【黒い恋人】1/3


 夜のない季節がこの街に再び訪れた。


 水上都市アルムウォーレンでは真夏の盛りの数週の間、太陽が姿を消すことはない。

 天高く上った太陽は美しく穏やかなるダリル海へと沈み始めるが、海にその身を半分ほど沈めると、水平線をかすかに掠めるようにゆっくりと時間をかけて横滑りした後、眠りにつくことなく、再び天高く上り始める。


白夜レミルライト」または「黄昏の日々アーガスト・メルナ」と呼ばれるこの神秘的な現象は観光都市であるアルムウォーレンの名物だ。

 この季節を目当てにアルムウォーレンに訪れる観光客は多い。

 だが、この街で生まれ育ったサーヤにとっては、白夜などは、ありふれた日常のただの一ページでしかなかった。


 それどころか、分厚いカーテンをしっかり閉めないと眠りづらいし、朝方まで騒ぐ観光客は大勢いるし、生活リズムが崩されてしまう。

 朝が弱い彼女にとって、白夜は単に悩みの種だった。

 しかも、最近は起こしてくれる同居人がいなくなったこともあり、朝のつらさは倍増しているのだ。



「魔術士になる」と子供じみた夢を追って、恋人が街を離れてから、もう三ヶ月。

 去った男に未練があるわけではないが、送った便りが帰ってこなくなったことだけは、サーヤにとって気がかりな事案であった。

「……とか言ってさぁ。あんたが帰りを待ちわびてるのは恋人からの手紙じゃなくて、手紙を運んでくる『彼』なんだろ?」


 職場のレストラン。同僚のミッチェが彼女の元によってきてニヤリと笑った。


「……まあね」


 見抜かれているとは思わず、サーヤの大きな瞳が曖昧に泳いだ。

 店内は混雑していたけれど、合間を見つけてはこうしておしゃべりをするのが常だ。


「あんたはずっと『彼』にぞっこんだもんね。そりゃ男も出ていきたくなるわ」



 恰幅のよいミッチェは手際よく厨房から出来上がった料理をテーブルに運ぶ。

 サーヤも空いた席を布巾で拭いて、そこに新しい客を案内する。会話をするのは互いに手の空いた一瞬だけだ。


「ま、あの男と別れるってのはあたしも賛成だけどね。だって、いい歳して魔術士になりたいなんてガキみたいなこと言って街を出てったんだろ。馬鹿馬鹿しいにも程があるよ」


 注文を受け、戻ってきたミッチェがオーダーシートを厨房に出しながら言う。彼女は仕事の速度は落とさずによく喋る。


「……それはわたしも思ったけど」


 お盆に水の入ったカップをのせていたサーヤの動きが一瞬止まった。彼女にとっても恋人の性格に思うところがあったのだろう。


「どうせ帰ってこないんだ。さっさと忘れたほうがいいよ。サーヤは若いし美人だし。もっといい男はいくらでもいるさね」


 サーヤの細い体を突いて、ミッチェが白い歯を見せた。

 サーヤは今年で二十六歳。細身で女性にしては長身。長い黒髪は美しく、職場のレストランでも、友人と行くバルなどでも、男性から声をかけられることは多い。

 放っておいても男は外から寄ってくるのだ。


「でも、わたし、恋愛は当分しなくていいかな」


「もう、そんなこと言ってると、いつのまにか年食ってさ。焦ってヘンテコな男と一緒になって後悔するよ。あたしみたいに」


 厨房のコックを顎で指してミッチェはしかめっ面になった。


「なに言ってんの。サンタナはいい男じゃん。料理も美味しいし」


 鍋をふるう体格の良いコックの後ろ姿を見つめて言う。


「取り柄は料理だけだよ」


 ミッチェはその太い腰に手を置くと、ため息まじりに肩をすくめた。


「なんならさ。あたしが男を紹介しようか。ほら、この店の二軒となりの動物病院の先生なんてどうだい? この店にも時々来るんだけどね、医者なら馬鹿みたいな夢を追いかけて街を出ていくなんてことはないだろ。収入もいい」


「うーん。気持ちは嬉しいけど、お医者さんってなんか固いイメージあるし……。それに今は『彼』のことが気になるから……」


「ったく、やっぱり『彼』にぞっこんなのね。ま、ともかく、あんまり考えすぎないことだね」


「うん……」


 ミッチェは曖昧に頷くサーヤの華奢な肩をぽんっと叩いて注文を取りにフロアへ向かった。



  ☆

  

 仕事を終えてアパートに帰る。落ち込んでいたサーヤのために、厨房のサンタナはいつもより豪勢な賄いを作ってくれたが、おいしい食事をとっても、頭のなかは『彼』のことでいっぱいで、心は沈んだままだった。



 部屋に戻ったサーヤはまとめていた黒髪をほどきベランダへ足を運んだ。

 サーヤが住むのは五階建てのアパートの最上階だ。

 思えば魔動式昇降機エレベーターもない古いアパートを選んだのは『彼』のことを思ってのことだった。

 『彼』は空が好きだったから。


 ベランダの手すりの向こうには、水上都市の名にふさわしい街並みが広がっている。


 北東にはアルムウォレスト本島があり、賢王会議の時計台や都市警察の本部である大義庁館の威圧的な高楼を臨むことができる。

 西に目を移せば穏やかなるヴァレンティア湾が大きく広がり、貿易船が浮かぶ港の倉庫街や亜人街には今日も活気が溢れている。

 ベランダのすぐ下へ目をやれば、交通の要である運河が四方に伸び、昼の間には商人のボックスボートが浮かび日用品や食料、観光客向けの魔術洋燈ランプを売っている。


 絵葉書になるような美しい光景だが、この部屋で景色を眺めてもう五年だ。すでに真新しさはない。

 見慣れてしまった街並みには見向きもせず、サーヤはベランダの端に置かれたメールボックスへ一直線に向かった。


 淡い期待を込めてボックスの中を覗くが、入っていたのは美容院のチラシと不動産のチラシが数枚だけだった。

 ため息をついて身を起こしたサーヤは焦げ茶色の瞳を街へ向けた。


 黄昏れたままの太陽が大小様々な島で形成された水上都市を幻想的に照らしていた。

 

『彼』はもう戻ってこないのだろうか。


 一人で見る白夜は物悲しかった。

 誰とだっていつか別れはやってくるけれど、こんな形で別れが訪れるなんて考えたくはなかった。


 サーヤは部屋に戻るとカーテンも閉めず、ベッドに身を投げた。

 硬いシーツの上に寝転がる。ベランダの向こうの橙に染まる空を見るとはなしに、ぼうっと見つめる。


 心にぽっかりと穴が開いたようだった。

 恋人が魔術都市サルカエスに行くと聞いたときにもこんな気持ちにはならなかった。


 どのくらいそうしていただろうか。うとうとしていたサーヤは金属の擦れるような物音で目が覚めた。


 重たいまぶたを開ける。空は相変わらず黄昏色で、そのせいで、どのくらいの時間、眠っていたのかわからなかった。けれど、その物音がベランダの方からしていることに気がつくと、サーヤの頭は一気に覚醒した。


 ベッドから跳ね起きる。乱れた髪もそのままベランダへ駆けた。

 ベランダにはメールボックスを開けようと顎を動かしている『彼』の姿があった。


「ジェット!!」


 サーヤが叫ぶと『彼』は首をもたげ赤い瞳をサーヤに向けた。


「よかった……心配したんだよ」


 サーヤは駆け寄り膝をつき腕を広げて『彼』の小さな体を抱きしめた。

 握り拳ほどの小さな頭を抱きしめ、頬を寄せる。冷たくヒンヤリとした『彼』の体温が固い鱗を通して伝わってきた。

 サーヤが抱きしめたのは黒い鱗に全身を包まれた小さな龍だった。


 首元には『彼』であることの証明である魔石が嵌め込まれた鉄製の首輪と、手紙を収納する通信筒が下げられている。

 ジェットは伝書龍という
郵便を配達するために訓練された小龍だった。


「ジェット……。どうしたの。今までこんなことなかったでしょ。一週間も帰って来ないなんて……」


 幼い頃からずっと便りを運んでくれた『彼』が、こんな長期間、届け先から帰ってこないことなど、今まで一度もなかった。


 ジェットはかすかに喉を鳴らすとサーヤの胸に硬い頭をこすりつけた。こんなに疲れ果てているジェットを見るのは初めてだった。

 少しの間、涙を浮かべてジェットを抱きしめていた。

 けれど、ジェットの体をさすったその手に違和感を覚え、慌てて顔を上げた。


「もしかして、あなた怪我をしてる?」


 目を凝らせば、彼の片翼の付け根が裂け、黒い血でべたりと濡れていた。

 固い鱗で覆われたジェットがこんな大怪我をするところなど見たことがなかった。


「そんな……。病院、病院に行かなきゃ」

 彼はきっと息も絶え絶えこの部屋に戻ってきたのだろう。いつもは無愛想なジェットの顔も苦痛で歪んでいた。

 サーヤは慌てて部屋に戻りバスタオルを掴み取ると、ぐったりしたジェットの体を優しく包み、胸に抱えあげた。


 一刻も早く病院へ連れて行かなければ。

 駆け出そうとしたサーヤだったが、その顔は青ざめたまま、足が動かなかった。

 

 どこに連れていけばいいのだろう。

 今までジェットが怪我をしたことは一度もなかった。サーヤは彼を病院に連れて行ったことがなかったのだ。


 硬い鱗で覆われた龍は怪我をすることが極端に少なく、そのため専門の龍医は希少な存在だった。


 こんな時のために病院を調べておくべきだった。自分の迂闊さを後悔したサーヤだったが、必死に心を落ち着かせ頭を巡らせた。


 どこかにあったはずだ。どこかに。

 しばし考え込んでいたサーヤだったが、幸運にも仕事中にミッチェから聞いたある言葉を思い出すことができた。


(なんならさ。あたしが男を紹介しようか。ほら、この店の二軒となりの動物病院の先生なんてどうだい?) 



 そうだ。動物病院なら、ある。

 そこで龍を診れるかはわからないが、思い浮かぶ病院はそこしかない。連れて行くしかない。


「ジェット、もうちょっと辛抱してね」


 サーヤはタオルに包んだジェットの頭を撫でると部屋を飛び出した。

 ☆

 運河に架かる小橋を二つ越えた通りの先にサーヤの働くレストランはある。病院はその二軒隣。

 昼間なら乗合船ボックスボートが出ているから時間はかからないが、すでに運行時間は終わっている。

 遠回りになるが橋を渡って向かわなければならなかった。


 サーヤは走った。黄昏に暮れる街の中を黒髪をなびかせ病院を目指した。


 小橋をひとつ、またひとつと渡って、息があがり汗が噴き出した頃、ようやく目的の動物病院の看板が見えてきた。


『グレイス獣医科』


 そこは自宅兼診療所といった二階建ての小さな診療所だった。白い壁には蔦植物が絡んでいる。かなり昔の建物だ。

 玄関の扉を開けようとして気がついた。灯りがついていない。

 カーテンは閉められ、診察時間外の札が下げられていた。

 そうだ、今は夜中なのだ。白夜のせいで時間のことをうっかり忘れてしまっていた。


 あたりは黄昏に包まれているけれど、観光客を相手にした飲食店やごく一部の商店を除いて、こんな時間に空いている店はない。


 茫然と立ち尽くしたサーヤだったが、傷ついたジェットをこのままにしておくことはできない。

 見たところ、診療所の上は住居だ。きっとお医者さんはこの中にいる。

 意を決して拳を握ると硬く締まるその扉を力の限りに叩いた。



「夜分にすみません! 小龍が大怪我をしてしまって、見ていただきたいのです! お願いします! どうかお願いします!」



 閉ざされた扉を叩く。返事はない。けれど、サーヤは諦めなかった。

 何度も、何度も扉を叩く。

 手の感覚がなくなった頃、二階の部屋に灯りが灯った。しばらくすると玄関のスリガラスの奥の明かりも灯る。誰か降りてきたのだ。


 ガチャリ、と扉が開いた。

 現れたのはボサボサ髪で寝巻き姿の、目つきの悪い不機嫌そうな青年だった。


「……なんですか、こんな夜中に」


 体の線が細く、神経質そうな青年はじろりとこちらを一瞥した。


 とげのある言葉に一瞬怯んだサーヤだったが、すがるようにして両手に抱えたタオルをめくった。


「遅い時間にすみません、先生はいらっしゃいますか? この子を見ていただきたいんです」


 ぐったりとしたジェットを青年に見せた。ジェットの痛々しい姿を見て、青年の細い目が見開かれた。


「ん、これは伝書龍ですか。……ひどい傷だ」


「はい。大怪我をしていて。どうか見てやってください」


「……診察時間外です。と言いたいところですが。仕方ありませんね。どうぞ」


 青年はため息をつくと扉を開けてくれた。サーヤは頭を下げて玄関に足を踏み入れた。


 うす暗い待合室。スタスタと大股で歩く猫背の青年を追いかけて診察室に向かう。

 診察室に入ると青年は明かりをつけた。


「そこに寝かせておいてください」


 診察台を指差して、ぶっきらぼうに言うと、青年は背中を丸めて奥の部屋に入っていった。


 自分と同い年頃か少し若いようだけど彼がお医者様なのだろうか。

 サーヤには彼がなんとなく頼りなく見えた。

 彼に希少な龍を診察することが出来るのだろうか。


 若干の不安を覚えながらも、言われた通りにジェットを診察台の上に乗せた。苦しそうなジェットの頭を撫でながら青年が戻ってくるのを待つ。


 しばらくすると青年は白衣を羽織って戻ってきた。



「すいませんね。基本、急患は受け付けてないんで、寝ていたんですよ」



 とげのある口調だった。青年は顔を洗ってきたのか、ボサボサの前髪がすこし濡れていた。


「夜分にすみません……」


 サーヤは肩を縮こませて頭を下げたが、青年は彼女の方を見ることもなく、すぐに診察台に向かった。

 横たわり苦しそうに息をするジェットの翼をそっと持ち上げ、付け根の傷口をじっと観察した。そして、眉間に皺を寄せた。


「これは魔術でつけられた傷ですね」


「魔術ですか……?」


「無駄話をしてる時間はありません。すぐ治療を始めます。待合室で待っててもらえますか」


 サーヤの疑問を遮って青年は言った。


 高圧的な態度に思わずムッとしたが、彼の言う通り、いまは質問などしている場合ではない。サーヤはうなずいて診察室を出た。


 遮光カーテンが窓を塞ぐ待合室のベンチに腰かける。静かで薄暗く、不安だけが胸に募る。

 どうか、無事に治療が終わりますように。


 それだけを祈って目を閉じた。


 不安に包まれた胸の奥、思い浮かぶのはジェットと初めて出会った時のことだった。


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