第18話 異世界の知識

「呼び止めてしまってすまないね。しかし今後の君の研究資金にとっても大事なことだ。悪い話ではないから協力してもらいたい」

「えぇ、はい……」

 俺は挨拶回りで廊下を歩いていたところたまたま通りかかったクルト教授につかまったところだ。クルト教授は基礎物理学研究室の教授の一人だ。そしてどういうわけかそのまま部屋に連れ込まれ今後の話をしたいと言われている。


「早速だが本題に入ろう。君は異世界の物理学の知識をもっているというのは本当か?」

「お耳が早いですね。その通りです」

「そうか、であれば魔法の基礎研究にばかり注力させるのも勿体ない。魔法がない世界の物理学なら魔法以外を発展させることにこそ輝くだろう」

「はぁ」

「今のこの世界の人々は魔法に頼りすぎている。それが悪いわけではないが、このままでは人類は発展の壁にぶち当たることだろう。科学はいずれ魔法を超えて人類を新たなステージへと押し進めることになるだろう。君たちの世界ではそうだったのだろう?」

「えぇ、はい……」

 若干話に置いて行かれつつも内心で驚く。この世界の常識を本で学んだところ、魔法とその他の科学が分離されたのは割と最近のことのはずだ。それなのに魔法以外の物理学の価値に目を向けているのは相当な慧眼と見える。魔法で大体のことがどうにかできる世界で、あえて魔法の限界を見据えるなんてそうそうできることではない。


「それで、私は何をすれば良いのでしょうか」

 語りが始まりそうな気配を察して割り込むように話を切り出した。クルト教授は自分の髭をなでつける手を止め、思い出したようにこちらを向いた。

「おっと失礼。つい熱が入ってしまってね。君にやってほしいことは他でもない。君の世界の基礎科学の知識をできる限り論文として出して欲しいのだ」

 なるほど。確かに俺からするとこの世界の魔法という新しい物理法則に興味津々だが、逆に俺がこの世界に元の世界の物理学を伝えることで広がる世界もあるということだ。

「もちろん骨が折れることだろうが、君にも利益があることだ。君の知識の有用性を示せれば今後様々なツテの獲得に繋がるだろうし、当然研究資金も大量に手に入る。君の世界では簡単に用意できていた実験道具もこっちでは高価なこともある。一にも二にも君の価値を世界に知らしめることが最重要だ」

 この教授、強引でいて人の扱い方をわかっている。その慧眼は決して専門に対してだけのものではないと、この短時間の会話で見て取れた。


「その通りです、教授。それで私は何をすれば良いのでしょうか」

「自分で考えろ! ……と言いたいところだがこっちに来たばかりでそれも酷な話か」

 教授は髭をいじりながらしばらくの間何やら考えていた。そして約十秒の後、

「そうだな、今は各分野の基礎部分がようやく確立してきたくらいだ。より効果的に君の価値を示すのであれば、多くの分野で共通する理論が良いな。そんなものがあれば、の話だが」

 さすがにそんなに都合の良いものはないか、とでも言いたげな教授だったが、俺は“多くの分野で共通する理論“と聞いてピンとくるものがあった。

「それが、あるかもしれません」

「何? 聞かせてくれ」

 すごい食いつきようで少々面食らってしまうほどだ。だがきっとその期待に応えられるほどのものだろう。もっともまだ見つけられていなければの話だが。

「教授はフェルマーの原理……あー光を透過する物体の中で光が通る経路についての理論をご存知ですか?」

「ふむ、ランペルの原理のことか。光は進むのにかかる時間が最短となるような経路をとるという」

「それです」

 ここではそういう名前なのか。転生者知識ではなくこの世界でもきちんと発見がされているということが感じられる。

「それがどうしたというのかね?」

「実はこの原理と似たものがありとあらゆる基礎方程式に適用できるんです。今から説明しましょう。黒板をお借りしても?」

「もちろんだ」

 そうして俺は解析力学の解説を始めた。



 まず根幹となるのが変分という概念だ。関数といえば普通は変数を動かすものだが、変分では関数形そのものを動かすことになる。経路を変えるというのがこれに対応する。そして変数ではなく関数によって決まる関数を汎関数と言う。

 光速は一定に見えて実は物質中では少し異なる。物質中の光の速さは真空中での光速を屈折率で割った値になる。フェルマーの原理の例だと、光の経路によって光が出発点から到達点に達するまでにかかる時間が経路によって決まる汎関数ということになる。

 そしてフェルマーの原理においてはこの汎関数が最小になるような関数、すなわち経路が実際の光の経路になっているのだ。


 ここまでは良い。問題は次だ。光の経路を決定できるのであれば、物体の運動の経路を決定できるような汎関数が存在しても良いのではないかと考えるのだ。その汎関数は“作用”と呼ばれ、作用は“ラグランジアン”という量の時間積分で表される。

 しかし運動の場合は必ずしも汎関数が最小の場合とは限らず、あくまで停留というのが条件だったり、結局変分で全ての関数を調べるわけにはいかないから微分方程式の形に落とし込む必要があったりと、諸々の数学的な説明は必要だ。


 説明が長期戦になることを覚悟していたのだが、数学的な下地が十分だったのもあってか教授の理解は予想を超えて速かった。ポテンシャル中の粒子の運動について、ラグランジアンを与えた上で運動方程式を求めるところを見せたら大いに感激していた。

「君! これは素晴らしく革新的な理論だ! 物理学だけでなく数学にも新しい風を吹かせることができる!」

「ご期待に添えたようで何よりです。しかしこれは私が考えたものではありませんので……」


 そう、このことが気がかりだった。研究者の端くれとして、この世界にいないとはいえ過去の偉大な科学者の業績をまるで自分の力かのように振りかざすのは気分が悪い。

「ふん、まあ君にとっては気になる事かもしれんが、重要なのはこの知識はこの世界にとって価値があり、そして今この知識を持っているのが君であるという事実だ。剽窃をしているみたいで気分の良いものではないだろうが、君にしかできない仕事だ」

 そんな心中を察したのか、気遣うような言葉をかけてくれた。そうだ、これは俺にしかできないことなんだ。異世界の物理学の知識を持って転生した俺にしか。

「まあなんだ、気になるなら謝辞にでも書いておくと良いさ。君は教科書を書いているとでも思えば良い」

「教科書を書く、言い得て妙ですね」

「それに、きっと近いうちに君自身が新しい発見をするだろうさ」

 真っ直ぐ俺の目を見て教授はそう言った。


「君のその目は学生らしいそれでもあり、同時に研究者の目でもある。この世界を学び、やがてこの世界に何か新しいものを見いだす。研究者の勘として、君にはそれができると信じているよ」

「……俺にできるでしょうか」

「何を弱気になっとる。できなければ異世界の知識の焼き増しで金を稼いで生きて行けばいいだけの話だ。でもずっと向き合っていればいずれ何かを見つけられるはずだ。例え一生に一度でも、どんなに小さなことでも、この世界で初めて発見した、たった一人自分だけが知っている新たな知識を手に入れたときの高揚感は計り知れない。どんなに小さくてもな」

「たった一度でも、どんなに小さくても、ですか……」

 ……なんだか元気づけられてばっかりだな、俺は。不安になっている暇なんて無いんだ。この世界では今度こそ世界の、宇宙の謎に迫りたいんだ。シャキッとしろ、俺。そう内心で渇を入れる。


「ところでさっきの変分原理の話だが、あれで終わりではないだろうな」

「もちろんです。ゆっくり説明したいところですが、論文にまとめてからお伝えしたいと思います。そうだ、この論文に関してだけでも俺の指導教員になっていただけますか?」

「あぁ、いいだろう」

 よもや大学一年生で学んだ解析力学が異世界の研究ライフのスタートになるとは思ってもみなかった。

「そもそも君については特例で複数の指導教員がつくことになっているしな。まあ一人増えたところで大して変わらんだろう」

 そう笑っている教授を前に俺は唖然としていた。そんなに大量の研究分野に俺の知識を入れることを期待されているのか? 俺はどうやらこの世界での自分の価値を過小評価していたらしい。

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