へび
大塚
第1話
死んだ父は彫り師だった。彫はなという名を曽祖父の代から守る、手彫りを専門とする彫り師だった。上客はヤクザが多かった。母は俺と弟が小学生の時に出て行った。俺には父の跡を継ぐつもりはなかった。
父が死んで、作業場兼自宅だったやたらと横に広く庭もでかい日本家屋を土地ごと売り払い、俺は仕事の関係で神戸にマンションを買って引っ越し、弟はアメリカ村、通称アメ村の雑居ビルの5階にタトゥースタジオを構えた。彫はなの名は令和の世に残ってしまった。俺はそんな名前、消え去ってほしかった。
「べつに親父のためとちゃうし」
双子の弟はそう嘯いて黒いマスクを外し、煙草を咥えて火を点ける。ゴリゴリのツーブロック、金髪、両耳にでかいピアス、痩せぎすの体に極度の猫背、柄シャツの袖を捲れば素肌の色が分からないほどに無数の絵文様が踊っており、俺とこいつは本当にきょうだいなのだろうか、それも双子? 信じられない。信じたくない。そんな気持ちになる。
「俺がやりたくてやっとんねん。にいちゃんもそうやろ? 自分がそうしたくて神戸に移住したんやろ?」
非喫煙者、一度も染めたことのない黒髪、毎週ジムに通ってそれなりに鍛えてある体には子どもの頃に転んで作った傷跡ぐらいしかなく、オフの日以外はスーツにネクタイで日々勤労に精を出す。それが俺だ。弟とはまるで違う。
「それよかにいちゃん、なんでこんなとこ来たん。誰か死んだんか」
「人が死んだ時にしか連絡したらあかんのか。……山田さんから電話があったんや」
「えっ」
煙草を灰皿に押し込み、弟が勢い良く立ち上がる。椅子は、妙にいいやつを使っているのだなと思った。腰や背中に負担がかからないやつ。それなりに高値のやつ。
「山田さん!?
そう言うと思った。ぐいぐいと迫ってくる弟を両手で制し、
「来週、墓参りさせてほしいて言うてきたわ。おまえも」
「会いたい! 来週? 日曜日? 臨時休業のお知らせ出さなあかんわ〜!!」
壁に掛かった妙に黄ばんだカレンダーをいかついシルバーの指輪が嵌まった人差し指でトントンと叩きながら弟が笑う。
山田徹はヤクザだ。父の最後の客となった、ヤクザだ。
山田徹と彫はなこと俺と弟の父、
弟、
翌週の日曜日、秋晴れの良い天気の昼下がり、山田徹は舎弟と思しき若い男が運転するクルマで神戸の俺の自宅を訪れた。父の墓は大阪ではなく兵庫県にある。兵庫県西宮市。彫はなはそもそも兵庫で活動を始めた彫り師であったと聞く。墓参りをするなら大阪で合流するよりも我が家に来てもらった方が早かった。仏壇も、うちにあるし。
「山田さん! 久しぶりやぁ!」
「お久しぶりです、山田さん」
「どうも。何年ぶりかな。ふたりとも元気そうで何より」
若い男をクルマに残したままでぬるりと俺たちの前に立った山田には、左腕がなかった。赤と黒をベースにした訳の分からない派手な柄のバンドカラーシャツにグレーのジャケットを引っ掛けた山田の左腕は、目で見て分かるほどに肩から下がスカスカだった。
「腕どないしたんですか!?」
すぐ聞く。佰にはデリカシーというものがないのか。山田はくちびるの端を笑みの形に少し歪めて、
「抗争でしくって、罰」
「ほんまに!?」
「嘘」
苛々する。なんでこのふたりはこんな、昨日も顔を合わせた友だちと喋るようなテンションで言葉を交わしているのだ。俺は大きく咳払いをして、
「墓参りからでいいですか?」
「……うん。
「はあ」
父の骨が納められている墓地までは俺のクルマで行くことになった。助手席の佰がずっと後ろを向いて喋りまくっていて鬱陶しいので、途中見かけたコンビニでクルマを止めて山田の隣に移動してもらった。移動させても後部座席が騒々しくなっただけで、俺のストレスは少しも軽くならなかったのだが。
「俺いまアメ村で彫り師しとって……」
「へえ」
「来てくださいよ。明日とか」
「明日か。いいよ」
「やった! あ、今日の夜はどないするんです? ホテルとか?」
「決めてない」
「そんなら……」
「うちに泊まってってください。仏壇、うちにありますんで」
そこで初めて口を挟んだ。佰、うるさい。バックミラーに映る弟は両の目を大きく瞬かせて、せやな、にいちゃん家広いしな、と笑った。
ヘラヘラ笑いやがって。ヤクザも弟も大嫌いだ。
墓参りをつつがなく終え、神戸にとんぼ返りして飯を食った。店は佰が予約していた。生前父が好んで通っていたおでん屋だという。店に駐車場がないからと、一旦クルマを置いて自宅の最寄駅から電車に乗って行った。
「懐かしいな、まだあったのかこの店」
「おやっさんから2代目に代わってしもたんですけどね。でも味は変わってへんから安心してください!」
「そりゃ楽しみ。おやっさんは完全に隠居しちゃってるの?」
「今日は山田さんが来るからーて伝えたら店に顔出すーて言うてましたよ、2代目が」
「嬉しいねえ」
俺はこんな店の存在すら知らなかった。
おでんは美味かった。2代目の店主も、山田に会うためにわざわざ駆け付けた先代のおやっさんも良い人たちだった。彼らは佰だけでなく俺のことも知っていた。父から聞いたのだろう。山田の運転手を務めていた若者も黙々とおでんを食っていた。支払いはすべて山田が持った。佰は、見た目のわりに下戸の佰は終電に乗って大阪に帰って行った。明日絶対来てくださいねと山田に念を押し、連絡先を交換していた。そういえば俺の携帯にかかってきた電話は03から始まる見知らぬ番号で、取引先の誰かだろうかと思って出たら山田だったのだ。あれは山田の……ヤクザの事務所の番号だったのだろうか。ヤクザの事務所も固定番号を持つことはできるのだろうか。
山田は運転手を務めた若者を呼び付けふところから財布を取り出し、枚数を数えもせずに掴み出した諭吉を手渡すと、
「10時に戻れ」
とだけ命じた。若者はありあとやすっと元気に返事をし、佰が使ったのとは別の路線の終電に飛び乗り夜の街に消えて行った。どこで遊ぶかはもう決めてあるのだろう。
山田と並んで帰路を行く。背の高い男だ。彼に初めて会ったのは、俺たちが小学生の頃だ。彼はその頃から背が高く、彫りの深い顔立ちが美しく、低く囁くような声音が奇妙に色っぽい男だった。それでいて新しい客と見ればすぐに遊びに誘う佰に付き合って庭でキャッチボールをするような気安さも持ち合わせていて、俺には彼が良く分からなかった。
自宅。山田を仏間に通す。ひとりで住むには些か広い家の中で唯一の和室。父の仏壇だけがぽつりと置かれている。山田は神妙な面持ちで手を合わせ、ほんとに死んじまったんだなぁ、とほとんど無意識みたいに呟いていた。
「何年前だっけ」
「……7年、です」
「俺逮捕されてたな」
「そうでしたね」
父は病を患っていた。きちんと治療すれば治るたぐいの病気だったが、彼は『きちんと治療する』ことを頑なに厭うた。日に日に窶れ壊れていく体を引きずるようにして、父は客の体に鑿を突き刺し続けた。
やがて父は倒れ、入院から10日と持たずに帰らぬ人となった。彼の最後の言葉を、俺は今も忘れられない。
「山田さん」
「ん」
「今日、ほんまに泊まってくんですか」
「ここで寝るよ。六月さんと久しぶりにゆっくり話がしてえ」
六月さん。
頭に血が昇る。昼間ずっと我慢していた分すべてが爆発しそうになる。山田の目の前で仏壇をめちゃくちゃに壊してやりたくなる。黒檀の欠片でこのヤクザの喉笛を掻っ切ってやれれば、どれほど気分が良いだろう。
なんでおまえが。なんでおまえが生きてて父が。なんでおまえが。なんでおまえがここにいるのに母は。なんで。なんで、なんでや、山田徹、おまえ、おまえなんか。
「……山田さん」
蓋をしていた記憶の箱がぶっ壊れてる。20年前。20代の山田。3ヶ月に一度、いやもっと短いかもしれない、そんなペースで我が家に通い詰めていた男。佰は懐いていた。馬鹿だから。母も初めは笑顔で受け入れていた。でも母は聡いからすぐに気付いた。母が家を出て行っても父はなにも言わなかった。それから俺も気付いた。俺は父より母に似ていたから。双子だけど、佰は父に、俺は母に良く似ていた。だから。
20代の初めの頃に山田は一回逮捕されてる。それから30代になる前に出所して、うちを訪ねて来てる。当時もう母はいなかった。どうして? その理由を俺はその日のうちに知ることになる。
「父と、付き合うてたんですか」
山田の形の良い眉がぴくりと動く。切長の三白眼がじっと俺を見つめ、それから昼間と同じようにくちびるをーーいや、ちがう。昼間とはまるでちがう表情だ。これは、この人は、いま、俺を、
「覗き小僧が、今更何を知りたいっていうんだ?」
山田が来る時は絶対に仕事場に近付いてはいけないと言い含められていた。父にも母にも言われていた。佰はそれをかたく守っていた。約束を破ったのは俺だ。だって母が出て行ってしまったから。俺を抱き締めて「あんな風にはならないで」とだけ言い残していなくなってしまったから。謎を解く鍵は父の作業場にあると思っていたんだ。山田が来ている時の父の作業場。
薄く開いた杢板の引き戸。40代の父と30代手前の山田。左腕はまだあった。あんなに呪われた交わりがあるなんて想像したことすらなかった。新たな筋彫りを済ませたばかりと思しき山田が、慈悲深い表情を浮かべた天女様を背負った父を組み敷いているーー
その後すぐ山田は東京で再逮捕され、我が家に姿を現さなくなった。父も、俺も、佰も、山田の話をすることはなかった。
翌日山田は俺が目を覚ますより先に家を出て行き、アメ村で佰のスタジオを訪ね、佰の行きつけのバーで朝まで飲み、それから東京に帰って行ったのだという。翌週末、俺は再び佰のもとを訪れていた。
「山田さん、ここ、右手のここんとこに兎のワンポイント入れて帰らはったわ」
「あんなぁ、佰……」
「ああ、やめてにいちゃん。聞きたない」
仕事道具を片付けながら、佰が俺の言葉を遮った。滅多にない事態だった。常に饒舌でテンションが高い佰は他人に話をするのも聞くのも大好きだ。それなのに。
「なんで」
「なんでも、や」
「佰おまえ」
「俺責められるようなことしてへんで。山田さんも」
「それは違うやろ。あの人は……あの人のせいで……」
「それが違うて言うとんねん。山田さんのせい? ちゃうよ。にいちゃん、あの日俺が止めたの聞かんで親父の部屋覗いたやろ。俺は行ったらあかんて言うたのに」
「……、」
言ったのか。止めたのか。佰が俺を? もう何も分からない。覚えていない。俺は、俺たち家族が壊れたのは山田のせいだと思っていた。あの男が俺たちの父親に手を出したから。あのヤクザが。あの淫蕩で性悪な美しい顔の男が。あいつが。あいつさえいなければ。
「……蛇」
父の最後の言葉を、遺言を思い出す。
「左腕の蛇、仕上げてやれんですまんかったな」
それは今際の際に立ち合う誰に向けた言葉でもなかった。父は山田を見ていた。息を引き取るその瞬間まで、父は山田徹のことを考えていた。
「左腕はのうなってしもうた、勿体ないことした、て笑ってはったわ、山田さん」
煙草のフィルターを落ち着きなく噛みながら佰は唸った。
「もうええやろにいちゃん。もうやめよ。山田さんはもうけえへんよ。別に誰も悪くないんや」
馬鹿でいい加減な弟にこんなふうに言われる日がくるなんて。俺ももうけえへんよと言い置いてスタジオを出た。俺と入れ違うようにひとりの男性が部屋の中に入って行った。佰は仕事道具を片付けていたのに、これから客が来るなんてことあるんだろうか。いや、別にどうでもいいか。
おまえがされたいことをしてやるよと言って山田徹はあの夜俺を犯した。俺がされたいことだったから犯したなんて言い方は良くないかもしれないけれど、合意であってはいけなかった。山田は俺の服を乱暴に剥ぎ取り、一度も男に抱かれたことのない体を好きに弄んだ。片腕しかなくても山田は力が強く、反射的に抗う真似をしてみたものの何の意味もなかった。口淫を強いられて思わず胃の中のものを吐き戻した俺の口の端を指先で拭い、六月さんもそうだったよと囁いた。口だけはどうしても慣れなくてな、いつも吐いててかわいそうだった。でもあの人もそうされたかったんだ。千佳、いいことを教えてやる。俺は関西弁の男が好きなんだ。それだけだ。六月さんとはそれだけの仲だ。これでいいな。これでおまえも六月さんとおなじになれる。満足か?
満足だった。
あの日。父と山田の睦み合う姿を覗き見たあの日。俺はたしかに父と視線を交わしていた。
どうして今まで忘れていたのだろう。
完成しなかった左腕の蛇のことを思う。左腕ごと失った山田徹という男。もしかしたら捨ててしまったのかもしれないと思う。そういう男だ、あれは。
父も、弟も、山田も、やっぱり大嫌いだ。
へび 大塚 @bnnnnnz
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