あいつを魚に変えたとしても
なんてことのない週末にその知らせは来た。仲の良くない知人からの通知に、嫌な予感はした。だがまさか、
「お前んとこの女、あれ、別の男とも関係もっているみたい」
と来るとは。飼い犬に手をかまれたような行き場のある感情に顔が熱くなった。これは明確な裏切り行為で、誠実さの欠片もない、ひどく自己中心的であり、原人のような遅れた知能の持ち主の、あばずれ女の所業に違いない。あのくそブスめ。矢継ぎ早に浮かび上がり蓄積される罵る言葉が火力を強め、今すぐにでもぶちのめしたい、そんな欲が滾り、次第に体の芯から火照った。
しかし、俺は努めて冷静に連絡を入れた。こちら側に落ち度がない以上下手に暴れる必要はないんだ、詰問に良心を痛めるがいいさ。
週末の喫茶店はほぼ満席だった。待ち合わせ時刻通りに現れた彼女は、どうにも気が進まないといった様子で、上半身が足の動きについていけてなかった。
「久しぶり。今日、なんで呼び出したか分かるよね。俺は全然怒っていないからさ、ただ詳細を話して欲しいんだ」
喫茶店の四角いテーブルを挟み、俺は面接官のような心持で両手を組んだ。
「……怒ってないなんて嘘。というか怒って当然だよ。私はあんな事しちゃったんだから」
最近の大学生らしい恰好をした彼女は、運ばれてきた飲み物に手を付けることなく、親に叱られた子供のように叱る側に罪悪感を感じさせる、そういう雰囲気を纏っていた。
「確かに怒らなかったと言えば嘘になる。でも、今は俺にも欠点があったんじゃないかと、そう思い始めたんだ」
「欠点なんてない! 私が悪いに決まってる……絶対そう」
「全部がぜんぶ君が悪いなんてことないよ。魔が差したって言葉もあるし」(いや、だからね。そんな話をしたい訳じゃないんだよ、この馬鹿。さっさと本題に入れ!)
「……ううん、これは私の人間性の問題。私みたいなのが、あなたの恋人だったのが初めから間違えだったんだ」
「そんなことないよ。俺は何があったかはっきりさせたいだけさ」
「それは……」
正面の彼女は、着席してからただの一度も俺の顔を見ることなく、ずっと俯いたまま続きを言い放った。
「浮気しました」
できるだけ長く間を取り、十分に考えたふりした後、予め考えていたセリフを放つ。
「……許す。もう気にしなくていいよ。人間だもの、誰でも一度や二度の失敗はある。現に俺も君を怒らせてばかりだったし、お互い様さ」
早口になってしまった。
正直浮気のことなどどうでもいい。むろん不義理な行為に腹は立つ、が、今更どうこう言っても仕方がない、それならそうと上手にこの状況を使うべきだと企んだ。
俺は、恋人のまま上下をはっきりとさせる完璧な流れを作った。これでこの女は、当分は俺の言いなりだろうと、蹴り飛ばされた犬の怯えつつ媚びる目を見た時のような高揚を感じていた。
しかし、正面の女は初めて俺の眼を見たかと思うと、被告人に罪状を突き付ける検事がごとく毅然とした言い方で反論をしてきた。
「駄目。これは私が悪いから。絶対に許されないことをしちゃったから。変わらない関係を続けるなんて無理。もう私たち終わりだよ」
「い、いや何を言ってるんだ。俺は別にいいと言っている。君は俺の彼女のままでいいんだよ」
女は首を横に振るばかりだった。予想だにしていない展開に、俺はこの後ホテルに行ってしようとしていた、あれこれが出来なくなるかもしれないと言う切なさ以外は何も考えることができなかった。
それからどれだけの言葉と時間を費やしても、納得してもらえず、最後に一度、ごめんなさい、とだけ言って大学生らしい格好をした女は席を立った。そして置いてけぼりの俺は、面接官から失恋したみすぼらしい男になった。そして、
『もう連絡を取りません。今までありがとう。自分勝手でごめんなさい』
という通知を最後に、一切の既読がつかなくなった。
言葉の真意を理解できたころには、駆け巡る熱い血から生じた罵倒の数々を浴びせたいと、身近にあった椅子やらを蹴飛ばした。だがそれが不可能で、かつ別れた男の僻みに思え、一度冷静になってしまうと、その言葉たちは反転し今度は自分めがけて飛んできた。こんな甲斐性なしで、平凡で、つまらない男には愛想をつかして当然かもしれない。時間の感覚を忘れるほど悩む内に、いつしか俺は詩人の様になった。
——君は、ただ純粋だった。多くの男と寝ることも、火遊びなどとは思わなかった。求められれば嬉しくなる、誰でも持つ素直な感情に従った。その結果がどうなるか、考えなかったのだろう。恋人がどれだけ辛いか、どれだけ痛みに打ちひしがれるか。
そんなことばかり考え、夕焼けをぼーっと見るような日が続いた、或夜のこと。
その日は暮れごろから降り始めた地雨が気だるげに屋根を打っていた。反対に気力を取り戻し始めた俺は、この鬱憤を誰かに聞いてほしかったので、床に広げた思い出の写真を眺めながら、旧友に電話を掛けたのだった。
「やっぱりな、あの女はやると思ってたよ。というか忠告しただろ、地雷だって」
女なんかより、親身になってくれる友人がどれだけ素晴らしいかと、俺は涙ぐんだ。
「ほんとクソ女だったよ。忌々しいビッチめ」
「ある偉人は言った、女はすべからず屑だってな。……で、お前のことだからやり返すんだろう。方法は決まってるのか」
方法どころか、意趣返しの気持ちがあったことなど、すっかり失せていた。不義理を初めて知った時の炎はもう鎮火し、愚痴を言って満足する矮小な人間に成り下がっていたことに、自分を叱咤したくなった。
「方法と言ったって、もう連絡も取れないし、そもそも捨てられた男に何ができるって言うんだ」
友人は、くつくつと笑った。
「とっておきのがある。聞きたいか? いや、聞きたいに決まってる。それはな……やつを魚に変えてやるんだ! 」
「真面目にやってくれよ」
「大真面目さ! これ以上の復讐はない」
説明してくれた手順は単純明快で、これでは世の中魚人だらけだ、と俺は半信半疑だった。だが、ある話が何故か鮮明に記憶された。
「手品には言葉通り種も仕掛けもない。その真髄は魔法なんだ。ありえない事象の 後付けで種や仕掛けを作る、結果の次に手段が来るようなもの。つまるところ、浮気女を魚に変えることには種も仕掛けも造作もないということさ」
雨の打つ一定のリズムと不可解な話に、俺の手のひらはじっと汗ばんでいた。
翌週の曇天の日が決行日になった。久々に見たあいつの姿は懐かしいようで、また別人にも見えた。あいつは髪型を俺好みのショートからセミロングに変えていた。その理由は、隣を見れば理解できた。反省の色が全くないあいつの満面の笑みによって再燃した大事な気持ちを懐にしまい、何気なく(いや目線は泳いでいたかもしれない、それに早足だったかも)近づく。知らない香りに包まれるこの女はもう他人なのだと、水槽を自由に泳ぐ魚を眺めるような疎外を感じ、静かに血に熱量を与えた。
——人間を魚に変える。
その話を聞いた日から、俺は何度も真偽を問い続けた。どのような化学反応をもって肉をウロコへ変化させるのか。こんな方法を誰が発見したのか。そもそもどこからこの情報を得たのか。しかし疑うほどに、怪しいほどに、俺にそれを確からしく感じさせ、今ではこの液体さえかければ人が魚になるということが、自明の理になっていた。
手が届く距離まで近づいたとき、俺はためらわず小瓶に入った透き通る液体を振りかけた。
すると、たちまち女の顔は尖りだし、口がすぼまり、体は縮み、背骨が突き出し背びれに、足が連なり尾びれになれば、もう姿は80センチばかりの魚になった。膨らむ胴体が服を裂く。その音で周囲は注目し阿鼻叫喚に包まれた。だが彼女は悠々と空中を泳ぎ、求めるように空へ登ろうとした。だから俺は素早く飛び掛かり、半ば乗るようにして捕まえ、釣り上げられ必死に暴れる魚の痛みなど考えない漁師を演じ強引に連れ帰ると、俺の家は水槽になった。
次の夜のこと。前日から降り続ける雨は、復讐を経ても晴れない俺の気持ちと同じだった。捕まえたあいつは、初めから魚であったかのように尾びれを巧みに扱い、うす暗い室内を海遊していた。体にある感丘によって空気の流れを読み、ごく自然に振る舞う。その動きはこの部屋を水で満たすほどの説得力があった。俺は息を止め、あいつの体を眺める。ある秩序をもって配列された鱗の模様、青の濃淡だけで描かれるシルエット。こんな海の底であっても陰影はなく、その体はつやつやと光った。見れば見るほど俺の目には、あいつは既に死んだように思え、その瞬間残っていた僅かな怒りの感情も消え去り、虚ろな静けさが部屋に流れ込んだ。
翌日、俺は意図的に魚から目を離していた。鬱陶しくなったのだ。
一つ所に止まらず落ち着きのない動物を見ていれば無性に蹴りたくなる、それが人間の性。俺は振り抜いた右足でもって、魚に静止を促した。だが、蹴られた魚は体をしならせるだけで、声も出さず涙も流さず、口角を下げるだけ。不条理にじっと耐える被害者のような面をよこした。納得のいかない俺は鉛の心のまま二度三度と右足を振り抜いた。だが、魚は何も言い返さない。ならば仕方がないと、暗く狭いクローゼットに、魚を押し込めた。雨脚は強まっている。
俺は窓の縁に片膝を立て、外の景色を眺めた。川べりに仲睦ましく相合傘をする男女を見つける。俺たちには縁遠くなってしまった関係性。人の俺と人外の女、漁師と魚、飼い主と愛玩動物、手品師と助手。しかしそれはやむを得ないこと。俺はもとより復讐のために女を魚に変えたのだ。虐げてこそ、気に掛ける必要などない。そもそも捕まえて、持ち帰る必要などなかった。見た目ばかり気にしていたこの女に、大衆の前で気持ちの悪い姿を晒し続けさせたほうが惨めで気味が良かったかもしれない。雪曇りの空のような影を心に落としたまま、どうすれば女を一番苦しませることができるか、今日もぼんやりと考えている。
ふと、何気なくクローゼットを開けると、魚は口を繰り返し開閉していた。腹が減ったのだろうと俺は考えをつけ、飯も自分ではどうにもできない哀れな姿に冷たい眼差しを向けた。犬でさえ餌が欲しければ飼い主に媚びるというのに、浅ましくねだるだけの魚の醜さに拳を振り上げた。が、そういう気持ちにもなれなかった。餌は既に買ってあった。だが、努力なしにあげるのは気に食わない。気付かなかった振りもせず、クローゼットの扉を再び閉ざし、テレビをつけた。
クローゼットのあまりの静けさに魚の存在を忘れて三日が経ってのこと。流石に餓死してしまうと、慌てて両開きの扉を引けば、体にそぐわない大きな、水浸しの目が俺の鼻先にあった。死を模した虚ろな黒、いびつな丸さ。泣いているのだろうか、餌袋を片手にぶらさげ俺は茫然と立ち見つめた。その縁に溜まる水の中に、俺は女との思い出を見た。
あいつはよく泣いていた。付き合って初めての旅行の夜、夜伽の後の、一人を求める俺の背で、あいつは何故か、めそめそしていた。どうしたのかと問えば、離れたら嫌われてしまうと答えた。俺はそんなことはないと慰めたのに、あいつは幼子の様にぎゅっと強い力で手を握って来た。理解に苦しむその考えも、その時だけは愛しく思え、俺は頭を優しく撫で、その華奢な体を抱きしめてやった。女は弱いこと、俺はその日初めて知ったのだった。
一度触れてしまうと、たがが外れ、古いアルバムをめくるように断片的で鮮明な映像が思い出された。何気ない朝の会話に隠れた楽しさ、屈託ない笑顔の応酬、喧嘩したあとの喪失。どの記憶も代えがたい人生の一瞬で、それをあいつと共有できる幸せが、今では完全に断たれたことも同時に思い出された。俺はいま深海の底に沈んで行こうとしている。あいつに裏切られ水面でもがき暴れていた軽さが、あいつを魚に変えた瞬間失われ、俺が這い上がろうとあがいても、両手両足についた枷が大地の引力を教える。肺に残した酸素が尽きようとしている、早くこの部屋から出なければ。餌袋を放り出し、クローゼットも開けたままで俺は部屋を飛び出した。
昼だというのに外は薄暗く、やはり雨が降っていた。風が弱く、垂直に落ちてくる雨粒の音ばかりが聴こえる。
それから俺はすぐに友人に電話を掛けた。ここまでするべきではなかったと。反省の言葉をほとんど言い訳の様に交えて、元通りにする方法を尋ねた。
「なんだよ、もう飽きたのか。大したことねえな」
居酒屋でもいるのだろうか背後の喧騒の音が聴こえる。
「もういいんだ。あそこまでする必要なんてなかった」
「へえ、そうかい。ま、方法ならあるぜ」
「……良かった。二度と戻せないと言われたらどうしようかと思ったよ。本当に良かった」
電話の先の友人は周囲の騒がしさとは裏腹に重たい雰囲気を纏っているように感じた。
「さっさと喜ぶのはいいけど、人の話は最後まで聞くんだな」
「なんだよ。人が不幸にならないことが腹立つってんなら、はっきりそう言ってくれ」
「ふん、まぁいいさ。じゃあ教えてやるよ……。前に作った液体あるだろ。あれに彼女の体液を混ぜて別の奴にかけてやればいい。肩代わりさせるんだよ。というわけでお前はその罪、誰に擦り付けるんだ」
友人は楽しそうだった。
暗闇の中、卓上灯がちかちかと明滅している。あの子の人生を歪めたものと同じ液体の入った試験管を、指先に挟み光に透かして見た。これを再び振りかける。それだけで彼女は元の姿に戻れる。弱弱しい光の中にあの子の影が落ちる。魚に変えられてから一度も餌を与えられず衰弱しきり、尾びれがちりじりになってその薄さに見合った儚さを呈していた。あと数分の内に人に戻れるならば魚の餌などは食べない方が良いと、結局食事を与えなかった。その代わりに人に戻った時のため、吸収しやすく体に優しいものから保存のきくもの、すぐに元の生活に戻れなくても大丈夫なよう用意をした。この薬品の調合以外のさまざまな用意をした。そして今、調合も終わった。足りないものは、あとは俺の決心だけとなった。
人間として魚を見てきた俺には、『魚になる』ことの恐ろしさ、一切の光を返さない黒い瞳で世界を眺め続けることの虚しさを、他者からの軽蔑と共に想像できる。そして、想像できるからこそ、いまの彼女の気持ちを感じることもできた。恐怖の分だけ怒りが生じて、俺は右手で左腕を血がにじむほど強く握りしめる。これだけのことをしたんだ、もうこの身など可愛くないはずだ。
俺の幸せはそこにあるんだと、そう何度も言い聞かせた。こんなことで償えるかは分からない。もしあの子に魚としての記憶があるなら、俺のやったネグレクトで負わせてしまった傷は深い。俺の不幸があの子の幸福になるならば、俺はどこまでも底に沈もう、と奮い立たせる強い言葉を言って自分を落ち着かせようと試みる。どうせ大した人生を送るはずもないのだ。そうして意を決した。
それからのことは知らない。あの子が人に戻れたのかも、俺がどうなったのかも。だけど、これだけは分かる。晴れた空がとても気持ち良かった。昔より強く感じれるようになった風を切るように、俺は高く高く澄み登った。晩夏のある朝のことだった。
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