燦然世界 第5日
手がなかった。
打つ手がないとか他に解決策がないとかいう比喩表現の話ではない。
自分の手が、そこには存在していなかった。
———は?
ここは昨夜ミコトと共に泊まったホテルの一室のはず。枕元で充電していたスマートフォンのアラームで起こされた。昨夜設定した通りなら今は朝の八時。けたたましい音に目が覚めたから、スマートフォンに手を伸ばしてアラーム音を止めようと思い手を伸ばした。どこの家でも誰にでも、平日であるのなら毎朝大多数が行っているであろう当たり前のルーティン。
だが、寝ぼけ眼で捉えた視界には、生まれてからずっと共に在ったはずの右腕が消失していた。寝ぼけているのかと何度か瞬きをしてみるが、やはりそこには右腕がない。しかし痛みもない。さらに言えば目に映っていないはずの腕と手の指の感覚は今もしっかりある。つまりこの現象は視覚情報に起因するトラブルである可能性が濃厚。そこで自分はベッドを飛び起き、右手を自分の顔の傍に近づけて注意深く観察してみた。
———ん……?
眉間に皺が寄るほど目を細めてみると、そこには先程までなかった陽炎があった。不鮮明で、線香や煙草の煙が意志を持って形を成しているような曖昧な何か。それは飽きるほど見てきた自分の右腕であったが、今は半透明で輪郭が揺らいでいる。
もしやと思い、次は左腕を見た。左腕も同じように揺らいでいる。視線を少し下げると、ベッドの上で胡坐をかいている両足も、手足が繋がっている上半身も輪郭が不鮮明になっていた。
自分の存在が、あやふやになっていた。
考えるより先に、何か言葉を発しようとした瞬間。
「ダメ!!!」
「っ!?」
一際大きな声と共に、質量をもった何かが死角から勢いよく突撃してきた。それは力強く自分の身体を抱き留める。たとえば宙に浮かんではじけて消えようとするシャボン玉の飛沫を集めて無理やりそこに留まらせるように。
身体は揺らいでいたというのに、何か―――ミコトの体温と息遣いはリアルすぎるほどリアルで、寒い冬の日に着ていく卸したてのダッフルコートのような温かさで自分を包みこんでくれていた。
しばらく互いに無言のままベッドの上でそうしてジッとしていたが、やがてミコトがゆっくりとこちらに回していた手を解いた。
「もう大丈夫みたいだね、奇跡」
「あぁ……」
見れば、先程まで揺らいでいた身体の輪郭はいつもと同じ一つに収束していたし、半透明だった両手は透明度ゼロの肌色を取り戻していた。念のため両手で頬を軽く叩いてみたが、手がすり抜けるとかそんなベタなこともない。枕元でずっと鳴り響いていたアラームだって止めることができた。
「俺も、消え始めてるのか?」
「大丈夫。ナギは消さないから。私が絶対守るから」
「なぁミコト。もういいだろう?ミコトが知ってること、全部話してくれ。ミコトはどうしてここに来た?どうして俺を外の世界に連れて行こうとする?お前はいったい―――」
矢継ぎ早に溜まっていた疑問をまくしたてるが、ミコトは人差し指を俺の口元にそっと添えて言った。
「分かったよ。話してあげる。ナギが消え始めてるってことは、もう時間があまりないみたいだしね。でもその前に、着替えて?そしてすぐにこの町を出よう。窓の外、見てみて」
「窓の外?」
言われるがまま、俺は部屋の窓に掛かっていたカーテンを勢いよく開き、眼下に広がる街並みを認めた。
街は、白い何かに包まれていた。遠目には雪にも見えるが、正確には違う。その白には質量と呼ぶべきものはおよそ存在しないように見えた。絵の具で塗りつぶしたようなただの“白”。たとえば人間が知覚することのできない宇宙そのものとでもいうべき、概念的な“無”。
そしてもう一つの特異点は、街のいたるところからゆっくりと浮上している、オレンジがかった色の無数の光。それは次々と青い空に吸い込まれるように立ち昇っていって、夜空の星よりも小さな点となって見えなくなっていく。
とにかく、この街がもう消えかかっているということは理解できた。
***
「ナギのいるこの世界はね、本当は五日前にできたんだよ」
一つの街が消失しかけているという非日常的かつ命の危険もある今の状況でも、癖なのか性格なのか律儀に法定速度ギリギリで走らせていた車の中、ミコトがそう言った。
「五日前って、俺とミコトが最初に会った日だろ?」
そんなわけがない。自分には五日前以前の記憶も経験もちゃんとある。それに、あの外の世界に行こうとした、子供の頃の苦い思い出だって。
ミコトは続けた。
「ナギは、自分が子供の頃のこととかちゃんと覚えてる、って思ってるだろうけど、それもね、本物の記憶じゃないの。でも百パーセント作りものってわけじゃなくて、そこにはナギじゃない別の“ある人”の思いや経験が混ざってる」
「どっちにしても作りものとさして変わらない」
「そうでもないの。それはキミと“あの人”が繋がっているっていう確かな証拠だから」
「“あの人”?」
まだ残っている信号機は赤に点灯していたが無視した。そもそも走っている道には他の車はおろか歩道にも人っ子一人歩いていない。もう、とっくにこの街の人たちは消えていたんだ。
「きっと、ナギも知ってる人。昨日、夢で見ていたんじゃない?」
「———『恭介』?」
「そう、恭介。もう一人のナギ。そしてナギにとって“父親”である人」
「チチオヤ?なんだそれ?」
聞き覚えのない単語だった。
そもそも今までもミコトは聞き馴染みのない言葉を時々使っていた。確かコイビトだとかカゾクとか。外の世界とこっちとで表現が違うのかとあまり気にしていなかったのだが、そういえば同じ言葉を夢で恭介も使っていたような気がする。
「ナギがいるこの世界では親とか家族とか結婚とか、新しい命が生まれる事象に関わる概念自体が存在しないからね。分かりやすく言うと、ナギを作った人、ってことになるのかな」
「俺を作った?」
「ううん、ナギだけじゃなくてこの世界と、この世界に住んでいた人たち全部。すべての命は恭介から生まれた。———数日しかもたない短い命だけどね」
「恭介は科学者か何かなのか?そういえば夢でパソコン使った仕事してたような気もするけど」
「ううん。恭介はどこにでもいる普通の人。でも“外の世界”の人は、基本的にみんなそういう“仕組み”を持って生まれてるの。ナギも、“外の世界”に行くならきっとそうなる」
「なんだか、魔法みたいな話だな。事ここまでに及ぶといちいちツッコむ気もないけど」
「とにかくナギがいるこの世界は、ナギの記憶含めて恭介によって作られた数日しか続かない場所。そこだけ抑えておいてくれればいいから」
「分からないけど、分かったよ」
車は隣街との境になっている大きな川を繋ぐ橋に乗った。ここまで来ると景色もだいぶ“白”が減ってくる。とりあえず峠は越えたと思っていいだろう。だが川の向こう側に佇む街からも、多少ではあるがあのオレンジの光の玉が昇っているのが見える。もう少し遠くまで車を走らせる必要がありそうだった。
「えっと、次は何を話せばいいかな」
「ミコトがここに来た理由」
「あぁそうだったね。といっても、私がここに来た理由は最初に話した通りなんだけど」
「俺を“外の世界”に連れていくため、だったか。どうして俺なんだ?」
「私が選んだから」
「選んだ?俺を?というか、そりゃ選んだのはそうだろう。その理由を聞きたいんだけど」
「それは言えない」
「おいおいここまで来て今更そんな」
「乙女の秘密」
「まぁ、乙女の秘密って言うってことは大した理由でもなさそうだけど。質問を変えよう。ミコトはミコトの意志でここに来て、俺を“外の世界”に連れて行こうとしてるのか?」
そこでちょうど車が橋を渡り切った。左手側では営業中なのか潰れているのか分からない、建物だけは無駄に巨大なパチンコ屋が一際目立ち、右手には某レンタルビデオチェーン店が見える。どこにでもある、車に乗っていれば一秒とかからず通り過ぎてしまう当たり前の風景。でも、きっとこの景色もじきに白く染まってしまうのだろう。
「私の意志で、というと少し違うかも。私は、私じゃない私の意志でここに来た」
「なんだかややこしい話だな」
「ヒント。その人のこともナギはもしかしたら知ってるかもしれない」
「———『彩音』?」
「正解。彩音も恭介と同じで、ナギの親になる人。母親っていうんだけど」
「ハハオヤ?チチオヤとの違いは?」
「性別。父親は男性で、母親は女性」
「なるほど」
「ナギに“外の世界”に来てほしいと思っているのは、恭介と彩音の二人だよ」
「どうして?」
「ナギは、二人にとって“願い”そのものだから」
「抽象的な例えだな、分かりづらい」
「さすが、普段『たとえば』『たとえば』って口癖みたいに言ってるだけあるね」
「?そうか?というか、ミコトだって『奇跡』『奇跡』ってよく言ってるだろう。奇跡が安っぽく思えるくらい」
「そうかな?」
「あぁ」
「でも奇跡は奇跡だよ」
「本題に戻ってくれないか?」
「むぅ。えっと、なんだっけ」
「恭介と彩音の願いがどうこうって話。願いっていうのは具体的にどういうことなんだ?」
「あぁそうだったね。んーと……、“二人がこれからもずっと一緒にいられるように”、ってところかな」
「二人は仲介人がいないと仲良くできないのか?」
夢で見ていたあの二人は仲睦まじいとまではいかなくても、深いところでは決して相手を疎んだりしているようにも見えなかったが。
そこでふと、昨夜夢に見たあの光景が脳裏をよぎった。彩音に身を寄せられて困惑する恭介の表情。
「仲介人なんて堅苦しい話じゃないよ。ただ、二人が共通して愛せるものが欲しいっていう話」
「共通して愛せる?」
「ナギだって経験あると思うけど、共通の趣味とか好きなものが一緒の人の方が仲良くなれるものでしょう?その延長というか究極系みたいなものだよ」
「つまり、俺を“使って”より仲を深めたいってわけなのか、あの二人は」
「“使う”って言い方はどうかと思———」
「俺は嫌だ」
そこまで大きな声を出したわけでも、ドス黒い感情を声に乗せたわけでもなかったのだが、そう言った瞬間車内に不気味なほどの静けさが訪れた。僅か数秒ほどだったが、そのほんの数秒が、確実に場の空気を変えたと思う。
「嫌?嫌っていうのは?」
「理由や経緯は分からないが、とにかく今の俺は恭介と彩音にいいように使われるために“外の世界”に行こうとしているんだろう。そういう話なら、俺は“外の世界”になんて行かない」
「どうして?」
そう尋ねたミコトの声には、これでもかというほど分かりやすく、悲しみの色が滲んでいた。
だが、俺にも譲れないものはある。
「生きる理由に他人を使うようなヤツらのために、俺は生きたくない」
「———そう」
***
ひとまず例の消失の兆しが見えない町まで車を走らせて、まだ早い時間だったが俺とミコトは宿をとった。部屋は別々にした。ミコトは今朝と同じようなことがあったらいけないからと渋ったが、内心俺は、次の瞬間に自分という存在が消えたとしても、どうでもいいとすら思っていた。
———苛々する。
どうしようもなく、苛立っていた。怒りの矛先を女性に向けるような真似はさすがに自分もしないと信じたいが、それでも誰かと一緒にいる気分でもなかった。
「はぁ………」
机と椅子、それと小ぶりなテレビが置かれたシンプルな部屋で、俺は盛大に溜息を吐いてベッドに身を投げた。
「———苛々する」
「———ムカつく」
「———なにが」
「なにが“願い”だ」
自分がよく知らない他人の一方的な都合のためだけに、私利私欲のために生みだされ、ミコトによってここまで導かれているという事実が、どうしようもなく許せなかった。自分の意志や運命に他の誰かが干渉することを、どうあっても許容できなかった。自分の生きる理由を他人に預ける
やはり自分は、この狭い世界にいる方が幸せだったんだ。
なにが“外の世界”だ。“外の世界”に行ったって、自分はただ都合よく愛でられる愛玩動物に成り下がるだけなんじゃないのか。
ふと、始まりの日にミコトが言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。
———奇跡だよ。
———私とキミが出会ったのは、奇跡。そしてキミが外の世界に行くことも、ね。
「なにが、“奇跡”だ」
もしこの世界に“奇跡”というものが本当にあるというのなら。
「“奇跡”なんて、起きなければよかったんだ」
--つづく--
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