3月、空しさと歯痒さ

 スマートフォンのアラームの音で、津村真つむらまことは瞼を開けた。大音量の目覚ましで頭がくらくらする。

今は何時だ。手元に手繰り寄せたスマホの画面には午前9時少し過ぎが示されていた。起きる予定だったのは8時、寝坊だ。予定があったわけではないが、最低限人間らしい生活をするために打ち立てた目標を破ってしまった、そのことに真は項垂れた。

「……またやった」

起きて早々、消えてしまいそうな苦しみに襲われながら真は身体を起こした。深夜二時まで起きてたせいか、頭がひどく重かった。ひとまずやることをやらなくては。そう思い立つと、真はベッドを下り、自室から出てトイレへ向かう。すると、母親と鉢合わせた。彼女の服装はキチンとしているが、前にボタンがついていたりして着脱が簡単そうで、うっすらと化粧をしている。

「……おはよう」

か細い声で母が声をかけてくる。彼女はどこか神経質そうに目を泳がせていた。真を前にすると、いつもこうだった。

「おはよ、お母さん」

真は、いつものことだと諦めて母に返事をした。挨拶をするだけでこんなにも緊張しているのはどうしてだろう。

「今日、バイトあるから晩ごはんはお父さんと食べてて」

「そう……朝ごはん、食べる?」

「うん、でも自分で用意する。お母さんこれから病院でしょ?予約に遅れたらまた色々面倒だろうし、私に構わなくて大丈夫だよ」

「……ありがとね、真が出掛ける前に帰ると思うけど、戸締まりちゃんとしてね」

「はーい。行ってらっしゃい」

「いってきます」

そう言って、母は出掛けていった。その背中に手を振りつつ、真は深く溜め息をついた。

母親とギクシャクしている現状が嫌だった。もっと言えば、母とのやり取りはまだマシだったが、父親に至っては真と口を利かない。それどころかないものとして認識しているため、バイトで遅くなった日は最悪締め出されることがあった。それにも、もう慣れてしまったけれど、真は寂しい思いで一杯だった。

けれど、家庭をこんな風にしたのは他でもない自分だ。だから、弱音を吐く権利は真にはない。

 台所へ行き、炊飯器に残っているご飯を盛り付け、ラップがかけられている卵焼きとインスタントの味噌汁を並べ、漬け物を添えれば立派な朝食だ。

真は静かに手を合わせて食べ始めた。卵焼きは甘い、学生時代によく食べた。今ではたまにしか口にしないが、真はこれが大好きだった。だが、最近は少し焦げていることが増えた。

味噌汁を啜ると腹が落ち着く、けれども、出汁の強すぎる風味が化学調味料のそれだ。昔はよく父が得意の合わせ出汁から味噌汁を手作りしていてくれたが、もうここ五年はこの家で味噌汁が作られた事はない。

漬け物とご飯だけが昔と同じだ。漬け物は、隣の西名さんがお裾分けにくれるもので、ご飯は炊き方もブランドも変わっていない。同じ味だ。だが、どこか空しい。この家の中の家庭の味だけが変容していく、悪化する方向に。もう、止められないと理解してから何もかもを諦めてしまった。

 食器を片付け、自室へ戻ると、真は呟き型SNSを開いた。そこには、悩みを共有して一緒に悩んだり、嫌な顔を見せずに相談に乗ってくれる相手がいる。真の心の拠り所はここだった。



『おはよ、今日も寝過ごした。マジ人間のクズ』

いつものように真が自虐すると、即座に反応がつく。

『おはよ!!起きてるだけで偉い!!!!SHIN《シン》くん偉いよ!!』

少し過剰なほどそう褒めてくれるのは、いつ呟いても反応を寄越してくれる『ミノっち』だ。彼、ないし彼女は軽いノリで人を励ましたり、真剣に悩み相談に乗ってくれる人だ。

『SHIN』とは真のハンドルネームで、名前を音読みしただけだ。

『ミノっち元気すぎて草、ほんと起きただけ偉いよ』

その会話に参加してきたのは『セイセイセイッ!!』。彼の名前はいつも様子がおかしいので、彼と親しい人は彼を『セイ』と呼んでいる。

『昨日学校休んだし、おれのが人間のクズだわ……マジクソだわ……』

『セイ』はそう言って自虐を始める。午前中の彼はいつもこうだ。夕方を過ぎれば元気一杯になるのだが、朝の彼はいつも少し落ち込んでいる。

真はクスッと笑って、『セイ』にメッセージを送った。

『セイ、今日は午前中に起きてて偉いじゃん!今日も皆偉いよ』

ほどなく反応が返ってくる。

『SHINさん優しい……ありがとう』



 『セイ』は、いわゆる構ってちゃん気質のようで、誰かの自虐に更に自分を卑下したコメントをつけて、慰められたがる。それを疎む人は多いが、真や『ミノっち』はそれを可愛らしく思っている。

SNSでの『SHIN』『ミノっち』『セイ』の関係は、もうかれこれ5年続いていて、ともすれば普通の友人との付き合いすらしのぐ長さになっている。親に言えないこと、友人に溢せない愚痴、赤裸々な願望、殆どすべてを話した。

けれども、真は彼らを『友達』だとは思っていない。

ネット上の付き合いなんて、いつ途切れてもおかしくない。彼らだって、いつまで真と付き合っているかわからない。もしかすると、真の方が先に彼らに愛想を尽かすかもしれない。そう思いながら、ズルズルと彼らと言葉を交わしては、救い救われている。

 人生のプラスになることのない現状に浸らねば安寧を保てない、そんな自分を真は嫌っていた。

こんな毎日は、いつか終わらせなければならない。

けれど、そのいつかとは、いつになるのだろう。不安感と、焦燥感の中、真は目を閉じた。

時刻は現在10時半過ぎ、バイトまであと4時間だった。

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