貼り紙と自由

 私は私が嫌いだった。自己愛の裏返しだと言われたがそれは違う。私の責任感の軽薄さや思いやりのない冷たい心に呆れかえり、自身がまともな人間だとは到底思えなくなったから。つまり理屈ありきなのだ。例を挙げるなら、私は他人の不幸に恐ろしく鈍感であり、遠くの痛みを自分のことように感じることができない。ビルの崩落によって瓦礫に埋もれ圧死したというニュースを見ても、状況の想像こそできるが実感はまるでないので、痛くもかゆくもなれない。ステーキを賞味しても、死んだ牛に感傷はしない、そんな人間なのだ。そしてだから嫌いのなのだ。

 或雨の降る暮時、失業保険の期限が近づき、新しい職場を探すのに躍起になっていた日のことだ。三社の面接を受けながら悉く落ち、縁の細い眼鏡を掛けた面接官の辛辣な言葉と鋭い目つきに苛つきながら帰途についていた。煌びやかな繁華街を抜け、数十メートル置きにある電灯を頼りに閑静な住宅街を歩いていると、その寿命を終えようかと明滅する一本の電灯の根元、丁度私の目線の高さにある貼り紙が目に入った。

 『急募ナルシスト』

 私は鼻で笑い、写真を撮ろうかと携帯をポケットから取り出した。紙自体は質素、なんてことのない大量刷りの一枚に過ぎないのだが、その表題は勿論、表題左の米印の下に、顔面・性格問わずとあるのだからなお面白い。ナルシストなどは起源もそうであるように、自分に多大な自信がある人間が持つものだろうから、そこは問うべきではないかと私は思ったからだ。それに果たしてこの胡散臭い貼り紙は何が目的なのかということも気になる。ナルシストを対象にした実験でもするのか、はたまたナルシスト同士で討論でもさせるのか。なんにせよ自分には関係のないものだと、失業保険切れというデッドラインを目の前にした状況であっても、私は冷静に判断し、家に帰る頃には貼り紙の事などすっかり忘れていた。それから数日が経ちいよいよという日にさえ、思い出さなかった。だが、あの貼り紙との闘いは始まっていたのだ。

 その日も相変わらず二次面接もいかずに落ちて、とぼとぼ帰っていると、また例の電灯の下で風化した貼り紙を見つけた。懐かしさに少々哀愁と、誰か面接に行ってあげたのだろうかと余計なことを思いながら、横目に流して通り過ぎた。私の人生にはそれくらい小さい、興味の湧かない貼り紙だった。が、住んでいるボロアパートの一階に貼ってあったのは見逃せない。まさかあの時、足を止めてしまったばかりに、闇のナルシスト結社が私をつけ狙うようになったのか、と自己中心的な考えがよぎったが、かぶりを振り自分の部屋のある二階への階段を昇る。すると階段の手すりにも垂れ幕のように貼ってあるではないか。恐ろしくなった私は早足で残りの段を昇り、自室に急いだ。しかし案の定、私の部屋の扉にもでかでかと貼ってあるではないか。何なら玄関の床にまで貼ってある次第。頭の先から総毛立つようなおぞましさと、それから怒りが起きた。私は無言でアパート中の貼り紙をはがし、びりびりに破いて、夜風に乗せて散らした。そして、その日は努めて無思考で床に入った。

 翌朝になっても紛れないうっとおしさは一息付けようと便所に入った時に一層増した。ふたを開ければ貼ってあるし、座ってみれば扉にある。行動を予測しているかのように次々と目に入る、『急募ナルシスト』を私は意固地になって破きまくった。財布がしまってある箪笥の中で見つけたときには、五枚六枚と重ねて一気に破くと爽快だなぁ、なんて思い始めていた。謎の貼り紙との闘争は、先の見えない就職活動を忘れさせ、ついには失業保険も切れてしまい、私には貼り紙以外びた一文なくなってしまったのだ。明日をどうやって生き延びるか、それを考えねばならないにも関わらず、当の私は貼り紙を根こそぎ見つけその全てを駆逐することばかりが巡り、血潮湧いていた。部屋の扉という扉を開き、天井板も裏返し、夏物の箱も引っ張り出しては一度着用して中がゴワゴワしていないか確かめた。見つかったのは117枚。ただのアパートの一室にこれだけの死角があることに驚いた。しかし、その心は夜明けの眩しさと涼やかな風を感じていた。無心に紙を破く間に、日々の倦怠と疲労から解き放たれ、日夜感じていた何かしらのしがらみからも自由になった私は、空の雲にでもなったような、そんな気がしていた。そして、その時ある一つの確信が私を突き動かそうとしていたのだ。


 1週間後、私は街の印刷屋に駆け込み、トラック一台分のコピーを後払いで頼んだ。そんなものを何に使うのか。もう察しはついているだろうさ、標的も決まっている。ハロワから肩を落として出てきた彼だ。彼はまだ自由を知らない。私はやる気に満ちていた。

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