トレンチコートを憎む紳士について

 洗面台の鏡の前に紳士は立っていた。髭をそり、髪にポマードをつけ、衣装棚に移動した。ぱりぱりにのりのついたワイシャツを着て、ネクタイをきゅっと締め、ブランド物のスーツに袖を通す。そして、トレンチコートを羽織れば完璧だ……なんてことあると思ったか?

天地が返ってもありえないことだ。なんだってあの忌々しいコートを身につけなければならない。正直触れるのもいやだ。丈が長く歩きづらいし、雨が降ればびちょびちょになる。そのまま歩けば、裾の泥がふくらはぎに着き、その泥が乾いて砂になればオフィスまでもが汚れる始末。


もし会社に遅刻しそうになった時、やつを着ていたらどうだろう。あまりの暑さにボタンを外せば、はだけて風にたなびくコートが如何にもダサい。ドラマのワンシーンでそんなことになってしまえばバッシングの嵐になるのは避けられない。


ライトアップされた観覧車、綺麗な夜景の見える川沿いの商業施設の外れで一人立ち尽くす女性に駆け寄る男。

「はぁ、はぁ、待たせてごめん。言うよ、俺のほんとうの気持ち」

こんなセリフを言った彼の服装が、汗に濡れ蒸気むんむんのワイシャツと泥の撥ねまくったコートだったら、どうだろう。ロマンティストな彼女は真顔で告白を断るはずだ。

「なにその裾。車のマッドガードなの? 」

……と言っても、実際の映画では車で移動した俳優が息を切らせる演技をするだろうが、現実はこうだ。好きな人に思いを告げたい男性諸君はこれを留意しておくといい。

 そもそも、あんなどうしようもないコートを着ている奴など、ろくな奴がいないのだ。大勢の人が来ている……そんな理由で数万も払って買ってしまう意思のない頭の悪い人間がほとんど。そうさ、だから諸君らはモテないのだよ。

 あと、あれだ。春になるとあらわれる彼らも好んで着ているな。そう、変質者だ。意図しない相手に裸を見られ、意中の人に見せる前に捕まるわけにはいかない彼らは、標的に近づくまでは服を着ていなければならない。しかし彼らが、もし通常のシャツとパンツを着ていたら、別の問題が生じてしまう。標的の前に姿を現したのはいいが目の前で、もそもそと服を脱いでなんかいたら、本命を見せつける前に逃げられてしまうだろう。それに、たとえ標的が律義に脱ぎ終えるのを待ってくれたとしても、過程を見られているためインパクトがなくなってしまい、たとえ成功しても静かに通報され、捕まって終わりだ。そこでトレンチコートの出番という訳だ。体の大部分を隠すことができ、いざとなったら即全裸に形態変化〈フォルムチェンジ〉できる。0→100まで一瞬であるが故に、その衝撃はすごいはずだ。その上、分厚い生地でまだ全裸では肌寒い春の風を防いでくれる親切設計。

 こうやって考察しているとトレンチコートがどれだけ変質者に優しい服なのかが分かる。そうか、わかったぞ! トレンチコートはそのために開発されたコートなのだ!! 

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