2話 再会
翌日、私は墓場から職場へと出勤した。
「今日からあなたは他の場所への派遣ですね」
だだっ広く真っ白な謎の空間にいるのは、私ともう一人、スーツを着た上司だった。
上司は、もちろん生者ではない。ただの死者とも違う。
生き物の魂を司る死神に近しい存在なのだと聞いたことはあるが、その正体については私もよくわかっていなかった。
ただ『上司』とだけ伝えられている。
本名も知らない。私たちの前で他の上司と話す時はアルファベットで呼び合っているのだから、徹底している。
上司はいまちい感情の読めない灰色の瞳を私に向けた。
「椚みこと。あなたには男子トイレを担当してもらいます」
「いやです。絶対にいやです」
思わず即答した。
「……あなたに拒否権はありませんが、一応理由を聞きましょう」
「なんで男子トイレなんですか!? なんでなんですか!? 私、これでも乙女なんですけど! 死んでもセクハラってあるんですか!?」
トイレ担当といえど、今まではそれとなく配慮されていたような気がする。
思わず必死に訴えかけると、上司は鬱陶しそうに私に冷たい視線を向けた。
「肉体を超越した存在である私たちが、性のことなど気にする必要もないでしょう」
「気にしますよ!? そりゃあ、あなたたちにとっては気にならないものなのかもしれませんけど」
そもそもこの上司の性別はどちらなのだろう。
さらりとした長髪と整った顔は女性のようだが、直線的な体つきは細身の男性のものに近い。
「他人の体をまじまじと見るのは失礼ですよ。ちなみに私は男です」
「肉体を超越した存在が性のことなど気にする必要はないんじゃなかったんですか?」
「人間が言うところのケースバイケースというものですね」
微妙に違う気がするし、ていよく話を誤魔化されてるような気もする。
「とにかく、さっさと現地に向かってください。逆らうことは許されませんよ」
「……わかりましたぁ」
ここで逆らったところで、どうせ聞いてはくれない。
私は幽霊のまま地上に留まる選択をした時点で、この人に管理される運命にあるのだ。
私はぞんざいな返事をして、渋々地上へと向かった。
◆
みことを見送ってから、みことの上司――長髪のスーツの男はため息をついた。
その後ろ、何もない空間が突然奇妙に歪む。
黒いもやが渦巻いて、過ぎ去っていった後には、全く同じスーツを身につけた筋肉質な男の姿があった。
「死者に肩入れするな」
開口一番の言葉に、長髪の男は肩をすくめる。
「私は効率を考えているだけです。私たちの仕事は何でしたっけ?」
「未練のある魂にここで仕事を与えつつ、希望者については成仏を手伝うこと」
「そう。記憶が全て戻れば、あの子はその『希望者』になるかもしれません」
「逆もしかりだろ」
一時的に記憶を失っている霊魂の存在は少なくない。
だがそれは大抵理由があった。強烈に焼き付いている記憶か、もしくは意図的に消去した記憶だ。自分を守るために。
「だったらなおさら、引き続き仕事をしてもらうまでです。私は曖昧な状態に或る魂が嫌いなんですよ」
「……お前はちっとも人間のことをわかっちゃいないな」
筋肉質の男は諦めたようにそう呟いた。
◆
私は、命令に背いてこのまま仕事をサボりどこかに行ってしまおうかしばらく考えたものの、結局配属された小学校のトイレにやってきた。
逃げたところで一瞬で上司に捕まることは目に見えていたからだ。
「理不尽……お化けの世界には法も刑事罰もないんだから……」
しかも相手は天界からの使命を背負った『死神のようなもの』だ。
20代前半で死んだちっぽけな女の魂がどう逆立ちしても叶うはずはない。
私はトイレの天井付近でめそめそとしながら漂った。
放課後の鐘が鳴ってからしばらく経っても、個室の方には誰もこなかった。
生徒達の声も聞こえなくなり、日が沈んだトイレに明かりがつく。
そんな中、廊下からトイレに通じるドアの向こうから会話が聞こえてきた。
「原田先生、休職開けなんですから、あまり無理しないでくださいね」
「はは、大丈夫ですよ」
年配の男性と、若い男性の声。
後者の声に、私は聞き覚えがあった。
誰なのかはさっぱりわからない。
なのに妙に胸の中がざわついて、ないはずの心臓が軋むような音を立てている錯覚に陥った。
肉体を失ってから、こんなことは初めてだった。
戸惑っているうちに個室のドアが開く。
「……無理するなって言われてもな」
ぼやくような呟きは、さっき聞こえた若い男性のものだ。
やっぱり聞き覚えがある。
男性は用を足す気配もなく、蓋を閉めたままの便座に腰掛けた。
酷く疲れたような様子だった。
そのつむじをじっと眺めていると、ふいに男性が天上を見上げる。
まるで何かを思いついたような表情だった。
――思い出した。
私ははっとして、その顔から視線が逸らせなくなる。
この人は、私の元彼だ。
元彼とこんなところで再会とはいかに。
いや、いかにじゃない。
もっとあるじゃん。
生と死をまたいで運命的な再会するなら、ロマンチックな場所がいいじゃん。
よりによって男子トイレて。
そんなセルフツッコミをかます一方で、頭のどこかで警鐘が鳴っていた。
これ以上この人のことを思い出してはいけない。
今すぐにここを立ち去るべきだ。
……でも。私は、この人にずっと会いたかった。
突然のことに混乱しきった私は、自分がどうすべきかわからないまま上から彼を見つめていた。
ふいに、彼が震える唇で名前を呼ぶ。
「みこと」
「ちがっ……違います! あの学校の怪談でよくある、赤いはんてんか青いはんてんか聞いてくる奴です!」
正体がバレるのは厳禁だ。
とっさにそう答えてから、すぐにそれは自分に呼びかけられたものではないと気づいた。
彼の瞳は暗く淀み、斜め上を見つめている。
ドア上部、銀色の金具があるところを。
「みこと。そうだ、俺もそっちに行けばいいんだ」
彼はポケットに手を入れると、くたくたになったビニール紐を取り出した。
先が結ばれ、輪になっている。
なぜそんなものを持っているのか。
疑問はすぐに解消された。
彼はドアの金具にそれをひっかけ、背伸びをした。
低い位置でも人は首を吊ることができる。
以前読んだホラー小説に書いてあった記述が頭に蘇った。
足をつけたまま、彼がビニール紐の輪に首を通す。
細い紐が彼の皮膚に埋まっていく。そこでやっと私は我に返った。
「だめ!」
私の金切り声に呼応するかのように、ロープがちぎれる。
彼はそのまま尻餅をつき、苦しそうに咳き込んだ。
体は生きようとしているのに、彼の心は死のうとしている。
彼岸を見つめているような瞳から、それがわかってしまった。
「……私のせいだ」
私は掠れた声で呟く。
その途端、今までずっと忘れていた記憶が鮮やかに舞い戻ってきた。
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