燦然世界 第4日
「———またあいつの夢だ」
ここ最近、同じ奴が出てくる夢ばかり見ているような気がする。目が覚めたら夢は曖昧になるが、それでも漠然とした感覚だけは残る。たとえば子供の頃に好物だった駄菓子の味のように。身体は覚えていなくても、心が覚えている。
「ナギー?起きてるー?」
ドンドンドンとけたたましく部屋のドアを叩く音が響く。別に昨晩酒を飲んだわけではないのだが、それがひどく頭に響いて不快だった。
「起きてるから、ドア叩くのやめろ」
「今日朝ご飯どうするー?」
「何か食べたいものはあるか?」
「あ、質問に質問で返したねー。いっつも私がそうすると怒るくせに」
「時と場合によるんだよ。この場合は会話の流れとして特におかしくもないだろ」
「大人って本当に汚いねー。自分に都合の悪いことは全部後付けで解決するんだー、幻滅したなー」
「何も希望がないなら近所のコンビニで適当に買ってくるぞ」
「えー。せっかくだしどこかのお店で食べたいなー」
「注文の多い奴だな」
俺は寝起きで不安定な思考をクリアにすべく、洗面所で冷たい水を頭に被りに向かった。
夢で見た内容は、やはりすべては思い出せなかった。
***
「ねぇ、知らない土地に行くのって結構怖くない?」
昨日のどんよりとした雨天から一転、雲一つない快晴の空の下で車を走らせていた時にミコトがそう言った。
「まぁ、“知らない”っていうことがイコール恐怖だっていうのは分かるけど」
「ナギも怖いって思う?」
「まったく怖くない、って言うと嘘になるな」
「外の世界に行くことも?」
「そりゃもちろん」
知らない街に行くことさえそうなのに、全く別の世界に行くことに恐怖も躊躇いも覚えないはずがないだろう。
「私もね、少しだけ怖い」
「……?」
「こうしてナギと一緒にいろんなところ見て回ってるけど、時々すごく“帰りたい”って気持ちが強くなるときがあるんだ」
「まぁ、七日目には帰れるんだからそう考えればマシってもんじゃないのか?」
俺は外の世界に行ったら、きっともうここには帰って来られないんだから。
そう言葉にして口に出すこともできたが、ミコトの愁いを帯びた表情を見るとどうにも憚られた。
「うん。まぁ、そうかもね」
ひどく素っ気ない返事だった。
少しだけ、彼女を傷つけてしまったような気がした。理由は分からない。そもそも彼女のことをまだほとんど知らないのだから。それでも言いようのない罪悪感が胸の内側に広がっていく感覚だけがあって、それはどうしようもなく居心地を悪くさせた。
「———そういえば、やっぱり人、減ってるよな」
「うん。この辺、ほとんど人も車も走ってないね」
今走っているのは大都会とまではいかなくとも交易や発展を感じさせる大きな街だったが、大きな街には不釣り合いなほど人の出が少ない。例えば収容可能人数二万人のドームで百人しか客が来なかったコンサートのように、活気と呼ぶべきものが決定的に欠けていた。時間帯が夜だったなら怖い話としては画になったのだろうが、あいにく今はまだ日の高い午前中だ。個人的には恐怖よりも寂しさの方が強い。
「朝出たときのホテルはまだ人いたんだけどな」
「こうやって、少しずつ消えていくんだよ」
「最終的にはこの景色自体が消えていくんだったか。住んでいた街にもし今引き返したとしたら、そこにはもう何もないのか?」
「どうだろうね。でも、望みは薄いと思う」
「そうか。じゃあ俺にはもう帰る場所がないわけだ」
別にあの街に特別な思い入れがあったわけでもないが、どうでもいいと言うほど興味がなかったわけでもない。絶望するほど悲観的にもならないが、気にしていないと言えば嘘になる。
———帰る場所がない。
———帰りたいと思っても帰れない。
———……なるほど、確かに堪えるな。
少なくとも思案しすぎてその間の運転の記憶が抜ける程度には、自分は動揺していた。
贅沢な生活をしていたわけじゃない。住んでいた借家は1Kの少々手狭とも言える部屋だったし、ベランダがないから洗濯や布団を干すのも苦労するような所だったが、紛れもなくあそこは自分の帰る場所だったんだ。
そこが無くなったら、自分はどこに行けばいいのだろう。
———どこに行けばいいって、今向かってるじゃないか。
外の世界。自分の居場所はそこにしかないし、自分が帰れる場所はそこしかない。そう考えてみた。知らない世界。知らない人々がいて、自分の知らない生活がそこにはある。
「確かに、怖いな」
「え?」
「なんでもない」
俺の憂鬱な気分などお構いなしに、目障りなほどサイドミラーから反射してくる眩しい日差しが恨めしかった。
***
「海ー!」
「叫ばなくても見れば分かる」
昼過ぎの休憩がてら立ち寄ったのは広い浜辺だった。おそらくこの町の夏の観光地の一つなのだろうが、時期が悪いのかそれともこの町の住人が全員消えてしまったのか、浜にいるのは自分達二人だけで海辺でよく聞く鳥の鳴き声(何の鳥かは忘れたけれど)すらろくに聞こえない。ただ寄せては返す波の音だけが規則正しく迫ってくる。そう、迫ってくるのだ。お前たちはここにいろ、と主張するように。
「綺麗だと思わない?」
「特には」
「そういえばナギって海が嫌いなんだったね。“海に囲まれた牢獄”だっけ。ポエミーな例えだったからよく覚えてるよ」
「馬鹿にしてるだろそれ」
ミコトは悪戯っぽく笑うと、小走りで波打ち際まで駆けていった。靴と靴下を手早く脱ぎ、裸になった足を恐る恐るといった感じで迫ってきた海水につける。
「冷たい!」
「それは、温かい海なんてないと思うけど」
「そうなんだけど言いたいことはそうじゃないんだよねー」
自分はミコトのように海と戯れる気分にもなれず、波がやってこない程度のところでぼんやりと突っ立って彼女を見ていた。
「何かあったの?」
唐突にミコトが尋ねてきた。
「何かって?」
「きっかけもないのに何かを嫌いになることってあんまりないと思うんだけどな」
「あぁ、海が嫌いって話か」
別に隠しておきたいわけでもないが、いざ口にすると少しだけ恥ずかしい話でもあった。だが、ミコトには話してもいいような気もした。今の状況とも関わらない話でもない。
「昔、外の世界に行こうとしていた時期があったんだよ」
「昔?」
ミコトが意外そうな顔でこちらを見た。意外というよりは困惑に近いリアクションにも見えたが、まぁいい。立っているのがきつくなってきたので、俺はミコトの傍に近づいて波が寄ってこない程度の場所に腰を下ろした。
「この世界は閉じられていて、海の向こうに到達することは決してない。それはずっと知っていたけど、あの頃の俺はそれを信じてなかった。というか、自分で体験したわけじゃなかったから素直に信じられなかったんだろうな。外の世界には何があるんだろうって、憧れてた」
「それで、どうしたの?」
「シンプルな話。自分の目で確かめに行こうと思った。そこらのホームセンターで売ってるようなゴムボートを買って、電車を乗り継いで近場の海に行って、それに乗って沖に出たんだ。よくは覚えてないけど、ずっと一人でボートを漕いでたよ」
「行けたの?」
「行けたなら今俺はここにはいないよ。聞いてた話の通りで、いつの間にか俺はスタート地点の岸に打ち上げられてた。どこにもたどり着けなかったんだ」
「それがトラウマで海が嫌いになったと」
「いや。それもあるけど、それ以上に自分が許せなかった」
「?なにが?」
「最初は冒険気分でボート漕いでたのに、陸地がどんどん離れていくごとに不安になっていった。広い海の上に自分は一人ぼっちで、もし今ボートが転覆でもしたらまず助からないし助けは来ない。そう考えただけで怖くなった。外の世界への探求心よりも、自分が帰れないことの怖さの方が強くなった。怖さを振り払うために我武者羅にボートを漕いでいたけど、結局自分は“そういう人間なんだ”ってはっきり自覚させられたよ」
人生は自分を知るところから始まる。いつだったかそう言った気がするが、その通りなんだ。
自分は特別じゃない。ヒーローじゃない。白馬の王子様でもない。外の世界に行けるような選ばれた人間じゃない。
どこにでもいる極々普通のヤツで、どこにも向かうことはない。それが俺という人間。それをあの日、俺は痛いほど実感した。
「当たり前でしょ」
ミコトはあっけらかんとした声色で言った。
「なにが?」
「知らないところに行くのは怖いよ。さっきもそんな話してたけど」
「まぁ、当たり前だよな」
「でも、怖くてもそれでも進もうとしたナギはすごいと思う」
「え?」
話しはじめてからここでようやく、自分はミコトの顔を見上げた。でも彼女の視線はこちらを見てはいない。もっと遠く、おそらく彼女が来たのであろう水平線の先を見つめていた。
「誰でもそう思うでしょ?」
「じゃあ、ミコトもすごい」
「私は別に———」
「俺と違ってミコトは実際にここの世界に来たわけだろ?なんでわざわざ来たのかは知らないけど」
「……」
「お前も怖いか?」
「まぁ、人並みには」
「ならすごい」
でも、と前置きして、彼女は言った。
「奇跡的に道連れが見つかったから、言うほど不安もないけどね」
「ほとんど一方的に引っ張ってきておいてよく言う」
「ひどいなぁ」
俺たちはどちらからともなく、笑った。数ミリ口角を持ち上げる程度の小さな笑いだったけれど、そこには確かな絆があったと思う。
外の世界。そこにミコトもいるというのなら、自分も少しだけ安心できた。
「“生きる”って、そういうことだよね」
ミコトがぽつりと溢した言葉は、海風に乗って世界のどこかに流れていった。
***
「すみませーん」
「誰もいないね」
夜。昼間の海沿いの街からさらに進んだ先にある街でホテルに泊まることにしたのだが、呼び鈴を鳴らしてもフロントに従業員が来ることはない。
「やっぱり、この街の人も消えていってるのか?」
「うん、そうだろうね」
俺の言葉にミコトが肯定を返す。
昼間の街もそうだったが、こっちの街も相変わらず人の出が少なかった。建物に明かりは灯っているが、果たしてその中に人がいるものはどれだけあるだろう。
「さて、どうするか……」
「いいじゃん。お部屋、使わせてもらおうよ」
「は?」
ミコトはこちらの静止も聞かずフロントに侵入し、どこからか適当な部屋のキーを取って掲げてみせた。
「ちょ、それはさすがに」
「いいでしょ。どうせ、あと三日で世界は終わるんだから。ナギだって、もう疑ったりしてないでしょ?」
「いや、それはそうだけども」
「じゃ、行こ?」
「待て待て、同じ部屋で寝るのか?」
「あれ、嫌だった?」
「別に嫌ではないけどさ」
「じゃあ問題ないね。行こ」
有無を言わさずミコトはエレベーターに乗り込む。人がいないというのに電力はキッチリ供給されているようだった。途中でエレベーターが止まったらどうしようか、などと妄想してみたが、兎にも角にもミコト一人で行かせるわけにもいかず、自分も遅れて狭い箱に乗り込んだ。
「ナギさ、最近よく眠れてる?」
「え?まぁ、普通に寝てるけど」
「そう。じゃあ今夜も良い夢見れるといいね」
良い夢。そう言われて自分はここ最近見ていた夢のことを思い出した。
そこにいるのは自分じゃない別の誰か。登場人物はだいたいいつも二人。男が一人と女が一人だ。男の方の名前は確か———。
「———『恭介』」
「え?何か言った?」
「……いや、なんでもない」
今夜も、『恭介』の夢を見ることになるんだろうか。別に楽しいわけでも悲しいわけでもない、たとえばテレビのモニタリング番組のように当事者が気付いていないところから勝手に生活を覗き見しているような内容だった気がしているが。
あの夢は何なのだろう。
『恭介』とは誰なのだろう。
「あ、着いたね」
「ん、あぁ」
目的の階に到着したのか、エレベーターのチーンというベタな音で我に返った。
———まぁ、今夜も寝れば分かるか。
そう考え、俺はミコトの後を追った。
--つづく--
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