Sink into the moon

白い砂の中に入っていく彼女の姿を眺めていた。節目のある鋭角に折れた足が微かな色を持つ体を支えている。体表を覆う細かなうぶ毛が素肌を秘匿する衣服のようで、しかしそれも彼女の体の一部であることを思い出し、改めてその完成された美しさを羨んだ。彼女は時折、口を動かし表情を変えながら砂をかき出し、穴に体を滑りこませ、砂を混ぜだ糸で蓋をした。彼女は世界から失われたが、私はその後も彼女のいた場所を見続けた。よく晴れた日曜の朝のことだった。


 今日は大事な予定があった。なんと、日々夜亭の最新画集”Sink into the Moon”の発売日であり、かつ100冊限定なのだ。こうしてはいられないと、カーテンを開け陽の眩しさに目を細めたり、朝食のパンのくずを落としながら慌てて用意をする。別に寝過ごしたわけじゃない、画集の雰囲気に合わせてコーデがしたい私はメイクや服選びに時間がかかることを見越して急いでいるのだ。そして案の定、鏡の前で悩んでいると携帯が鳴った。それが彼からの連絡だと気付いた私は恐る恐る通知の内容を確認した。

 「いまから会えない? 」

 なんだ、体の催促か……。何か期待を裏切られた気持ちになり落ち込みそうになる。かぶりを振り、携帯をベッドに放り投げた。


 冷たく突き放してもよかった。好き好き大好きというわけじゃないし。でも、ただなんとなく誰にも求められなくなることが怖かったから、小さな諍い、時には自分を傷つけたくなるようなことになっても、強く拒絶することもせずこういう関係を続けていた。ダメだダメだ。また考え込んで手が止まってる。私の悪い癖だ。

 小さく伸びをして、マスカラを手に取った。色彩の中に僅かな陰鬱を目元に足す。よし、これで完璧だ。一向に自分の世界から出てこない彼女に挨拶をして、扉を押す。やっぱり日差しが眩しくて、空はずっと先まで青かった。


 画集の販売は雑居ビルの一室で行われた。黒を基調とした壁に原画が数枚展示されていた。廃墟に捨てられた山積みの人形、或いは主人の趣味に合わせ着せ替えされる人形、又は人形に憧れ臓器を入れ替え結果得た不自然な姿に満足する少女。退廃的なリアリズムの中にいる、綺麗な彼女たちは求められ使われて、ただ道具同然に捨てられる。こういう願望って誰にでもあるよね。あんまり肯定したくないけど。

 求められることで自分の存在が確立される幸せ。

 私も人形になりたい。意思のない美しい彼女たちの様になって、誰かの求める時だけを生きていたい。

 隔絶された世界を味わう私は香水の香りすらも疎ましく思った。


 画集の出来栄えに気分上々な私は彼に返事をしていないことに気付いて返信した。そしてデートも、食事もないままホテルで会った。

 「最近さ、ノリ悪いよね。普通に既読スルーとかしてくるし」

 彼は苛立つと首の後ろを掻く癖があった。

 「なんか、こういう関係が嫌になった」

 「は、何言ってんの。もともとお前が言ったんだよな、セフレでいいって」

 「そういう言い方やめてよ。私はそんな言葉使わない」

 近いことは言ったけど、セフレなんて私は言わない。

 「変わんないだろ。まぁいいや。じゃあ何? もう終わりにしたいってこと? 俺は別にいいけどさ」

 そういって彼は携帯の画面をつける。他の女に声をかけるのだろうか。

 「……」

 私は首を横に振って、シャツのボタンを外していく。

 彼女たちのために選んだ服も化粧も香水も、彼を誘うための汚れたものになってしまった。彼の性欲が、支配欲が私の身体を這いずった。

 なんで私たちの身体には穴があるんだろう。彼の身体が私に覆いかぶさる度に、いつも考ることだった。繋がることは肉体的にも精神的にも、何事にも比べられない快感を与えてくれる。でも、こんな穴がなければ孤独を感じることも、悩むこともなかったんじゃないかな。だから彼女たちには綺麗な手足があっても穴がない。そういう目的のために作られたものもあるけど、ない方が造形としても完成していると思う。

 寄せては返す波がいつしか私の思考を奪い、手足を縛られることも今では快感になっていた。あぁ、いまだけは、この瞬間だけは手放しで幸せだと言える。目隠しをされ、それでも無様に体をよがらせていても、その姿を見て支配欲を満たされた彼が笑っていようとも。そんなことはどうだっていい。こんな私を彼は求め、私はその期待に応える。それが私を世界につなぎとめる存在証明だった。


 或雨の降る暮時のことだった。梅雨の始まりに誰もがうんざりして、駅前はどんよりしていた。かくいう私はお気に入りの傘を引っ張り出して公園に向かった。鮮やかな色をしたこの傘は公園にとても合うのだ。雨をはじくくたびれたブランコや錆びたジャングルジムに、ふと幼いころを思い出した。


 小さな私は母に買ってもらったレインコートと長靴、最強キュートな衣装を纏い、雨の中、家の近くの公園に出かけた。もちろん、水たまりを長靴で踏みしめる楽しさも理由の一つだったけれど、大事な目的は別にあった。一つは彼女に会うため。ある日、茂みの奥でお座りをしている彼女を見つけた時から毎日のように会いに行った。特に雨の日なんかは一人を感じて寂しくなる気持ちを知っていたから、必ず顔を出すと決めていた。彼女は私を見つけると、自分が濡れるのもかまわず駆けてきた。幼いなりにその行動が打算のない純粋な好意であることが分かっていた私は彼女を抱き上げ、目一杯撫でる。それから、ボールで遊んだり、こっそり持ってきたご飯をあげたり、持ってきたタオルで体を拭いたりして、両親が帰ってくるまで過ごすのだ。

 もう一つは彼を見るため。私の気になっている男の子がこの公園沿いの道を雨の日に限って通った。何故そうなのかは分からなかったけど、それを知ってからは雨が降ると公園に行くだけでも、とびきりのオシャレをしなければならなくなった。時々、目が合っていい感じになったけれど、それを彼女に相談したら尻尾を振るばかりであんまり興味ないみたいだった。それから一年も経たない間に彼はその道を通らなくなり、彼女はどこかへ行ってしまった。そんなことを思い出した。


 目を覚ますと暗闇に包まれていた。奥行きのある闇はどこまでも続いているような、目の前にしか存在しないよう感じがした。こんな場所に覚えはなかったけれど、私の足取りは軽く、まるでどこかへ向かっているようで、少し歩くとそれはあった。

 相変わらずの暗闇の中に、真っ白な皮膚を持つ人が座っている。髪は長く背に垂れ、俯いているため表情は分からない。でも、どこを見ても陶器のように白く滑らかで、寂しげな雰囲気も相まって美しかった。

 私は声をかけようか悩んだがやめた。なぜなら何を言いたいか分からなかったから。彼女が誰でここがどこかなんて、些細な事に思えた。

 それは時折瞬きをして、気だるげに頭を動かした。前髪の隙間から覗く目は赤く、誰かに似ている、と私は思った。白い体に赤い目。そうだ、彼女だ。2年前、突然に興味が湧きネットオークションで買った蜘蛛。

 人間の雌は法的にも肉体的にも雄より弱く、遥か昔から所有されてきた。おかげで、今では所有されることに喜びを感じ、非合意の上で性行為に興奮すると公言する雌を見かけるようになった。そして当の私も論理の上では強く拒んでも、本能の上では抗えず、自己嫌悪に陥っていた。

そんな時に出会ったのが蜘蛛だった。

——蜘蛛の多くは女性の方が優位で、交尾が終われば相手の雄を食い殺す雌も少なくありません。中には安全を確保するため雌を自分の糸で相手を縛ってから交尾するものもいます。

これだ、と思った。交尾相手を捕食してしまうほどの自立心。男性に頼らず生きていけることの証明。私はそれを欲しがった。そして彼女が家にやって来た。

 今でも他人に頼らず生きていけない私が声をかけていいはずがないと心のどこかで思っていたから声をかけられなかったのかもしれない。体の線が細く、儚げな印象を与えるが、均等の取れ完成している彼女は何者をも寄せ付けない静かな迫力があり、彼女には誰も必要がないことが分かる。でも、同時に彼女が孤独にも見えてしまい、その表情が晴れていないのもそれが理由に思えた。

 気が付くとベッドに横になっていた。目元から流れた涙で枕が冷たい。体を起こすと下半身に違和感を感じた。濡れていた。私はあの少女を見て興奮していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る