現代を駆ける浦島太郎
「さよならだ、真知子」
そう言って僕は彼女から目を背けた。僕が求めれば彼女はいつだって傍にいてくれたし、果てるまで付き合ってくれた。
「別に嫌いになった訳じゃないよ。ただ……」
真知子の顔は見えなかったけど、たぶん悲しい顔をしている。そう考えると言葉が詰まった。
「もう、私には飽きたってこと」
「そんなことないよ。そろそろ僕も変わらなきゃって。いつまでも君に頼ってばかりじゃかっこ悪いなって思ったんだ」
「……そっか」
彼女は聞き分けもよかった。
窓の先に広がる空は青く暑そうだ。蝉の声がうるさかった。
海浜公園に来た。多くのカップルや家族が海と砂浜と人との繋がりを楽しんでいるのに僕は一人で歩いている。よかったのだろうか。未だうじうじと悩みながら、真知子を放した。
「おい! こんなとこに亀がいるぜ」
「ほんとだ。いじめてやろうぜ」
3人の男の子が亀を囲って棒でつついたりしている。可哀そうな亀は甲羅に首を埋め、ただ児童特有の残酷さに耐える。弱いものをいじめる男の子たちに腹が立ったが、同時に臆病に耐えるだけの亀にも少々鼻についた。
「なにやってんだ、クソガキども。散れ」
そういって子供たちをどかしたあと、のろい自分のせいでもあるんだとしっかり僕は亀にも叱りつけた。
すると亀はにゅっと首をのばし目をしばしばと瞬きさせた。
「あなたは真に優しい人です。ただ弱きを助くだけでなく改善方法を提示してくださるなんて。あなたのような人を探していました。ぜひ竜宮の城へお越しください」
「いや竜宮城って、またべたな」
小さい割にロートーンの渋い声でごく自然と人語を話す亀、と話す人間。こういった非日常を簡単に受け入れる人種は僕だけじゃないはずだ。昨今のメディアに触れまくってる人ならちょっとやそっとじゃ驚かない。
「いま竜宮の城は男性が足りず、種の存続の危機に瀕しています。かといって適当な人間をつれて行きようものなら、原罪に縛られた人間が何をしでかすかわからない。ですから私は古き人間の理に沿ってこうやって砂浜で男児にいじめられていたのです。そして神話に登場する英雄の様にあなたはあらわれた。あなたは我らの国の救世主になられる御仁です」
いってしまえば日本昔話も神話に分類するような気がするけど、けど……
「悩んでおられるのですね。分かります、分かりますとも。過去の常識や自分の考えに捕らわれ、知らない世界に一歩を踏み出す恐怖を感じているのですよね。大丈夫です。あなたほどの誠実さと実直さと真面目さがあればどんな困難も乗り越えられる。あなたは救世主なのですから」
「さっきから救世主救世主って。まあ悪い気はしないけど。そもそも竜宮城に行って僕にメリットある?」
行ってみたら呼吸できずにちゃんちゃん、なんてのはごめんだ。
「勿論ありますとも。絶世の美女乙姫様のつがいになることもやぶさかではありません。あなたは竜宮を救う英雄となり姫と結婚する。素晴らしい物語です。……それに、もし行って不満がありましたらいつでも、ここに帰ってこれます」
その一言が僕を決心させた。亀の背に乗り、僕は海を滑るように潜っていった。
しかし行ってみたら不満だらけ。乙姫様は確かに美しかった。でもそれはしなやかな尾びれと潤んだ瞳。魚の体をしている限り僕は納得できない。種族の壁は大きいのだ。申し訳なく思ったけど、僕は亀に帰れるようお願いした。
「そうですか、残念です。わかりました、それではまた私の背中に乗ってください。元の砂浜までお連れ致します」
まだ夏だった。空は青く澄み渡り、若干海が透き通っているように感じた。
「さようなら、御仁」
「なんかごめんね」
「滅相もございません。またあなたのような素晴らしい人間に出会えると良いのですが」
亀は海に帰った。
僕は大きく伸びをして周囲を見渡した。何か違和感がある。……足りない。そう、何かが足りないんだ。
「誰もいない」
あれだけいた海水浴客が一人もいなかった。まだ夏なのはこの暑さで分かる。嫌な予感がした僕は道路までかけあがった。
「なにこれ……」
目の前に広がるのは荒廃したビル群。ほとんどが半壊し、僕が立っているアスファルトもひびだらけになっている。この世界にはもう僕以外に人間がいないのは明白に思えた。
聞いたことがある。浦島太郎のその終わりを。竜宮城で過ごした時間と地上の時間に差があり、地上に帰った浦島太郎は何十年も未来に送られたのだと。
僕は落胆した。何より、童貞のまま人生を終えることが宿命づけられたことを。こんなことなら乙姫様を抱いとけばよかった。
それから僕は東京の残骸を歩き回り、そしてまた同じ砂浜に帰って来た。夜は静かで波の音だけが聴こえた。寂しくて涙が出てきた。どうしよう。これから僕は一人で生きて行かないといけないのか。
「あーーーーーーー!」
恐怖とか怒りとか、色々詰めて海に叫んだ。でも、誰も返してはくれない。そう思ったとき、きらりと光る何かが浮いているのが見えた。僕は服を着たままそれに向かった。それは見覚えのある瓶だった。
「アラサーの雌穴―真知子」
嘘だろ。きっとあのときから何百年も経過してるはずなのに。僕から別れを切り出したはずなのに。
「待っていてくれたのか」
真知子が頷いたように見えた。
僕は泣いた。声を立てて泣いた。彼女だけが僕を待っていてくれたんだ。
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