4 初夜

 初夜である。

 新郎が新婦のいる寝所を訪れることに何の不審点はない。というか、来ない方がおかしい。

 初夜である。

 ――そう、初夜なのだ!!

 一生自分に降りかかることがないと思っていたこの二文字が目の前に現れ、私は呼吸困難に陥りそうになっていた。現在、本物の呼吸器官など内蔵していないにもかかわらず。


「――アイシア、起きていますか?」

「は、はぃぃっ!」

 完全に声が裏返っている。もうこれはどうしようもない。

 男性に免疫がないのにいきなり初夜のベッドに放り込まれるなんて、泳げない幼児を深いプールに投げ落とすようなものだ。確実に溺れ死ぬ。

「……そう身構えないでください。何も取って食ったりはしませんからね」

 室内に入ってきたレイオール伯はそう苦笑した。

 笑うと眉尻が下がり、いかにもお人好しそうな表情になる。

 ラグリス・レイオール伯爵、34歳。

 金欠と心労のせいか、実年齢よりも少し老けて見えるが、顔立ちは決して悪くない。若い頃は結構モテていたのではないだろうか。いや、貴族社会だと財力がなければ見向きもされないかもしれないが。

 結婚式本番でも当然顔は合わせているが、私はずっとヴェールをかぶっていたし、こちらの様式では誓いのキスもなかったので、まじまじと顔を見るのはこれが初めてなのだ。

 16歳のアイシアにとっては倍以上も年上の男はオジサンにしか思えないだろうが、元がアラサーの私からすれば充分に許容範囲である。

 ――なんてことを考えている場合ではない!


「君がアイシアでないことは、我が家でも一部の者にしか知らせていません。ですから、間違いのないように本当の名前は聞きませんし、君も常にアイシアとしてふるまってください」

「はい、大丈夫です」

 何が大丈夫なんだかわからないが、私は緊張で両手を固く握りしめ、うつむいてそう答えるのが精いっぱいだった。

 近い、近すぎるよ、伯爵!

 そうはいってもお貴族様だし、この年齢だし、恐らくレイオール伯はある程度女性に慣れているのだろう。だからベッドで全身をこわばらせている私の隣に自然な動きで腰かけ、息が届くほどの距離で話しかけてくる。

 筋金入りの喪女には刺激が強すぎます!

 しかも、レイオール伯はさらに私の両手を握ってきた。

「そんなに力いっぱい握りしめたら、せっかくのきれいな手のひらが破れてしまいますよ。何もしませんから、緊張を解いてください」

 ――緊張を解かせるなら手を握るな!

 手を握られただけでこっちは限界なんだよ!

 心の中で叫びながら顔を上げると、心配そうに見つめてくるレイオール伯と視線がぶつかった。

「あ、あの、何もしないって……」

「そういう契約ですからね。本物のアイシア嬢でもそのつもりでしたが、まして君は別人です。君の雇い主からも釘を刺されていますから、何の心配もしないでください」

 雇い主、つまりナナキのことだろう。自分は私の体を触りまくっていたくせに、他人にはお触り禁止を強制するのか、あいつ。まあ、おかげで助かったが。


 もともとレイオール伯とアイシアは期間限定の仮面夫婦の予定だった。だから伯爵は18も年下のアイシアに手を出すつもりなどなかったのだろう。だが、そのアイシアの偽物、しかも名前すら知らない、身代わりを引き受けるような身分の低そうな女であれば、気軽に手を付けることだってできるはずだ。

 伯爵が花嫁代行をその手の出張サービスとみなすような人物でなかったことに、私は心底ほっとした。少々距離が近すぎるような気はするが、この世界では普通なのかもしれないし。やたら距離は近いけど。

 だが安堵したのも束の間、伯爵は爆弾発言を投下した。

「今夜は家の者に怪しまれないように、ここで寝(やす)みます。改めて言いますが、何もしませんので緊張しないでくださいね」

 ――無茶を言うな!!!

 とんでもなさすぎる発言に、抗議の声すら出てこなかった。口をぱくぱくさせる私を尻目に、伯爵はベッドにゆるりと上がり、布団の中に体をすべらせた。

 よほど疲れているのか、枕に頭を預けるとほぼ同時に寝息まで聞こえてくる。

(――本当に寝るのかよ!)

 本当に文字通り寝たよ、この人。

 正直、私はベッドから蹴り落としたい衝動に駆られた。こっちは慣れないことの連続で心が死にかけているというのに、何で無神経にも見知らぬ女と同じベッドで平然と寝られるんだ。しかも見た目は16歳の美少女だぞ。聖人かよ。

 もちろん、何かされたいわけでは断じてない。そもそもこの体、いくら精巧でも本当に夫婦の営みなどできるのだろうか? いや、確かめたいわけではないけれど。


 理解不能な出来事の連続で、思考が定まらない。

 ……疲れた。

 これ以上考えてもどうしようもない。こういう時は寝るに限る。

 私はできるだけ伯爵から離れたベッド端に陣取り、布団をかぶった。

 一人暮らしのワンルームのシングルベッドとは全く異なる、広くてふかふかなキングサイズのベッド。だが、違いはそのサイズや寝心地だけではない。

 背中を向け、触れないように離れて寝ても、同じベッドの中では相手の体温が肌に伝わってくるのだ。今まで一人寝の記憶しかない私が、こんなところで初めてその温もりを知ることになろうとは。

 これが文字通り同衾というやつか……

 ダメだ、やっぱりこの状況ではまともな思考などできそうにない。

 とにかく眠って頭をリセットさせたいところだったが、喪女が新婚初夜を過ごすという激震の走るような経験に、いつまでもまどろむことすらできず朝を迎えた。

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