【はじまりの律動】1/3


 柔らかな風が吹いていた。

 水上都市アルムウォーレンの一角にある小洒落たレストラン「マルカ・スティング」

 その店先のオープンテラスに若い女がひとり、顔を強張らせていた。


(……うぅ、超絶ピンチなんですけど。お財布無くしちゃったんですけど)


 膝上のワンピースに魔獣の皮で仕立てたジャケット。キラキラと輝く魔石のネックレス。波打つブロンドヘアが映える白い肌に赤い口紅。派手めの化粧。

 そのままファッション試の表紙に抜擢したくなるほどの美しい女だったが、つば広の帽子の下に隠されたその表情は明らかに青ざめていた。



(バスを降りた時はあったのに……。さっき亜人とすれ違った時にすられたのかな。スリには気をつけなきゃいけなかったのに)


 観光地ではスリに気をつけましょう、とガイドブックにあれほど書いてあったのに。

 初めて訪れた水上都市に興奮してすっかり気が抜けていた。歩き回っているうちに、いつの間にかポーチの中から財布が消えていたのだ。

 後悔だけが心に残る。


 唇を噛みながら、整えられた細い指先をマグカップに伸ばし、そっと口へ運ぶ。
 温かい珈琲は美味ではあったが、この絶望を癒すほどの効能はなかった。



(うぅ。初日から全財産無くすって……。これ、ヤバいかもなぁ)


 ぐったりと青ざめている彼女の名はシア・バンドネイラという。

 年齢は二十歳を過ぎたばかり。化粧の下にはまだ少女の名残が残っている。



「おちついた? 珈琲のおかわりいる?」



 シアのもとへ店員がやってきた。もふもふとした獣耳が目立つ亜人の女だった。


 シアはこの街に来て、生まれて初めて本物の亜人を見た。そして、この店に入って初めて本物の亜人と言葉を交わした。


 あまりジロジロと見ては失礼だとわかってはいたが、見るとはなしに視線が向かってしまう。


 シアは亜人のことをなんとなく恐ろしい生き物だと思っていたのだ。


 亜人には竜のような翼が生えている種族もいれば、全身毛むくじゃらだったり、水の中で呼吸ができたりする能力を持った種族もいる。

 只人タビトと呼ばれ、魔術も魔法も使えないシア達のような人間とは見た目も身体能力も違うのだ。


 シアの故郷に亜人はいなかったし、只人と亜人は戦争もしてきた歴史もある。

 だから、シアが亜人に対し警戒心をもっていたのも無理はない。それどころか、自分が財布をなくした原因を、なんとなくすれ違った亜人達の仕業だったのではと疑う程度に偏見も持っていた。


 けれど、実際に初めて会って話をしたこの店の亜人は、とても親切だった。


 店に入ってから財布が無いことに気づいたシアを気遣って、なんと食事をご馳走してくれたのだ。


「パスタッチェ。この店の名物なんだ。美味しかった?」

 

「はい。とっても。ってか、すみません。お財布ないのに食事まで頂いちゃって」



「困ったときはお互い様。ごはんを食べて気持ちを落ち着かせて、そしたら都市警察に行ってみなよ。きっと力になってくれるわ」


「……はい、ありがとうございます」



「無事を祈ってるわ」


 最後まで親切な亜人の店員に別れを告げ、シアは歩き出した。

 今まで話した事もなかったのに、勝手に亜人に対して悪い感情を持っていた自分を恥じた。

 けれど、シアは教えてもらった都市警察へは向かわなかった。


(警察なんかに行ったら、わたしがこの街にいるってことをママに知られちゃうものね。そうなったら、ママは絶対に事務所の人を使ってわたしを連れ戻しにくる。それだけは絶対無理。もう、わたしはあの街には戻りたくない)



 小さな拳を固く握りしめて唇をかむ彼女の脳裏に、生まれ故郷のネオンが煌く大都会が浮かび上がった。



 シアが育ったのはヒイラギリス大陸一番の大都市マジルキヨトだ。


 大陸経済の中心地であり、ありとあらゆる娯楽で満たされた欲望渦巻く不夜の都である。

 その大都会で生まれたシアは歌手だった母のもと、幼い頃から歌とダンスを厳しく教え込まれた。学校とレッスンと、オーディションと舞台。

 それがシアの毎日のすべてだった。



 はじめてネオン街の舞台に立ったのは十歳の時だった。

 母親譲りの整った容姿と抜群のリズム感を持ったシアはすぐに話題になり、劇場での出番はとんとん拍子に増えた。

 けれど、シアに提供される歌や振り付けはいつも「恋する乙女」がテーマで、可愛らしくポップな曲調に王子さまを待つようなありきたりな女の子像を全面に押し出した歌詞ばかり。

 衣装も幼い少女をイメージしたミニスカートやフリフリした装飾のドレスばかりで不満だった。

 シアは自分が憧れる大人の雰囲気を纏った歌手たちのように、もっと動きやすい衣装で激しいダンスを踊りたかったし、歌だってもっと社会や世相に目を向けた、世の中の理不尽に警鐘をうち鳴らすようなメッセージ性の強いものを歌いたかった。


 自分は作曲だって作詞だって勉強している。振り付けをつけることだってできる。

 自分にしかできない表現を自分で演出してみたい。シアはいつもそう思ってた。


 だが、母はそれを許してはくれなかった。


 シアは不満を抱えながらも母の教えに従った。

 オーディションを勝ち抜いて様々な舞台に立った。

 有名な振り付け師の指導を受け、あの大舞台アダムスティアホールのセンターに立つこともできた。マジルキヨトの若者に人気のファッション雑誌の表紙を飾ることもできた。


 しかし、シアの心は冷めていた。

 自分のやりたいことは何もさせてもらえず、与えられた仕事をこなすだけ。

 自分は結局、母の操り人形にすぎず、大量消費社会で使い捨てにされる偶像アイドルという商品でしかない。


 もっと自分を自由に表現したかった。そのためなら今の地位を捨てても良い。

 シアはそう思っていた。


 ある時、舞台で一緒になったアイドル歌手から水上都市アルムウォーレンのことを聞いた。


 世界中から色々な人種が集まり、ジャンルの垣根を越えて自由な音楽が生まれる街。それがアルムウォーレンなのだと。

 日夜、新しい音楽が生まれているというその街に、マジルキヨトから出たことがなかったシアは憧れを持った。


 いつか自分らしい音楽を自分の手で作りたい。そして、本当の意味で自由に音楽を楽しみたい。

 胸に淡い希望を秘めながらも、窮屈な毎日は続いた。


 月日は経ち二十歳になったシアは、それまでレギュラーだった舞台を突然下ろされた。十代の経験の少ないアイドル歌手に若いというだけで仕事を取られたのだ。しかも、彼女の出番を奪ったのは歌も踊りも自分の足元にも及ばない猫なで声の新人だった。

 それでシアは吹っ切れた。


 はじめて母の言葉に反抗した。母に無断で髪を染めた。

 そして、家を飛び出した。

 自由の翼を手に入れるために。

 長距離バスに飛び乗ったシアは三日も固い座席の上で揺られ、ついに今朝、このアルムウォーレンの地に降り立ったのだ。


(……それなのに、初日に財布なくすなんて、マジきついんですけど)


 ゴロゴロとスーツケースを引きながらシアはひとりごちる。

 片手には先程のレストランで店員がチラシの裏に書いてくれた都市警察までの地図。

 わざわざ丁寧に書いてもらったので、すぐに捨てる気にもなれず、なんとなく手に携えていた。


 警察に行かなくても手っ取り早くお金ができる方法があればいいんだけどな。

 そんなことを考えながら、パタパタとチラシを仰いでいたシアは、そのチラシに記された文字に目が止まった。

『バル・ハズラン恒例、新人楽団バンド発掘大会。優勝賞金一〇万ベル!!』

 チラシはどこかの店で行われるイベント告知のものだった。


「賞金一〇万……?」



 シアは金額に目が釘付けになった。立ち止まり文字を追う。



「これはちょっといいかも。えっと、参加条件は……」


 ごくりと唾を飲み込んで、シアはその大きな瞳をチラシに落とす。


『第十六回大会の参加条件は、人種の垣根を超えて組まれた二人以上の楽団です。プロアマ不問。飛び込みも大歓迎!』



 チラシには只人の若者と全身を濃い体毛で包まれた獣人が肩を組んでマイクを握っているイラストが描かれていた。



「ダメね。亜人の知り合いなんかいない」

 

 シアは眉をしかめ、肩を落とした。ため息をついてチラシを折りたたみジャケットのポケットに閉まう。

 なんか良い手はないもんかな。持ってきた服とか装飾物アクセとか、売るしかないかな。



 転がすスーツケースの中身に金になりそうなものはないかと考えながら、あてもなく街を歩く。


 あの親切な店員に、警察よりも質屋の場所を聞いておけばよかったかしら。

 そんなことを思いながら歩いていると、ふと風にのって音楽が聞こえてきた。


 シアは反射的に耳をそばだてる。

 どうやら水路の向こうの広場で演奏している人たちがいるようだった。


 シアが育ったマジルキヨトの街では路上や公園などの公共の場で楽器の演奏などしていたら、すぐに都市警察がやって来て撤収させられてしまうのだが、どうやらこの水上都市ではどこで楽器を奏でようと、おとがめはないらしい。


 文化の違いを感じながら耳を澄ます。


 弦楽器と鍵盤楽器。それと力強い打楽器の音色。

 弦楽器や鍵盤の音は特筆するほどの腕前ではなかったが、リズムを刻む打楽器には不思議な魅力があった。

 まず、音が独特だった。いくつかの太鼓や鳴り物を使い分けてリズムを作っているようだが、その中心である太鼓の音は、一般的な大衆音楽の太鼓の音色とは一味違った。芯があるのに柔らかさを感じる独特な音色。


 どっしりとした雄々しい音の中に荒々しさも優しさも内包されている。


 高低に音階を振り分けられた小太鼓のリズムも奇妙だった。シアが今まで習ったことのある様々な音楽の様式にも当てはまらない独特なリズムだったのだ。


 なんだろ、この変なリズム……。

 シアは細い顎に指をやり考え込む。


 ダンスを習い始めたとき、一番最初に叩き込まれたのはリズム感だった。

 リズムをきちんと把握できなければ、踊りも歌も楽器の演奏も上手くはなれないと厳しく教えられた。

 だから、いろんなリズムを覚えたし、伝統音楽クラシックから大衆音楽ポップスまで幅広く学んだ。

 けれど、この風に乗って流れてくるリズムは初めて聴く様式だった。

 シアが習ってきたリズム達とは一線を画す不思議な律動であったのだ。

 強いて言えば、北の民に伝わる伝統的な変拍子の民謡に似たリズムであったが、しかし、リズムの実態がうまく掴めない。


 だが、頭ではリズムの構造を理解できていないというのに、心はなぜかそのリズムを捉えていて、不思議と体が自然に踊り出したくなってくる。


(頭ではなく、心や体がリズムを捉えているってこと?)


 どんな楽器を、どんな人が演奏しているのだろう


 シアは財布を無くしたことも忘れて音のする方に歩き出した。

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