燦然世界 第1日

 “世界”っていう言葉がある。

 俺にとっての世界は、自分の目に映っている景色のことだった。

 たとえば、朝目が覚めたときに寝ぼけ眼で開けたカーテンの向こうから見える街の景色。

 たとえば、大学の学食に一人で見る、青春を謳歌している連中が楽しそうに笑っている様。

 たとえば、どこまでも広がる青く大きな海。


「私、ミコト。ここの外の世界から来たの」

「………へぇ」


 だから、いつも通り大学へ向かう途中の自販機前で俺の前に現れた彼女がそう言ったとき、俺はどこか嫌悪感にも似た感情を抱いた。


「あっ、いま“何言ってんだこいつ”って顔した!」


 ———当たり前だろうに。


「えーと、キミ、歳いくつ?」

「いくつだと思う?」


 ———質問を質問で返すな。


「———十八、くらいか?」

「正解はね―――ヒミツ!」

「面倒だな……」

「聞こえてますけど?」


 彼女は少しムッとした表情を浮かべた。彼女以上に俺の方が苛立っていたのだが、幸か不幸か顔には出ていなかったらしい。もしくは彼女が人の機微に鈍感すぎるだけなのかもしれないが、まぁどうでもいい。

 この通り、ミコトと名乗った彼女に対する俺の第一印象は、決して良いものではなかった。ゆえに俺はさっさと彼女に背を向けて学生らしく大学への通学に戻ろうとしたのだが。


「ねぇ、いいこと教えてあげようか!」

「なんだ、今日はスーパーの特売日だったか?俺の記憶だと週末だった気がするけど」

「あ、惜しいかも。奇跡的に」


 正直適当に返した言葉だっただけに、その返答は少し俺の予想を外れていた。

 だからだろうか、俺はもう一度だけ彼女の方を振り向いてしまう。


「あと七日で、この世界は終わるよ」


 ミコトは、まるで誕生日を祝うかのような屈託のない笑みを湛えていた。

 直後、“週末”と“終末”をかけていることに気付いた俺は、さらに苛立ちを募らせることになった。


***


 名前、ナギ。

 身長、百七十五センチ。

 体重、確か六十五キロ。

 趣味は、強いて言えば車でドライブ。

 特技、なし。

 長所、なし。

 外見特徴、なし。

 つまり、どこにでもいるヤツ。

 自分が特別ではないと自覚するというのはとても大切なことだ。自分を知るところから人生は始まると思う。さっき長所はないと言ったが、強いて言えば分を弁えているということは自負している。

 自分は人様に褒められるようなできた人間じゃない。ましてヒーローでもない。白馬の王子様でもない。むしろそういう面倒な役回りはこっちから願い下げだ。

 何が言いたいかというと、俺は静かに暮らしたい。

 面倒事を極力避けて自分の人生をやり過ごすこと。それが俺が導き出した、俺に合う生き方だった。

 なのに。


「ねぇ、ナギ。私と一緒に外の世界に行こうよ」

「………」

「あー。そうやって無視しちゃうんだ。可愛い女の子がこんなに熱心に声かけてるのになー。傷ついちゃうなー。他の人と行こうかなー」


 ———是非そうしてくれ。


 俺は絶賛、どういうわけか完全に初対面のミコトという外敵に付きまとわれていた。背後からついてくる彼女の顔を見ず、話しかけてくる彼女の声に耳を貸さず、俺は足元に注意しつついつも通り通学路を歩くようにしている。なにか聞こえる気がするのはきっと道沿いに建っている家で男女が朝食のメニューが云々で揉めている声だろう。食べ物絡みの喧嘩ほど微笑ましいものもない。可愛いものだ。


 ———というか、自分で自分を可愛いとか言うな。


「ナーギー!」

「ったた!」


 しびれを切らしたのか、ミコトは俺が背中にかけていた肩掛け鞄を引っ張ってきた。当然、俺の歩行は阻害される。そこで漸く俺はミコトの方を振り向いた。


「しつこいぞ」

「あ、やっとこっち見てくれた」

「世界の終りだか外の世界だか知らないが、俺はそんなものに興味ない」

「どうして?自分のいる世界が終わっちゃうんだよ?もっとこう、危機感とか持たない?」

「逆に聞くけど、キミは自分がいま言っていることを素直に他人に信じてもらえると本気で思ってるのか?」

「え、うん」


 ———こいつ、おつむが弱いのか?


「医者に行け」

「私、嘘なんか言ってないよ?」

「自覚がないなら尚更だ」

「本当なんだってば。あと七日でここは終わっちゃうの」

「じゃあ聞くが、具体的にどうやって終わるんだ?」


 俺はほとんど惰性で聞いてみた。どんな答えが返ってこようが、それで彼女の言葉を信じる気にはならないだろうという確信的な予感があったにも関わらず。


「んっとね、まずこの世界にいる人が次々と消えていくよ」

「ほう」

「そのあと、今見えている景色もだんだん曖昧になって」

「ふむ」

「最後は私と、ナギだけが残る」

「そうか、それは良かった。世界が終わっても俺は終わらないわけだ」


 やはり頭のおかしい女だ。これ以上話を聞く価値はないと判断した俺は、彼女の手を振り切って再び歩きはじめる。


「本当だからね!ナギ、私、君のこと待ってるから!」


 ———待ってる?何をだ。


 彼女はそれっきりこちらを追うのを諦めたらしく、俺はいつも通り静かな自分の世界に浸りながら学校への道を急いだ。

 世界の終りと、外の世界。懐かしい響きだった。


***


 この世界の人口は約一億ほど。俺を含むその一億ほどの人の群れは、周りを海に囲まれたこの大きな島国で生活している。

 それがこの世界の全て。他には何もない。

 正確に言えば、他に何があるかは分かっていない。島の外に広がる海の向こう、その果てに何があるのかを確かめた者はいない。いたとしても、いつの間にかここに戻ってきてしまうからだ。原理は不明だが、とにかく確かだったのは、この島国の外へ出ることはできないということ。それは暗に、“お前たちはここにいろ”と神に命じられているような気分だった。

 俺たちは、ここに閉じ込められている。

 でも、少なくとも俺は、ここでの生活に満足している。贅沢な暮らしができているわけではないが生きるのに困ることはない。

 たとえば、車や電車があれば島内は大概どこにでもいける。

 たとえば、離れた相手とだって電話や携帯があれば普通に会話ができる。

 たとえば、望む者には教育の場を与え、どんな個性を持った人間にも仕事が与えられる。

 たとえば、俺みたいな人間でも一人で生きていける。

 この世界は、完成されていた。


「………」


 いつも通りの大学の学食。全体的にメニューの値段がリーズナブルで味もまあまあと、学生達の人気も上々。学食はここだけじゃなくて他にもあと三つほどあるが、ちょっとした学校の体育館並みに広く、座席も多いここの学食が一番人気なのは自明の理というものだろう。

 今日も俺はから揚げ定食(税込三百円)を注文し、若者たちの喧騒から少し離れた窓際の席で静かに昼食をとっていた。箸を手に取る前におしぼりで手を拭くのと同じ感覚で、俺は携帯から伸びるイヤホンを耳に装着する。イヤホンを発明した人は天才だと思う。これを着けていれば余計な雑音は入ってこないし、周りにいる人から話しかけられる割合もぐんと減る。朝の通学中は車の環境音が聞こえないと危ないのでなるべく使わないようにしていたのだが、今朝のミコトとかいう女の件があった以上、明日からは通学中もイヤホンをつけることを検討すべきかもしれない。無論、音楽はかけずに。

 

 ———あと七日で、この世界は終わるよ。

 ———私と一緒に外の世界に行こうよ。


 世界の終り。外の世界。

 前者はともかくとして、後者の外の世界については俺も考えたことがないわけじゃない。多感だった時期は外の世界に夢を見ていたときもある。たとえば、この世界の外にはどこまでも続く草原と、雄大な山々、青い空がどこまでも広がっていて、自分のほかには誰もいない。石も草も土地もすべてが自分だけのもの。自分だけの世界がある。そんな妄想をしていたっけ。


 ———まぁ、もうそんなものを信じるような歳でもないけど。


 いつも通り、から揚げはまあまあ美味しかった。

 食事を終えて学食を出る時、どういうわけかいつもより学生達がいなくなるのが早いような気がしたが、多分三限目がテストとかそんなところだろう。


***


 コンビニは好きだ。とりあえず食べ物は手に入るし、雑誌も読める。公共料金も支払える。創作の世界だと「何でも屋」だとか「よろず屋」っていう店が都合のいい存在として登場しがちだが、コンビニエンスストアというのは現代の何でも屋だと個人的には思う。

 普段自分が大学帰りによく通っているこのコンビニチェーンは、特にから揚げ棒が美味い。この前ニュースでもうすぐ生産終了が報じられたが、それを誰よりも悲しんだのが誰かは言うまでもなく。せめてこの店の在庫が残っているうちは、後顧の憂いを残さないためにとこうしてほぼ毎日足を運んではから揚げ棒を買いに来ているわけなのだが。


「あのー、すみませーん。………店員さん、誰かいませんか?」


 どういうわけか、今日は店員が誰もいなかった。コンビニと言えば二十四時間営業が常識と化しているし、その常識に漏れずこの店だって二十四時間シフトを入れ替えながら昼も夜も休むことなく営業しているはずなのに。

 念のため普段店員が出入りしている事務所と思しき扉にも声をかけてみたが、依然変わらず人の気配はない。


「………不用心だな」


 今はたまたま客が自分しかいないからいいようなものの、これじゃあ店の中の商品は盗み放題じゃないか。無論監視カメラは動いているだろうから足はつくが。それとも、無人レジの試験運用でも始めたのだろうか。


 ———まぁ、今日くらいはいいか。


 俺は今日の分のから揚げ棒を諦め、そのまま店を出た。


***


「………」


 静かな夕暮れ時。いつも通りの家路だが、いつも通りではない。


「———静かすぎる」


 いつもは沢山の自動車が行き交っている町の通りに、今は車はおろか自転車の一台も走っていない。確か今歩いている道は近所にある小学校の通学路でもあったはずだし、いつものこの時間は子供たちがワイワイ騒ぎながら下校していたはずだ。それが今は、歩道を歩いているのは自分だけ。進行方向にも、ここまで辿ってきた道を振り返っても、人っ子一人姿が見えない。

 近場に目をやると、いつも自分が食材を買い込んでいるスーパーが見えた。結構大きな店で、このあたりに住んでいる人たちはだいたいここで食材を買うから常に賑わっている。

 駐車場には、いつも通りそれなりの数の車が止まっている。それはいつも通り。

 不意に、今朝出会った少女が言っていたことを思い出す。


 ———んっとね、まずこの世界にいる人が次々と消えていくよ。


「………まさかな」


 俺はにわかに高鳴る自分の胸を押さえながら、慣れ親しんだスーパーの自動ドアをくぐる。

 でも俺の期待を嘲笑うように、俺の視界に映ったものは、残酷なまでに真実を映し出していた。


「———誰もいない」


 客だけでなく、顔見知りの店員まで。店内は明かりが点いていて、いつもと同じ陽気な音楽がどこかのスピーカーから流れているのに。人だけが狙いすましたように消えている。


 ———どうなってるんだ。

 ———まさか、本当に?

 ———いや、そんなはず……。

 ———確かめる必要がある。


 世界の終り。そんなことあるはずがない。そう変わらず信じつつも、それが絶対的な世界の真実だと確かめるため、俺はもう一度あの不愉快な少女を探した。


***


「あっ、ナギー!」


 彼女は思いのほかあっさりと見つかった。茶髪のロープ編みポニーテールは思いのほか外で見ると目立つ。単純にいま外に人がいないからかもしれないが。

 彼女は今朝出会ったのと同じ場所にいた。街の人たちが消えるという明らかな異常現象が起こっているにも関わらず、自称外の世界から来た少女はまるで学校帰りに遊ぶ約束をした友人を見つけた子供のように嬉しそうな顔をしている。そのことが、俺を僅かながら恐怖させた。


「あぁ、ミコト、だったか」

「そうだよ。今朝会ったばかりなのにもう忘れちゃった?」

「むしろ今朝会ったばかりだから忘れるんだ」

「ひどーい、傷つくなぁ」


 そう言いつつも彼女は少しもそんな素振りを見せない。むしろ悪戯っぽく笑っている。からかっているのだ、自分を。


「そんなことよりも、キミに聞きたいことがある」

「うん、なに?」

「これは、どういうことなんだ?」

「?質問の意味が分からないんだけど」

「町の人たちの姿が見えない。今朝キミが言っていた“世界の終り”とやらと、何か関係があるんじゃないのか?」


 とぼけた表情のミコトに、俺はやや苛立ちながらそう問いただした。


「うん、だから言ったでしょ。この世界はもうすぐ終わるって」

「———俺の顔面を殴ってみてくれ」

「なにいきなり?もしかしてナギってマゾなの?」


 俺は自分で自分の頬を軽く叩いてみた。

 痛い。どうやら夢の類ではないらしい。

 であるなら、この状況は———。


「———本当なのか」

「そう、だから何度も言ってるじゃない。この世界はあと七日で終わるの。そして私は、キミをここから外の世界に連れていくためにやって来た」

「俺を?どうしてだ?」


 俺と彼女は今日が初対面だ。過去に出会った人の中にも当然彼女の顔は記憶にない。

 なのに、どうして俺なんだ?

 ミコトはまるで子供をあやすような優しい笑みを浮かべ、顔の近くで人差し指を立てて言った。


「奇跡だよ」

「え?」

「私とキミが出会ったのは、奇跡。そしてキミが外の世界に行くことも、ね」


 意味が分からなかった。

 ただ、“奇跡”というその言葉は、不思議と俺の心を震わせた。


--つづく--

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