3話 あの日の記憶

 亮太とは高校生の頃に出会った。

 そのまま社会人になるまで付き合うことができたのは、どちらかというと若い子特有の燃え上がるような恋ではなく、一緒にいるのが自然なような、もうすでに家族のような、亮太の穏やかで独特の雰囲気に惹かれたせいだった。

 私たちは趣味も性格も違うのによく休日を一緒に過ごして笑い合った。

 大学を卒業した後、亮太は学校の先生になった。


「亮太せんせー。学校はどう? ちゃんと先生らしく過ごしてる?」


 ある休日、亮太の部屋を訪ねた私はソファでごろごろしながらそう聞いた。

 手にはビールの缶。

 最近クラフトビールにはまっていると話したら、亮太は自分の冷蔵庫にいろんな銘柄を集めてくれた。我ながらものすごく甘やかされていると思う。

 私は猫が書いてある可愛いビール缶を選んで少しずつ飲んでいた。

 床に座ってソファを背もたれにしていた亮太は、読んでいた本からいったん目を離し、こちらを振り返る。


「からかうなよ。そこそこ人気なんだからな。授業がわかりやすいって」


 亮太は偉そうなしゃべり方をするくせに、声が妙に優しくて心地良い。

 そのアンバランスさが大好きだった。


「へえ。私も何か教えてもらいたいな」


 亮太は確かに人にものを教えるのが得意だった。

 難しいことを簡単に、自然と相手の目線に立って教えてくれる。

 頭の良い大学に行っただけある。

 特に勉強も好きではなく、衝動的に行動してしまう私とは、つくづく正反対だった。


「なんでも教えてやるよ」

「じゃあ魚釣りで!」


 釣りは、実を言うと私の隠れた趣味だった。

 あまり人には言っていないが、亮太は私の腕前をよく知っている。

 以前釣り堀に行き、どちらが多く釣れるか対決してみたことがあるが、見事に私の勝ちだった。

 なのに亮太は得意げな顔で立ち上がり、私を見下ろす。


「じゃあ、魚のうまい逃がし方を教えてやる」

「あはは、何それ」

「来週の過ごし方は決まりだな」


 くだらないことで笑い合って、ソファの上で猫の子みたいにじゃれ合う。

 私は亮太のことが恋愛対象として好きだったけど、それ以上に、まるで双子がいたらこんな感じだっただろうなと妙な感覚を味わっていた。


 私にとっての亮太は、魂の半身だった。

 誰かに怒られてしまいそうな、甘えきった関係。

 なのに亮太は私の全てを受け入れてくれた。

 きっとずっとこのまま一緒にいて、結婚して、おじいさんとおばあさんになるものだと、私は半ば確信していた。 


 それなのに、どうして離ればなれになってしまったのか。

 その前後の記憶は思い出したくもない。


 静かな月の光が、あの夜の光景をモノクロで浮かび上がらせる。

 トラックにぶつけられてぐしゃぐしゃになり横転した車体。

 運転席で気を失いながらも奇跡的に軽傷で済んだ亮太。


 ――そして、助手席で形もないほどにぐしゃぐしゃになっている私の体。


 悲惨な光景を、私は上から呆然と見下ろしていた。

 夢を見ているみたいだった。

 私はその光景を、亮太の記憶ごと心の奥深くに沈めた。

 覚えていたらとても生きていけないと思ったからだ。

 もう死んでいるというのに、おかしな話だった。



 こんな記憶を取り戻した直後で、私は役目を果たせるわけもなく、早々に墓場に帰って来た。

 亮太のことを考えながら、膝を抱える。

 何もする気が起きなかったし、誰かと話す気も起きなかった。

 それからどのくらい経ったのだろうか。


「みことちゃん」


 ふいに声をかけられて顔をあげる。

 無意識のうちに自分の墓の前でうずくまっていた私を心配するように、やえちゃんがこちらをのぞき込んでいた。

 いつの間にか丸一日経っていたらしく、やえちゃんの頬が沈みゆく夕陽に照らされている。

 頭の中はぐちゃぐちゃなのに、まるで生きているみたいなやえちゃんの姿がおかしくて、ひきつったような笑いが零れた。

 私たちは昼夜関係なく存在できるし、幽霊同士であれば互いの姿を生前と変わらないように認識できる。

 でも影はなく、念じるだけで一瞬のうちに目的の場所に移動できる。

 生者とは違う。……亮太とは、違う。


「私、どうして死んじゃったんだろう」


 ぽつりと呟くと、やえちゃんは私の憔悴ぶりにはっとして、痛ましげな表情になった。


「もしかして、思い出したの? 亡くなった時のこと」

「……うん」


 亮太と私は魚釣りに行った。

 川辺で思う存分遊んで、一泊して――あの出来事は、帰り道に起こった。

 遊び疲れていた私に、亮太は寝てていいよと言ってくれた。

 私もその言葉に甘えて目を閉じ、やがて耳をつんざくようなクラクションの音と激しい重力を感じて目を覚ました。

 前を見ると、対向車線を走っていたはずのトラックが、ふらふらとこちらに寄ってくるところだった。居眠り運転だろうか。


 避けようとしても避けきれなかった。

 その結果、私が死んで、彼が生き延びたのだった。


「そう……。残された彼の気持ちを思えば、落ち込むのも無理はないわね」

「……そうだね」


 上の空のまま、やえちゃんの言葉に頷く。

 生き残ってしまったことに彼の意思は介在していないし、もちろん彼が悪いわけでもない。

 けれど彼は私を助手席に乗せてハンドルを握っていた。

 その罪悪感は想像するだけでも胸が激しく締め付けられる。


 ――でも。

 勝手なことに、私が記憶を消すほど痛みを覚えた理由は他にある。

 やえちゃんは知らない。私の悍ましい胸のうちを。


 私はお供え物のビールに指先で触れた。缶には猫の絵が描いてある。

 誰が私にビールを供えてくれていたのか。

 その姿を見ることはなかったとはいえ、私は全く気にすることがなかった。

 今思えば不自然なことだ。

 私は記憶の中のみならず、心の中からも、亮太の存在をかけらも残さずに抹消していた。

 それは全部、私のためだけに。


「よぉし、今日はお仕事休んで私とぱーっと遊びましょう!」

「ううん。行くよ」


 私を元気づけようとしたやえちゃんの言葉に、首を振る。

 だって、あそこには亮太がいる。

 いつも一緒にいたんだから、居場所を知っていて離れ離れになるなんておかしい。

 私の中で、どす黒い感情が渦巻いていく。

 思考がばらばらになる。まるで、私が私ではなくなるような。


 何かに導かれるように亮太のいるあの学校に向かおうとして――私たちの目の前に、突然私の『上司』が現れた。

 上司が下界の墓場まで足を運ぶようなことは、通常であればまずない。

 つまりこれは、なにか緊急事態が起きたという証だった。


「椚みこと。今日あなたは休暇を取りなさい」

「どうしてですか? 新しく配属になった中学校で、私はまだ怪異を広められていません」


 静かに問い返すと、上司は珍しく険しい表情で口を開いた。


「……『捕縛対象』が出没しました。しばらくあの場所は出入り禁止です」


 その言葉にやえちゃんが息を呑む。

 捕縛対象。

 危険怪異管理機構が使うその言葉は、本物の怪異を表すものだ。


「あの学校には今、死に魅入られた者がいるようです。死に魅入られた者は怪異を強く惹き付ける。すぐにでも対応する必要があります」


 ――亮太のことだ。詳細を聞かなくてもわかった。

 私はすぐさまあの中学校を思い浮かべた。

 目の前の視界がぶれて、ぐにゃりと曲がる。


「椚みこと、待ちなさい!」


 上司の命令を無視して私は空間を移動しようとしていた。

 いつもだったらこんなことはできないはずだ。

 つまり私は上司の管轄から外れようとしているということで……平たく言うと、怪異になりかけていた。


 亮太を怪異に殺されるくらいなら、私が亮太を殺したい。

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