第8話 事象の影
瑪瑙の操縦するギャザーコマンドは大気質研究所に到着し、駐車場に着陸した。上空では無人偵察機が今も周回しながら研究所を監視している。特に変化はない。無人の研究所がひっそりと稼動を続けている。
「見れば見るほど……本物ね」
瑪瑙は嘆息した。そう、確かこの角に車をぶつけた跡があった。コンクリート表面の塗装がはがれ、角が欠けている。こんな傷まで同じだ。訳が分からない。
瑪瑙は研究所の外周を一回りした。当然人影はない。棘皮星人が何かしているという気配もない。念のため持ってきた光線銃はいつでもホルスターから抜けるように準備しながら、正面玄関に近づく。
正面玄関はガラス張りだ。中央の二枚がガラスの自動ドアになっている。ドアの前に立つと当然のように開く。中は無音。不気味な静寂に包まれている。
「こちら瑪瑙。所長、これから大気質研究所に……いえ、正体不明の建物に侵入します」
瑪瑙が時計型端末に話しかける。ややあって返答があった。
「うむ。気をつけろよ、瑪瑙。そこには何があるのか分からん」
「了解よ、父さん」
瑪瑙は意を決しドアを通る。この玄関は見覚えがある。張ってあるポスターまで一緒だ。下の方が日に焼けて半分めくれあがっている所まで。違うのを貼ればいいのにと思った記憶にある。この観葉植物も見覚えがある。何から何まで、気持ちが悪いほどそのままだ。
鏡像? ふとそんなことを考えたが、そうではない。向きは同じだ。過去に棘皮星人の鏡像攻撃に苦しめられたことがあったが、それとは違う。
瑪瑙は光線銃を構えながら進んだ。ここは受け付け、事務室。ドアを開けると電気がついている。だが誰もいない。室内を探ってみるが、パソコンはついたまま。湯呑に入ったお茶は温かくはないがそのままになっていた。ノートなどの資料を見るとそれぞれ違う筆跡で書かれている。本物のノートだろう。ついさっきまで人がいた。そうであってもおかしくはない。だが大気質研究所は爆弾で破壊されたのだ。
一階には物置と食堂があったが、こちらも無人。二回の分析室に向かう。
分析室。ここだ。ゆっくりとドアを開けるが、ここも無人。ガスクロマトグラフィーは分析中のまま放置されていた。試料も置きっぱなし。きっと、爆撃を受ける直前の状態なのだろう。
研究員室。ここも無人だ。そして……ああ、ここは美幸の席だ。大学生の同級生。机にウサギのキャラクターがプリントされたマグカップがある。ここは美幸の席だ。爆撃で死んだ、美幸の席だ。
置いてあるノートや資料を見る。この丸っこい字は美幸の字だろう。ノートを貸し借りしていて、今もその時のことを憶えている。字が丸すぎて分かりにくいと文句を言ったものだ。ああ、美幸。あなたは死んでしまった。しかし、ここに、まるで今も生きているような痕跡がある。めまいがしそうだ。瑪瑙は机に手を突いて崩れそうになる体を支えた。
今は任務中だ。感情を抑えなければ。ここは戦場だ。これは何らかの攻撃である可能性が高い。
まさか思い出し涙を誘うなどというものではないだろう。理解のできない脅威だ。不気味さがどんどん増していく。このリアルな研究所は、一体誰がどうやって作ったというのだ?
窓から外を見る。見える世界は普通だ。特に異常はなく、上空の偵察機が見える。
「炎児君、応答して」
「こちら炎児。何ですか、瑪瑙さん」
「今建物の二階の窓際にいるの。そちらから確認できる? 私の手の指は何本?」
「ちょっと待ってください。今角度を合わせて……見えました。瑪瑙さんがいます。指は三本です」
「そう、分かったわ。光学的な欺瞞は無いようね」
「そうですね。無いように感じます」
「分かったわ、ありがとう。通信終り」
この場所での情報と向こうで得られている情報に差があるのかと思ったがそういうわけでもないようだ。電子的な情報はどうか分からないが、計器を持ってきていないのでそこまでは分からない。
「ますます分からない。この施設は一体何なの……」
窓を背にし枠に腰掛ける。無人の部屋。美幸の席。失われてしまった物。その器だけを再現して、何をしようというのだろう。
いったん外に出て周囲をもう一度確認しよう。そう思った矢先、揺れを感じた。
めまいかと思った。しかし違う。これは建物が揺れている。地震だ。何と間の悪い事か。
瑪瑙はしゃがみ込み壁に手を突く。結構揺れる。そして瑪瑙は見た。空間が揺らぐのを?
美幸の席だった。椅子の上の空間がぼんやりし、光が白くにじんでいる。
攻撃か?! 瑪瑙は逃げようとするが、骨折の痛みでうまく動けなかった。
恐怖に身をすくめていると、地震はやみ、空間のにじみも消えた。そして影が現れる。人の形だ。それは……美幸の姿だった。椅子にもたれかかっている。何もない空間から現れた。
「何……! どういう事なの?」
瑪瑙は立ち上がり美幸に駆け寄る。そして気づいた。美幸だけではない。他にも三人がそれぞれ椅子に座っていた。皆椅子で気を失っている。
「美幸……? 美幸! 大丈夫? 起きて!」
美幸の呼吸は正常だった。脈拍もある。死体ではない。肌は温かく、生きている。他の三人も同様だった。
「美幸……あなたは、生きていたの?」
意識を失ったままの美幸の頬に触れる。温かい。彼女は生きている。しかしあの時、葬儀で死に顔を見たのだ。棺に花と一緒に納められた美幸を。瑪瑙は自分の無力を呪い、慙愧の涙を流した。なのにここに、美幸がいる。
「ああ、どうして……どうなってしまったの、この世界は?」
ともに再び会えた喜びと、そして同じくらいの恐怖が、瑪瑙を襲っていた。
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