第34話『草むらと狩人』

 太陽は死に、そして生まれる。あれこそが、世の中で いちばん輪廻転生を繰り返している存在なのではないのか──

 ソジュンは目に刺さる朝日の光を背に、身を包むシャツに体を擦りつけていた。

「体がかゆいのか? 確かに、きのう体を洗えなかったからな」

 ヘテは勝手に解釈したが、ソジュンの様子は気持ちの良い それとは違っている様だ。

 決して柔らかくないシャツの生地に皮膚が切り裂かれ、血がにじんできても、ソジュンは体を擦り続けている。

「お、おい、ソジュン君、ちょっと やりすぎじゃないか? 綺麗になるどころか体が汚れてしまっているぞ」

 病的な その行動に、ヘテは いよいよ顔を青くした。

「なあ、ソジュン君、どうかしたのか? 恐怖の あまり おかしくなってしまったか」

 ヘテがソジュンを止めようと手を伸ばした時だった。

「よし、これで大丈夫」

 ソジュンが やっと体からシャツを離した。

 体中にできた擦り傷から血を流しているソジュンだったが、その表情は、地平線に昇って来た太陽の様に晴れやかだった。

「ヘテさん」

 立ち上がったソジュンはヘテに振り向いて言った。

「決行は、あの太陽が地平線から60度上がってからです。僕に任せてください」

「60度──? ああ、分かった」

 ヘテは ポカン としたままうなずいた。


 照りつける太陽の下、リクたちが見守る中、ソジュンは上半身裸のまま歩き出した。

 右の手には丸めたシャツ、左手には試練に立ち向かう者に与えられる青いマントが握られていた。

「大丈夫? 」

 引き留めようとしたリクの手を、ソジュンは すり抜けた。

「リク、僕も、僕を信じたい」

 ソジュンはマントで体を覆うと、ウルへの焚火から、遠く、離れていった。


 ナイルを見下ろす。

 ワニたちは そろそろ眠る時間だろうか? 岸に上がっているワニも、動きが鈍くなってきている気がする。

 ソジュンは なるべく孤立しているワニを探した。

「なんだ? 」

 と、ナイルを挟んだ向こう岸の草むらの中が、キラリ と光った様な気がした。

「まさか、ね」

 呟いて、視線を、キラリ と光った すぐ下の川辺に戻した。

 そこに丁度良く、ソジュンが求めたワニがいるのが見えた。そのワニは草の中で、痛いぐらいの光を浴びながら、ボヤボヤ とたたずんでいた。

 ソジュンは土手の背の高い草の中に身を隠すと、土手の下に向かって、手に持っていたシャツを投げ込んだ。


 ガサッ 、シャツが着地する音が、川辺に響いた。

 直後、ワニが草を掻き分ける音が聞こえた。


 ひたいから冷や汗が流れ落ちる。

 鼓動に合わせ、呼吸の回数も増してゆくのが分かる。

「心臓が爆発しようだ」

 ソジュンは ほふく前進で土手の斜面まで近寄った。

 草の間から、ワニを見下ろす。

 ワニそれは、ソジュンのシャツを未だ見つけられていないみたいだった。

「あと少し」

 ソジュンは上半身から こっそりマントをぎ取ると、ロープの様に細く巻いて、両手に握った。

 ニオイを嗅ぎ分けていたワニの頭が、突然 止まった。

「見つけた! 」

 ワニはソジュンが落としたシャツ目掛けて、突進し始めた。

「今だ! 」

 ソジュンも草の間から飛び出した。

 腹を空かせたワニが、獲物のニオイが染みついたシャツに噛みついた、その瞬間、ソジュンは その口を、グイ、とマントでしばり上げた。

「やった、やったぞ──! 」

 傷だらけの肩を上下させて、ソジュンはワニの前に、しばらくの間 呆然と立ち尽くしていた。が、シャツをくわえたまま、口をふさぐ異物を払い落とそうと藻掻もがいている姿を見て、ハッ となった。

 ソジュンは尻尾に警戒しながらワニの口元に近付くと、マントの余りを千切り取った。

 ワニがソジュンの足めがけて回す尻尾をけながら、縦に長い胴体を仰向けに転がし、マントの切れ端で手足も拘束こうそくした。ワニは それでも抵抗しようとしたが、ソジュンに尻尾を持ち上げられて、やっと諦めてくれた。

「よし」

 ソジュンは土手の上に生える木に目をやった。ウルへから提示された木だ。

「問題は、この巨体を、どうやって あの木の下まで持って行くかだ」

 しかし これは知力でどうにかできる問題ではない。この急な斜面を、精一杯 引きって行くしかないのだ。

「それに、できるだけ早く持って行かないと。他のワニたちが集まってくる可能性がある」

 ソジュンは斜面に足を掛け、ワニの尻尾を、力いっぱい引っ張ってみた。うろこが地面を削る、ズズッ という音がして、ワニの体が ほんの ちょっとだけ動いた。全力で ちょびっと……ソジュンは溜息を吐くしかなかった。

「僕は どうして こんなに情けないんだろう。太陽が てっぺんに到達する前に あの木の下まで運ばないと、ジェラーとの契約が──」

 そう。ジェラーから言い渡された期間は5日間。きょうが最終日なのだ。

 つまり、きょう中に最初の街テーベに戻れなければ、ソジュンは試練を果たせなかったとして、一生、ジェラーの部下として働かなければならない。ソジュンの愛する汽車には戻れないのだ。

 そうしたら、リクはどうするだろうか? きっと「私も残る」と言い張って聞かないだろう。

 ソジュンは もう一度、土手を仰ぎ見た。

 木の下に、リクたちの姿が見えた。

 縛り上げられたワニと、その尻尾を勇敢に握るソジュンを見て、驚きと共に安堵あんどの表情を浮かべている。

 土手の上で、ソジュンの帰還きかんを待っているのだった。

「よし! 」

 ソジュンは叫ぶ様に言った。

「僕は帰る! 絶対に! リクを連れて帰るんだ! 信じろ、自分を信じろ! こんな斜面 何だって言うんだ! 僕は自分の人生をけてるんだ! こんな壁 何だって言うんだ! 」

 それっ! と気合を入れ、ワニの尻尾を肩に掛け、全身で引き摺る。ほんの少し動く。それっ! また、少し。それっ、うわっ! ワニの体重に負け、斜面を転がり落ちそうになる。それっ! それでもソジュンは、前を向き続けた。


 木の下にソジュンが辿り着いたのは、それから2時間が経過した頃だった。

 試練を無事やり遂げたソジュンに、リクたちが抱き着いた。

「やった、やったよ、ジェイっ! 」

「よくやった、ソジュン君! 」

「“きっと やれると信じておった! よかった、よかった”」

 汗で ベトベト な体を揺すりながら、感動の涙を流すリクたちを他所よそに、ソジュンは、空を見上げていた。

「あ」

 ソジュンは目を見開いた。

「太陽が、傾いている! 」

「太陽? 」

 リクが、ソジュンの視線を追って、首を傾げた。

「確かに傾いてるけど、どうしたの? 」

「時間が無いんだ! 今すぐにでもテーベに戻らなくちゃ! ジェラーと僕との契約は きょうまで。それを過ぎたら──」

「本当だ、大変! 」

 気がついて、リクが叫んだ。

「ウルへさん! 僕たち、時間が無いんです! ジェラーという人物に、墓泥棒の疑いを掛けられていて、その容疑を晴らす為に、貴方の村の試練を受けていたんです! 《空気の様に軽い枝》、それが、僕の嫌疑を晴らす材料になるんです! 」

「君が墓泥棒⁉ ありえん! 」

 ソジュンの告白に、ウルへは目を大きくして、首を振った。

「何かの間違いじゃったのじゃろう。しかし、そのせいで、こんなに危険なことをやらせるなんて──! 何て恐ろしいんじゃ! さあ、ソジュン君、急いで村へ帰ろう。ああ、心配するな、そのワニは後でわしが川に逃がしてやるからな。先ずは君のことじゃ。さあ、ついてくるのじゃ! 」

 ウルへは早口で言った後、早足で町へ戻った。

 門番が門を開け、ソジュンは、町の人たちから大歓声で迎えられたが、町長の血相を見てすぐに一大事を悟った。

「この少年は試練を乗り越えし者じゃ! 皆の者、大急ぎで梯子はしごを持って来るのじゃ! 大急ぎでじゃ! 」

 町の人たちはウルへの命令通り、大急ぎで梯子を持って来きた。

 ウルへは、差し出された梯子をソジュンに差し出して、微笑んだ。

「さあ、ソジュン君。あそこに見えるのが、君たちが欲している、《空気の様に軽い枝》をつける木じゃ」

 そう言って、ウルへは広場の中央に生える木を指差した。

「あれが、ジェラーのメモに載っていた、木」

 ソジュンはウルへから梯子を受け取ると、木の幹にそれを掛けた。

「本来なら、試練合格の祝辞やら祭りやら催すのじゃが、今は枝を折って行きなさい」

 ウルへの言葉に、ソジュンはうなずいた。

 梯子を登って、枝に手を伸ばす。いちばん手前の物を掴んで、ポキッ と折った。

「本当だ、持った感覚が まるでない! まさに空気の様だ」

 見た目は ごく普通の枝なのに! と、ソジュンは目を丸くした。

 梯子を降りて振り返ると、ウルへが町民に対して、道を開ける様に指示を出していた。門を開けた門番たちは、ソジュンたちが乗って来た馬を馬留うまどめから解放し、すぐに出発できるよう、門の目の前まで移動させてくれていた。

 ソジュンたちの為に開けられた道を、早足に通り過ぎ、門番の手を借りて、馬に乗った。人から見えないヘテもリクの足にしがみつきながら、なんとか後ろに座った。

「ソジュン! 」

 手綱を握るソジュンに、ウルへが声を掛けた。

「これを、持って行ってくれ! 」

 ウルへが言うと、彼の隣に立っていた女性たちが、ソジュンに幾つかの麻袋と壺を手渡してきた。

「食料と水じゃ」

「こんなに沢山! ウルへさん、ありがとうございます」

 麻袋の重さに驚きながらソジュンが感謝を述べると、ウルへは優しい笑顔で首を横に振った。

「わしは君に何もできておらん。ほれ、涙を溜めておらんで、早く お行きなさい。まだ試練は終わっとらんのじゃろう? 」

 優しい老人は そう言うと、ソジュンとリクの馬の尻を叩いた。

 出発の合図に、馬は元気よく走り出した。

 ウルへが守る町が、砂漠の景色に消えてゆくのを、ソジュンは無言で眺めていた。

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