【黒い恋人】2/3
☆
ジェットと出会ったのはサーヤがまだ
離れて暮らしていた祖母が体調を崩し、サーヤたち家族と同居することになった際に、一緒にやってきたのが伝書龍のジェットだった。
伝書龍というのは首輪に通信筒を括りつけて手紙や荷物を運ぶ小龍のことだ。
ジェットは祖母が幼い頃から飼っていた龍で、黒い鱗に漆黒の翼を持ち、瞳は宝石のように赤く鋭かった。
祖母に連れられ、家に来たジェットだったが、彼は祖母以外には決して懐くことはなかった。ジェットは気高く、何人をも近寄らせない威圧的な雰囲気をその身に纏っていた。
父も母もジェットには近づかなかった。
しかし、幼い日のサーヤはこの偉そうな小龍をいたく気にいった。
ジェットの方はサーヤのことを鬱陶しがって無視していたのだが、いくら無視してみても威嚇してみても、幼い日のサーヤはへこたれずに寄って来た。
そんな日々が何週間も続くと、半ば諦めたようにジェットはサーヤが鱗や翼に触れることを許すようになった。だが、ジェットは自分からサーヤに近づくことはなかったし、目を合わすこともなかった。
そんなある日、体調を崩していたサーヤの祖母が亡くなった。
サーヤにとって初めて経験する家族の死は彼女の心を深く傷つけた。食事を取ることも拒否してサーヤは泣きつづけ、両親を困らせた。
それまではいくら無視しても冷たくあしらっても、へこたれずに近寄って来たサーヤが自分のもとに来なくなったことにジェットが気を揉んだのかはわからない。
もしかすると、長年付き添ってきた自分の主人が亡くなったことにジェットも心を痛めていたのかもしれない。
サーヤが泣きつづけて数日がたったある日のこと、はじめてジェットが自分からサーヤの元に近づいた。
小さな口に自分の好物のトレニコの実を咥えてサーヤの元に寄ってきたのだ。
ベッドで布団にくるまるサーヤの体をつつき、トレニコの実を枕元にポトンと落とした。
サーヤは驚いた。今まで自分から近づいてきたことなどないジェットがそばにいるのだ。
サーヤは布団からそっと腫れた顔を出し、その小さな手を伸ばしジェットの体を抱き寄せて、また泣いた。龍の体は冷たいはずなのに、なぜかとても暖かく感じた。
二人の関係性が変わった瞬間だった。そして、それはジェットに親心に似た気持ちが芽生えた瞬間だったのかもしれない。
その日から、ジェットはどんな時も、彼女のことを気にかけるようになった。
元々頭の良い龍だ。朝の弱いサーヤをつついて起こすのもジェットの日課になったし、近所の子供達にサーヤがいじめられていれば、飛んできて助けてくれるのもジェットだった。
ハイスクールを卒業して親元を離れる時に、ジェットと一緒に暮らしたいと言うと、両親は喜んでくれた。親にとってもジェットは頼りがいのある存在だったのだ。
そして二人で暮らすようになって八年がたった。ジェットはこれまで一度も病気をしなかったし怪我もしなかった。
それが当たり前で、もしものことなど、考えたことはなかった。
自分の迂闊さに胸を痛めながら、サーヤは暗い待合室でひとり祈り続けた。
どうか無事に治療が成功してほしい。
永遠に近い時間が過ぎ、診察室の扉が開くと、待合室にほのかな明かりが差し込んだ。
「終わりましたよ。あ、すみません、明かりをつけていませんでしたね」
暗い待合室に座るサーヤを見て、少し青年は驚いたようだった。慌てて灯りをつける。
「いえ。あ、あの……ジェットは無事ですか」
「ええ。どうぞ、お入りください」
促され診察室に入る。ジェットは診察台の上に横たわっていた。翼には白い包帯が巻かれていた。
「治療は無事にすみました。いまは薬で眠っていますが、すぐに目覚めると思います。安心してください」
小さく丸まったジェットは瞳を閉じてすやすやと眠っていた。
「よかった。ありがとうございました」
胸を撫で下ろしたサーヤが頭を下げた。
「どういたしまして。どうぞおかけになってください。えーっと……」
「あ、申し遅れました。わたし、サーヤ・エンベローザと申します」
「サーヤさん……ですか。ちなみに、この伝書龍をこの病院に連れてきたのは初めてですよね?」
手術が無事にすんだからか、ミントの口調は先ほどよりも穏やかになっていた。
「ええ、はじめてです。今までジェットが怪我をしたことはなくて……」
サーヤは頷く。
「そうですか、いえ、あの、他意はないんです。どこかでお見かけしたような気がして」
青年は慌てた様子で目を逸らした。さっきまでの高圧的な態度からはうって変わって、自信のなさげな表情だった。
「すみません、変なことを聞いて。俺はミント・グレイスといいます」
そういえば、同僚のミッチェが動物病院の先生が時々、店に来ると言っていた。
「あの。もしかしたら、見かけたのってレストランじゃないですか。わたし、この病院の二軒となりのマルカ・スティングというレストランで働いているんです」
その言葉を聞いてミントの口が大きく開かれた。
「あっ! そうだ! そうですよ! レストランで見かけたんだ。俺、あそこのパスタッチェが好きでよく食べに行くんです! そっか、それでどこかで見たような気がしたんだ」
嬉しそうに瞳を輝かせてミントが言った。まるで子供みたいなあどけない表情だったので、サーヤは思わず吹いてしまった。
ミントは慌てて声のボリュームを落として、恥ずかしそうにはにかんだ。
「すみません。大声をだしてしまって」
「いえいえ、嬉しいです。パスタッチェはうちのシェフ自慢のメニューなんですよ」
思ったより感情豊かな青年だったのか。サーヤは彼に少し好感を持った。
「それにしても、いまどき個人で伝書龍を飼われているのは珍しいですね。郵便の配達もさせているんですか?」
「はい。元々はおばあちゃんが飼っていた龍で、それをわたしが受け継いだんです。友人や知り合いに手紙を出す際はジェットにお願いしています。今回はサルカエスに住む……知人の所に行ってもらいました」
恋人とは言わなかった。もう恋人ではない。
「魔術都市サルカエスか、なるほど。あの街なら魔術を使う者だらけだ」
ミントの表情が曇る。
「そういえば、さっきも仰ってましたけど、ジェットの傷が魔術でつけられたというのは本当なんですか?」
「ええ。鱗に暴れた際にできた小傷もあるでしょう。きっと拘束されて至近距離から魔術を撃たれたんでしょう。ひどい人間もいたものだ」
薄暗いアパートでは気づかなったが、明るいこの部屋で見れば横たわるジェットの全身を覆う黒鱗には、かすり傷のようなものが無数に見えた。
「でも、誰がこんなことを……」
「それについては……」
青年は申し訳なさそうに通信筒を差し出した。
「治療の際、ジェットくんの首輪を外したのですが、装着されていた通信筒の蓋が外れて、中から便箋が出てきました。盗み見するつもりはなかったのですが」
ミントから通信筒を受け取る。
黒鉄製のシンプルな通信筒は祖母が若い頃にジェットにつけたものだそうで、首輪に括りつけられていた。
中を見ると丸められた便箋が一枚入っていた。サーヤが送ったものではなかった。
サーヤは心に冷たいものを感じながら便箋を広げた。
『未練たらしい
魔術士を目指す彼に只人のあなたは似合わないわ。汚い龍に手紙を持たせてくるのも田舎臭いし、彼もいつまでも粘着されて鬱陶しいといつも言ってるわ。だから、もう二度と手紙なんか送ってこないでちょうだい。もし、またこの汚い龍に手紙を持たせるようなことがあったら、次は龍も無事には帰らないでしょうね。』
そこには名前も知らない女からの剥き出しの敵意が綴られていた。
「……サルカエスの魔術士の中にはいまだに我々のような魔術を使わない
ミントは苛立ちを隠さなかった。
怒りは沸いたが、それよりもこんな卑劣なことをする女になびく恋人に対する憐れみの方が大きかった。サーヤは読み終えた便箋を折り畳むと診察台に横たわる龍を優しく撫でた。
「ごめんね、ジェット。私のせいで」
眠ったままの黒い小龍に反応はなく、サーヤの瞳には涙が滲んだ。
「大丈夫、すぐに目覚めます。後遺症もない。不幸中の幸いはこの伝書龍が珍しい古種だったことですね。魔術への耐性がありますから。大事に至らなくてよかった」
サーヤは古種という言葉の意味が一瞬わからなかった。
「そうなんですか?」
ミントは机の上に置かれた学術書を手に取り続けた。
「現在、この街の郵便会社で使われてる伝書龍の多くは白い羽毛を持つ
丁寧に説明してくれたが、ジェットがそんなに珍しい龍だということを知らなかった。確かに、アルムウォーレンの郵便会社が使役している伝書龍とは少し姿形が違うが、それについて祖母から説明されたこともなかった。
幼い頃から一緒にいたので、彼について疑問を持ったことがなかったのだ。サーヤの周りに伝書龍を個人で所有している人はいなかったし、病気や怪我で病院にかかったこともなかったから、今日まで誰かに指摘されたこともなかったのだ。
「そんなに珍しい龍だったんですね」
「もしかして、知らなかったんですか」
ミントは目を丸くする。
サーヤはなんとなく申し訳ない気持ちになりながら頷いた。
ミントはどこか拍子抜けしたように息を吐いた。
「この伝書龍は戦争中に同盟軍の魔法使いや魔術士が主に使っていた種類なんです。作戦の伝達や魔力源の運搬に使用されたんですよ。元の飼い主のおばあさまは魔術士だったのでは?」
「そういえば、おばあちゃんは若い頃、魔術士だったと聞いたことがあります。ジェットのこともおばあちゃんの若いときの話もあまり聞けませんでしたけど」
幼かったサーヤが祖母と一緒に暮らした期間は短かった。祖母と母はあまり仲が良くなかったから、祖母の話はあまりしてくれなかった。
唯一、聞いたのは、祖母の若い頃に起こった戦争で従軍したとき、同じ隊に恋人がいたけれど、隊が壊滅して行方知れずになってしまったということと、戦後に出会った祖父には「結婚してくれないと死ぬ」と迫られて呆れて仕方なく結婚したと言う笑い話くらいだった。
「……わたし、おばあちゃんのことも、ジェットのこともぜんぜん知らなかったんですね」
自分の大切な家族なのに何も知らなかったのが恥ずかしかった。
「自分を責める必要はないです。知らなかったのは仕方ないことですよ」
ミントは労りの言葉をサーヤにかけたが、その後に首をかしげた。
「あれ。ってことは。わざわざここの病院に連れてきたのも、職場の近くだからというだけですか?」
サーヤが頷くとミントの顔に少年のような笑みがこぼれた。
「なるほど、それは幸運でしたね。うちは元々、龍の治療を専門にやってたんです。じいちゃんが龍医だったんで。それで俺もじいちゃんから龍の治療法を叩き込まれました。ま、今は龍を飼う人が少ないんで動物を主に診ていますけどね」
せっかく覚えた技術を使う機会がなくて腐ってたんですよ、と青年は自虐的に笑った。
「自分で言うのもなんですけどね、この手の古種を診れる病院はアルムウォーレンにはそうそうないですよ。他の病院に行っても手当てはできなかったと思います、知らずに来るとは運がいいですね」
ミントは誇らしげに白い歯を見せた。玄関の前で会ったときとは別人のような穏やかな笑顔だった。サーヤも緊張が解けたのか、釣られて微笑む。
「そうだったんですね。突然おそい時間に押し掛けてすみませんでした。おやすみでしたよね」
「ええまあ。でも、時々あるんですよ、こういうことも。できるだけ対応したいと思ってるんですけど。寝起きが悪くて……不機嫌な感じの対応になっちゃいましたよね、すみません」
ミントは申し訳なさそうに頭をかいて頭を下げた。
「いえいえ。こちらが押し掛けてたんですもの、こちらこそすみませんでした」
互いに頭を下げあっていると、診察室の奥の扉が開いた。
「おや、ミント。こんな時間に起きとるのか?」
扉をあけて現れたのは白髪の老人だった。
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