燦然世界 第3日
「ねぇ、ナギって好きなものは?」
三日目の朝。昨晩泊まった山間の旅館で朝食にありついていた時、ミコトが唐突にそんなことを言ってきた。
「どうしたんだいきなり」
「いいから答えて」
「…………すぐに思い浮かばないな」
「やっぱり」
「何が“やっぱり”なんだよ」
「好きなものはって聞かれてすぐに答えられない人は自己肯定感が低いらしいよ。自信のなさの表れなんだって」
「そうか」
「反応薄くない?」
「いや、実際その通りだし。自分に自信なんてない」
「もうちょっとこう、ポジティブで陽気な感じ出せない?顔には出さなくていいからマインド的なところで」
「強いて言えば一人でゆっくり過ごすときはそれなりに楽しい気分になるけどな」
「もう」
ミコトはこういった俺の人間性とかパーソナルな部分についての質問を旅の道中たびたび投げかけてくる。単純に俺に興味を持っているのか、それとも何か別の理由があるのかは分からないが、なんとなく後者だと思っている。ただの興味本位で聞いてくるにしては妙に迫真に迫っているというか、どこか深刻なものが彼女から感じられた。
———まぁ、何を考えていようが俺には関係ないし、どうしようもないことなんだけど。
人に言われて考えや性格を変えられるほど俺はお人好しでもないし、柔軟な思考を持ってもいない。
「それより、今日はどの方面に行くんだ?特に要望がないならこっちで勝手にルートを決めるけど」
「うん、途中で行きたいところがあったら言うからそれで大丈夫だよ」
「了解」
***
本日の天候。全国的に曇り所により雨。
正直、あまり雨は好きじゃない。車を持っている身としては特に。洗車してすぐ後に雨に降られたときは最高に苛々する。たとえば賽の河原の石積みと同じだ。もっとも自分は三途の川を渡ったことはないから実際の石積みがどんな気分になるのかは実感として体験しているわけではないのだけれど。
「雨、綺麗だね」
だから助手席に座っていたミコトが外の景色を見ながらそう言ったとき、自分はどこか嫌悪にも似たものを感じた。
「そうか?」
「うん。たとえば自然のシャワーみたいなものでしょ?」
「キミは無人島で遭難したことでもあるのか」
「行ったことはないけど、無人ではないけど右も左も分からない広い島にはいるよ、奇跡的に」
「そもそも雨水は特別綺麗というわけでもないぞ、どこかで聞いたことがあるけど。たとえば雨水をずっと頭に受けていると禿げやすくなるって言うし」
「どうして禿げるの?」
「うろ覚えだけど、確か雨水が酸性だったりするとそうなるんじゃなかったかな」
「へぇ。ナギも禿げちゃうの嫌?」
「そりゃお寺や神社に勤めでもしてない限りは好んで禿げたいと思う人はいないと思うけど」
「そっか。嫌いなものは『禿げること』と。メモメモ」
「何をメモってるんだよ」
「あ。ナギ、あれなんだろ」
「ん?」
そこで初めてミコトの座る助手席側に視線を向けた。彼女越しに見える車窓には並の高層ビルにも負けない大きな車輪が聳えている。
「観覧車だろ。別に珍しくもない」
「いやそれは分かるんだけどさ。普通見知らぬ土地で観覧車見たらなんだろうって思わない?」
「思わない」
「そっかそっかやっぱナギも気になるかー。じゃあちょっとあそこまで行ってみようか」
「いやなんでそうなる」
「いいじゃん。朝私が行きたいとこあったら寄ってくれるって言ってたじゃん」
「行きたいなら行きたいって素直にそう言え」
「ブーブー」
俺は彼女の要望に従い、見知らぬ遊園地に進路をとった。
***
「大人二名様で千八百円です」
入口でチケットを購入し、俺たちは園内に入った。
駐車場に入った時に看板でこの遊園地の名前を知ったが、特別どこかで聞いた覚えもない。本当に、どこにでもある普通の遊園地なのだろう。ここから見える園内のアトラクションも、一般人が連想するものは一通り抑えてはいるようだが特別馴染みのないものがあるわけでもなさそうだった。
「というか、ミコトは大人なのか?」
大は小を兼ねるの精神でとりあえず大人料金でチケットは購入したが。
「女性の年齢を聞くのは失礼だって学校で習わなかった?」
「———記憶にないな」
「そう。じゃ今教えたよ」
そう言うミコトの表情は昨日となんら変わらなかったが、そこにどこか薄暗いものを感じたのはきっと気のせいだろう。というか、ミコトがそういうデリカシーだとか一般常識みたいなものを気にするような性格にも思えない。
「というか、雨の遊園地ってどうなんだ実際。別に大降りってわけでもないけど、こんな雨の中でジェットコースターになんて乗ろうもんなら降りる頃には全身ずぶ濡れだろ」
「降りる時には頭が禿げちゃってるかもね」
「いや、その理屈はおかしい」
ふと、何の気なしに視線を少し先にあった園内の広場に向ける。そこには一本の傘の下で楽しげに談笑している男女の姿があった。パートナーだろうか。
そして次の瞬間、二人の姿は影も残さずかき消えた。最初からそこには存在しなかったように。
隣にいたミコトもそれに気づいたのだろう。横目で見るとどこか複雑そうな表情を浮かべていた。
「あと四日、だったか」
「うん、そうだね」
「会った日にも体感してたけど、こうして間近で見るとさすがに堪えるな」
「そっか」
「なぁ、消えた奴らはどこに行くんだ?」
「どこだろうね。私も知らない」
「外の世界のことは知ってるのに、ここの世界のことは知らないんだな」
「でも、多分どこにも行かないんだと思う。最初から存在しなかった。そういう風に思われるんだよきっと」
「思われる?誰に?」
「さぁ、誰だろうね」
ミコトはゆっくりと視線を空に向ける。その視線の先には灰色の分厚い雲と、天の涙のように降り注ぐ雨しかない。
「選ばれなかった人は辛いけど、選ばなかった人も辛いんだよ」
そう言う彼女の横顔は、明確な憂いを帯びていた。
“最初から存在しなかった”。最初から存在しないのなら、喜びも悲しみも苦しみも痛みもない。それを幸せだと思う自分はおかしいのだろうか。今目の前で消えて言った彼らが、自分は少しだけ羨ましく思えた。
———選ばれた側だって辛いんだよ。
***
「そういえば、ミコトは外の世界でどんな暮らしをしてたんだ?」
「えーと、花売り」
「そうかそうか花売りか。じゃあ好きな花と花言葉を言ってみろ」
「ごめんなさい」
ミコトの一番のお目当てだった観覧車に乗っているとき、俺は彼女にそう聞いてみた。せめて天気が良ければまだ違ったのだろうが、何もない狭い個室で十数分もじっとしているというのは苦痛なのだ。そもそも雨の日に遊園地に来るということ自体ナンセンスかもしれないが、そこは気付かないでいてほしい。
観覧車の窓から見える景色は、高度が高い分遮る建物は少ないが代わりに絶えず雨が程よい強さで窓を打ちつけていて、空には僅かな雲の切れ間も見えない。そんな景色を見ていても気分が落ち込むだけだ。
だが目の前にいるミコトは、そんな曇天の景色すら楽しそうに見つめていた。
「そんなに見てて面白いか?雲と雨しかないのに」
「馴染みのない景色は、基本面白いよ?」
「生きてて楽しそうだなそれは」
「ナギだって、もうすぐ馴染みのない景色たくさん見られるじゃん」
「それはまぁ、少し楽しみではあるけど」
「それと同じだよ」
「そんなもんかね」
「ナギは見知らぬ景色が好きと。メモメモ」
「だから何をメモってるんだよ」
そう言いつつも彼女は一ミリも視線を窓の外から外したりもせず、手を動かしてもいない。
「他に好きなもの、ないの?」
「だからないって」
「ウソ。だって知らない景色を見るのは好きだったじゃない」
「自分のことを一から百まですべて分かってる人間が世界にどのくらいいると思うんだ?」
「自分がどういう人間なのかは、他人が決めるってこと?」
「そこまでは言わないけど、まぁそれもあながち間違いじゃないとは思う。他人の目から見た方がよく分かることだってあるし」
「ふぅん。じゃあきっとナギは自分で思うほどつまらない人間でもないと思うよ」
「なんだよ急に」
「なんだかんだ私のお願い聞いてくれるし、話し方も皮肉っぽいけどなんというかユニークで面白いし、叩けばまだ面白そうな話出てきそうだし」
「とりあえず最後のは犯罪者みたいだからやめてほしいな」
というか、別に自分という人間が周りからどう思われていようが、自分で自分をどう評価していようが関係ない。どう思われていようが自分は自分でしかないし、自分なりの生き方とかポリシーを守れるのなら他人のことなんて割とどうでもいい。
ポジティブでもネガティブでもない。ただそれだけの話なんだ。
「きっと外の世界に行っても上手くやっていけるよ」
「そういえば、外の世界に行った後ってどうなるんだ?やっぱり仕事探しから始めなきゃいけないのか?」
実は気になっていた部分だった。さすがに一昔前のロールプレイングゲームみたいに酒場に行ってスカウトされる、なんてことはないと思うが。
「ん?あぁ、その辺は何も心配いらないと思うよ。基本すべての人の衣食住は保証されるつくりになってるからね、あっちの方は」
「へぇ、こっちの世界みたいに社会保障みたいな制度があるんだな」
「そうだね。でもこっちほど全員が恵まれてるってことはないかも。貧しくて学校に通えないとか就職先が見つからなくて食うに困る、みたいなことはやっぱりあるし」
「そうか、割とシビアなんだなそっちは」
「その分、基本的に頑張った人ほど報われるようにはなってると思う」
「それは俺には向かない世界だな」
そもそも生きるということ自体、そこまで熱心というわけでもないんだから。ここにいる段階で既に。
もう一度だけ窓の外に広がる景色を見る。やっぱり空は灰色のままで、雨水が伝う窓のひんやりとした冷たさは触れた指先だけではなく自分の心の芯まで冷めた気持ちにさせた。
「話を聞いているとなんだか外の世界に行きたくなくなってきたよ」
「決めるのはキミだよ」
ミコトはこともなげにそう言った。
でも少なくとも今の時点で、俺はここでの暮らし以上に外の世界で幸福になれるビジョンが描けていなかった。これっぽっちも。
結局観覧車に乗っている間も、ずっと雨が降り止むことはなかった。
***
「あ、ナギ、あれ食べてみたい」
「ん?」
そろそろ園を出ようかという雰囲気になっていた頃、ミコトが何かを指さしてそう言った。
彼女の視線の先にあったのは、クレープの屋台だった。何の変哲もない。従業員もどうやらまだ消えてはいないようだった。
自分はそもそも外で食事を摂ることがあまりない。これといってグルメというわけでもないし普段の食事にこだわりがあるわけでもない。何が言いたいかというと、クレープを食べたことが一度もないのだ。少なくとも覚えている限りは。
「まぁいいけど」
「やったー。どれにしよう」
「なるべく安いのにしてくれ」
「じゃあこれ!」
そう言ってミコトがメニュー看板の一角を指さした。『プリンセスクレープ』という品名と並んで書かれていた価格は、他の商品よりゼロが一つ多い。明らかに一番値が張るメニューだった。
「太るぞ」
「私そんなの気にしないもん。食べても太らない体質だし」
「そりゃ他の女子が聞いたら妬まれそうな話だ」
「あ、すみません。この『プリンセスクレープ』一つください」
「っておい」
にべもなくミコトは注文を済ませていた。注文を取り下げるのも申し訳なかったので、仕方なく俺は代金を支払う。
数分も経たぬうちに、大きなクレープがミコトに渡された。さっきも言ったようにクレープを自分は食べたことがないが、それでもミコトが受け取ったそれは普通よりも大きいと分かる。
「えへへ、いただきまーす」
屋根のある、雨を気にしなくていい園内の休憩スペースで、ミコトは幸せそうな顔でクレープにかぶりついた。見ていて天晴れと思うほど良い食べっぷりだった。
「美味いか?」
「うん、美味い」
「そりゃよかった」
「ちょっと分けたげようか?」
「いや、いいよ」
「そう、じゃはい。あーん」
「頼むから俺の話を聞いてくれ」
「いいじゃん、こういう恋人っぽいこと、一回やってみたかったんだよ」
「コイビト?パートナーのことか?前にカゾクとも言ってた気がするけど」
「え?あぁ、うん。そんな感じ」
ミコトの表情がにわかに曇ったような気がした。今の空と同じように。
———そういえば、最近夢に見る“あいつ”も、似たような言葉を使ってた気がするな……。
「えいっ」
「むごっ!?」
思案していたところ唐突に何かが口に押し込まれた。力任せに押し付けられたせいで、口の周りにひんやりとしたクリーム状の何かがべっとりと付着する不快な感覚がある。クリーム状の何かというかそれは紛れもなくクリームだったのだが。
思わず口に押し当てられたそれを手に取り、口内に侵入してきたそれの一部を咀嚼する。生クリームとチョコレート、いくつかの果物の味を舌が認識した。
「どう?」
「……美味い」
「でしょ?」
「だが許さん」
「え?あー!」
俺はヤケになって手に取ったクレープを一気に最後まで食べ尽くしてやった。勢いに任せてかぶりついたので少々作法が悪い食べ方だったが、そんなことお構いなしに。
「ご馳走様でした」
「ひどい!私のクレープー!」
「金払ったのは俺なんだし、文句ないだろ?」
「ぶーぶー」
ミコトはそう言って頬を膨らませた。絵に描いたように口を尖らせて。
その仕草がなんだかおかしくて、俺は思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
「ふふふっ」
どういうわけか目の前のミコトも笑い始めた。
「どうしたんだ?」
「だってナギ、それ」
ミコトは指で自分の顔、特に口元のあたりを指さす。つられて自分の口元に人差し指で触れてみたが、そこにはさっきまで食べていたクレープのクリームがべっとりと付着していた。
「もう」
「あっ、おい」
ミコトが人差し指を俺の口元に伸ばし、口の周りについたクリームを綺麗に掬って自分の口に運んだ。
「んっ、美味しいね」
「———そりゃよかった」
「ねぇ、美味しかった?」
「美味かったってさっきも言ったろ」
「よかった。じゃあ好きなもの一つ増えたね」
「何なんだよ本当に」
だが少なくとも、クレープは嫌いではない。初めて食べたが。
ちなみにその後ミコトにねだられ、俺は彼女のためにもう一度同じクレープを買いなおす羽目になった。
--つづく--
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