたくなったということもある。

「そうしていただけると助かります。また危ないところへ出かけて帰ってこなくなったら困りますからね」

 釘を刺されてしまった。

「……すみません」

「どうして鉱山になど行ったんですか?」

 まあ、それは当然の質問だろう。仕方なく私は、レイオール伯爵家の財政の要となる鉱山の実地検分をすることで、立て直しにどの程度時間がかかるか確認しようとしたことを説明した。


「あなたにはずいぶん心配をかけさせてしまったようですね。ふがいない夫で申し訳ありません」

 逆に謝られてしまうと、こちらも立つ瀬がない。

 何と答えようかと迷っていると、伯爵は意外なことを口にした。

「鉱山に関して調べるのでしたら、書庫の資料を自由に見ていただいて構いませんよ。役に立つかはわかりませんが」

 むしろ協力してもらえるとは。止められるとばかり思っていたのに。しかも財政にかかわる資料はかなり重要なはずなのに、赤の他人が自由に見ても良いものだろうか。

「ありがとうございます。では遠慮なく調べさせていただきますね」

 まあ、ここは素直に好意に甘えることにしよう。

 考えようによっては、もう外出するなと暗に言っているのかもしれないが。


 しばらく庭園をゆっくり散策していると、伯爵の侍女の一人が来客を告げてきた。

「旦那様、エトゴール商会の方がお見えです」

「今日は休暇と伝えていたのだけどね」

 伯爵は困ったように溜息をついた。

「旦那様にお会いできるまで帰らないとおっしゃっておりますが……」

「わかった、会おう。すみませんね、アイシア。今日は一緒にいると言ったのに」

「いえ、私も同席させてください」

 財政状態の悪い伯爵家へ無理やりアポなしで訪れ、当主に会わせろとゴネる商人。あまり行儀のいい相手でないことは間違いない。この底抜けにお人好しな伯爵一人で行かせるのは不安があったのだ。

 伯爵は困惑した様子だったが、私は構わず付いていくことにした。



 応接室に入ると、小太りの中年の小男がソファに座っていた。これがエトゴール商会とやらの商人なのだろう。わかりやすく光り物で全身コーディネートした、いかにも成金っぽい悪趣味な男である。

「お休みのところすみませんねえ、伯爵様。おや、そちらのご婦人は」

「このたび迎えた妻のアイシアです」

 私はドレスの裾を少し持ち上げて、淑女らしく一礼した。この仕草はアイシア本人の記憶から引き出したものである。元の私にそんな動作は自然にできない。

「おお、それはおめでたい。これこそまさに加護の証というものですな! ならば三か月滞っている代金もお支払いいただけるというもの」

 わざとらしく手を打って、商人はこちらを値踏みするような目でなめ回すように見つめてきた。

 不快感をこらえながら、私は不穏な一語を聞き返した。

「代金とは何のことですか?」

「精霊の壺のお代です」

「精霊の……壺?」

 返ってきたのは、よりいっそう不穏な単語。

 何だろう、とてつもなく嫌な予感がする。

「そう、精霊を集めて加護を得られる聖なる壺ですよ。そこに飾られているでしょう?」

 商人が指差した先には、灰色の地味な壺が鎮座していた。だいたい米5キロくらいが入りそうな大きさだが、中には何も入っていない。

「……精霊を集めると言っても中身がないようですが?」

「精霊は人の目には見えませんからな。ですが事実、このようなお美しい奥方を迎えられたではありませんか。これが加護でなくて何でしょう」

 私は背中で大きく息をついた。元の世界でも怪しげな広告でさんざん見たアレ。

 金運を招く財布だの、開運のハンコだの、異性を寄せ付けるアクセサリーだの。

 ただの霊感商法ではないか!

「このたびの婚姻はレイオール家とワクマー家で取り決められたことで、精霊は関係ありません。それに――実は私、精霊を見ることができるのです」

「は……何ですと……?」

「私の見る限り、この中に精霊はおりません。もしかしたら我が家とは相性が良くないのかもしれませんね。ですので、この壺はお返しいたします」

 満面の笑みとともに、私は壺を商人の小男に押し付けた。

「一度買ったものを返すなど、非常識ではありませんか!」

「事前の商品説明と実際の効果が合っていないのだから当然でしょう。精霊を集めるというのなら、その証拠を見せていただけますか?」

 元の世界で言うところの景品表示法違反である。当然この世界にそんな概念はないだろうが、だったら強引にクーリングオフしてやろうではないか。

「それに、今後は私の実家であるワクマー商会との取引を中心といたしますので。そちらも当家と今後も関係を続けるおつもりでしたら、良質な商品をお持ちいただくようお願いいたしますね」

 にべもなく告げて、私は小太り男を屋敷から追い出した。


 ひとまず壺については片付いた。だが、問題はここからである。

 以上のやり取りをただひたすら見つめるだけだった、レイオール伯爵家の当主様だ。

「伯爵様、どうしてあのような壺を買われたのですか? それほど精霊の加護が必要だったのですか?」

「いえ、あの壺が売れないと一族を養っていけないと商人に泣きつかれまして、つい……」

 開運マニアの方がまだマシだった。聞いていて頭が痛くなってくる。お人好しにも限度があるだろう。

「一族が路頭に迷うような人が、あんなに金ぴかの恰好をしているわけがないでしょう! 身に付けている装飾品を売るだけで何年も暮らせるんじゃないんですか?」

「それもそうですね……」

 今気づいたのかよ。

「……伯爵様、もしまた訪問販売が来た時には私も同席させていただけますか」

 この人に一人で買い物をさせるのは危険すぎる。高齢者を電話で誘導して金を騙し取るより簡単だろう。

「わかりました。ですが、アイシア」

 私を呼ぶ伯爵の声に、急に熱がこもる。私が夫を差し置いて仕切り出したのが気に食わなかったのだろうか。現代世界よりもはるかに女性は慎ましくすべき世界だろうし、腹を立てても無理はない。

 叱責が飛ぶかと一瞬身構えたが、そうではなかった。

「夫婦なのですから、私のことは伯爵ではなく、できれば名前で呼んでもらえますか」

 年よりやつれて見えるはずなのに、まるで子供のように純粋な目を向けてくる。直視するには眩しすぎて、私はつい視線をそらしてしまった。

「わかりました――旦那様」

 ひとまず夫婦らしい呼び方にはしよう。だが、互いに名を呼び合うような関係は、本物の花嫁と築くべきだと私は思った。

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