それでも世は廻る③
どういうわけか今日から四日間、実験は行われないらしい。
それゆえか、アルフェリカの身柄は牢獄同然の実験室から本物の牢獄に移されていた。窓のない独房で鎖に繋がれ、囚われの身であることに変わりはない。
違う点といえば、壁の一つがガラス張りであることくらい。ガラスの向こう側には通路が伸びており、同じ間取りの独房がいくつも続いている。
その中にはきっと自分と同じように囚われている転生体たちがいるのだろう。
首輪をつけられ、鎖で繋がれ、中が見える独房に入れられる。
まるでペットショップのショーケースだ。
対面側の独房では少女が膝を抱え蹲っていた。表情は見えないが、今の境遇に明るい顔を浮かべているということはないだろう。
彼女の身体ほとんど全部が神名に覆われている。体表に表れている時点で敵性神を宿していることは明らか。明滅を繰り返す刻印は転生体としての末期を示している。
同情は禁じえない。だけど囚われている自分にしてあげられることはない。
無力感に反抗するように、目の前のガラスを力一杯殴りつけた。
鈍い痛み。拳の皮がずり剥けて血が付着しただけ。割れるどころかヒビすら入らない。
転生体を捕らえる部屋にただのガラスを使うはずもないか。加えて今は〝断罪の女神〟の力も使えない。
それでも帰りたいところがある。戻りたいところがある。ガラスが割れれば逃げ出せる。可能性があるなら、これくらいの痛みなんてどうってことはない。
アルフェリカはガラスを殴りつける。何度も何度も。血が出ることなんて構わない。拳が砕けることなんて厭わない。
殴りつける度に血が飛び散り、ガラスがどんどん赤く染まっていく。もはや痛みもない。
「あの……もうやめたほうが……」
不意に聞こえてきた声。出所を探すと向かいの独房にいる少女と目が合って、思わず手が止まった。
十五くらいの少女。青味がかった黒髪の奥で、黒い瞳が痛ましげに揺れている。
「それは術式が刻まれた強化ガラスですから、素手で壊すことはできません」
「詳しいのね」
「もう五年もここにいますから」
つまりそれだけの日々、苦痛に耐えてきたということだ。
力なく笑う少女に集中が切れてしまった。思い出したかのように手が痛み出す。
「大変、早く手当てしないと。誰か人を……」
「いいわよ。放っておけば治るから」
〝断罪の女神〟の治癒能力。この能力は首輪の影響を受けないらしい。すでに血は止まっており、
「あの……もしかして、アルフェリカ=オリュンシアさんではありませんか?」
「ええ、そうだけど」
名を知られていることを不思議に思いながら肯定すると、少女は申し訳さそうな顔をした。
「私は……セレス=カロライナと言います」
カロライナ。
頭に血が昇っていくのが自分でもわかった。
自分がこんな目に遭っている原因を作った
「アーガム=カロライナの妹です。貴女のことは、兄から少し聞いていました」
嘘はない。そうとわかった途端、身体が勝手に動いた。少女を殴りつけようとした拳がガラスと衝突して、ゴシャリ、と痛ましい音を立てる。
「……許さない」
あの男のせいで、やっと手に入れたと思った平穏を奪われた。
こんな場所に連れてこられて、痛めつけられ、苦しめられている。悪夢のような日々を押しつけられて、ただ耐え忍ぶことを強いられている。
あの男さえ。あの男さえいなければ、自分はまだ輝の隣で、彼のために力を尽くすことができていたはずなのに。
「アーガムのせいであたしはまたこんな地獄に連れ戻された! やっと居場所を、生き甲斐を見つけたのに、また奪われた!」
転生体というだけで怖がられて傷つけられて裏切られる。普通に暮らしたいという願いすら踏み躙られる。
そんな怒りも憎しみも抑えているのに、人間は勝手な都合で
「貴女のお怒りはもっともです。本当に、ごめんなさい」
謝罪など何になる。奪われたモノは何一つとして戻ってこない。
「……ここを出たらアーガムを殺すわ。あたしは絶対にあいつを許さない」
「それは……」
「キミもアーガムのせいでここにいるんじゃないの? 実の妹すら実験体として差し出すんだもの。赤の他人である転生体なんて、気にも留めないでしょうね」
実の妹であるセレスがここにいることがなによりの証拠だ。
「に、兄さんはそんな人じゃありません!」
響き渡る否定。
「私がここにいるのは私の意思です。兄さんは私を助けるために、神名の侵食を抑える研究を行っています。ここの設備を利用する代わりに、私から『魔導連合』に申し入れて実験に協力しているんです!」
必死に兄を擁護するセレスの言葉にはカケラも嘘が含まれていなかった。
「……神名の侵食を抑えるって、もうほとんど侵食されているじゃない」
神名の侵食を抑える研究? それが簡単に実現できるなら誰も苦労しない。
『魔導連合』の実験では神の力を使わされる場合もある。自分の場合はエクセキュアが好意的だったから侵食は免れていたが、敵性神を宿している転生体はそうはいかない。
その研究とやらがどこまで実現できているのか知らないが、時間はもう残されていない。
「兄さんは間に合わせてくれます」
確信に満ちた言葉。必ずやり遂げてくれるとアーガムのことを信頼しきっている。
それは自分が輝に対して抱いているものに近しい。
「それでも、あいつがどんなに妹想いだったとしても、あたしはあいつを許さない。報いは必ず受けてもらう」
「兄が貴女にした仕打ち、許されるものではないことは理解しています。ですからせめて兄の代わりに私を、貴女の気の済むようにしてください。兄と私の命以外の私の全てを、貴女に差し出します」
「いい覚悟ね」
「兄に手を汚させているのは私です。全ての責任は私が背負うもので、裁かれるべきは私です」
今度もやはり嘘はなく、本気だということはわかる。
――少なくとも今は。
「じゃあ、まずは手足の爪を剥いで指を砕くわ。次に四肢の骨を折る。その後で全部の歯を折って、耳と鼻を削いで顔の皮を剥ぐ。最後にその両目を抉り取るわ。それに耐えられたなら、あたしはキミたちを許す。どう?」
思いつく限りの肉体の損壊。
アルフェリカが口にしたことにセレスの顔がみるみる青ざめていった。
「……それで、貴女の気が晴れるなら」
恐怖はあれど嘘はない。
「本気なのね」
ならば外に出られたとき、もう一度試させてもらおう。
「ならそのときまで我慢してあげる」
言いながら、いつかイリスに言ったことを思い出した。
復讐の連鎖を断つために憎しみを我慢すると、共存のために転生体のお手本になってあげると、自分は確かにそう口にした。
嘘を嫌う自分が、自分の言葉を嘘にするなどあってはならない。
それでは今まで迫害してきた人間と同じだ。
「いいえ、ずっと我慢してあげる」
だから前言を撤回した。
人間と共存できる転生体として振る舞う。感情に任せて他者を傷つける転生体にはならない。
「ここを出たらアーガムを一発殴らせてもらうわ。それで一応はこの件はおしまいにしてあげる。それでいいわね?」
それくらいはさせてもらう。確認はしたが有無を言わせるつもりはない。
セレスはかすかに微笑んで――。
「……ありがとう、ございます」
「そんなことを言われる筋合いはないわね」
「兄から聞きました。私たちの都合で貴女から日常を奪ったと。貴女は私たちを恨む理由があります。なのに貴女は私に何もせずにいてくれます。だから、ありがとうございます」
「あたしが恨むのはアーガムであってキミじゃない。それだけのことよ」
「いえ、兄にそうさせている原因は私にあります。貴女に恨まれるべきはやっぱり私です」
「……譲らないわね」
「あ、ごめんなさい」
言ったところで詮無いこと。
セレスも自分も助けが来てくれると信じていることは同じ。
その希望がある限り、お互い決して諦めることはない。
ふとセレスの声が聞き覚えがあることに気がついた。
「キミ、昨日の実験で叫んでた子? 絶対に諦めないって」
「き、聞いてたんですかっ!?」
セレスは顔を真っ赤にした。やはり隣の実験室から聞こえてきた声は彼女のものだったらしい。
「聞こえたのよ。兄――アーガムが助けに来てくれるから絶対に諦めないって」
「はううぅ……そうやって聞かされると、なんだかとっても恥ずかしいです……」
「あたしはそれに勇気をもらった」
心が折れそうになっていたとき、輝がしてくれた約束を思い出すことができた。
輝は絶対に裏切らない。必ず助けに来てくれる。そのことを思い出しただけで心を強く保つことができた。
「そうね、アーガムのことは許さないけど、キミには感謝してるかもしれないわ。あたしも信じている人がいるの。彼は絶対にあたしを助けてくれる。だからそれまで諦めない」
「よかった……」
アルフェリカがそう言うとセレスはホッと胸を撫で下ろした。
「昨日、アルフェリカさんの悲鳴……声が途中で聞こえなくなったから心配だったんです。ここにはその、耐えかねて心が壊れてしまう人も、たくさんいるので」
「……そうね」
むしろ壊れた方が楽になれるのではないかと考えたことは数えきれない。
正気を保っていられるのは、きっと諦めきれなかったからだろう。いま思えばエクセキュアの存在も、なんだかんだ支えになっていたのかもしれない。
「実はアルフェリカさんに兄からの伝言を預かっているんです。もし貴女と話す機会があったら、そのときに伝えてほしいって。聞いてくれますか」
「……なに?」
知らず不機嫌な声になったのは仕方ない。今更あいつが自分に何を言うというのだ。
「黒神輝さんが貴女を助けに『ソーサラーガーデン』に来ている、と」
だがそれは待ち侘びていたことだった。
輝が来てくれることは信じていた。しかしそれはいつになるかはわからなかった。いつまで耐えていなければならないのかという不安は拭えずにいた。
セレスは嘘をついていない。
しかし〝断罪の女神〟の力でも、本人がそれを本当だと信じていれば嘘と見抜くことはできない。アーガムがセレスに嘘を吹き込んで伝えてきている可能性は否定できない。
けれど、それでも、アルフェリカが希望を抱くには十分だった。
「その方のこと、信じているんですね」
「もちろんよ」
自分の大切なモノを犠牲にしてまで、味方をしてくれた初めての人なのだから。
そんな彼が近くまで来てくれている。
もうすぐ悪夢が終わる。
「まー、近くに来ているからって、アンタに辿り着けるかどうかは別問題だけどな」
いきなり第三者の声が割り込んできた。『魔導連合』に囚われている他の転生体かとも思ったが、声がするのはアルフェリカがいる独房の中から。
「ヘッヘッヘ、ここだここ。足元みろっての」
視線を落とすとそこにあるのは自分の影。だが絵の具をそのまま落としたような赤い目がこちらを見上げていた。
「どもー、低いとこから失礼。今日から数日、この独房で過ごす
悍ましさを感じて反射的に後ずさった。しかし赤い目を浮かべた影はアルフェリカが移動した分だけついてくる。
「相変わらず悪趣味な魔術ですね、シャドウさん」
「妹ちゃんにもそう言われるとはねー。やっぱり兄妹だなー」
「貴方のような男性は、私たちじゃなくてもそう言いますよ」
「自分に正直なだけだってのに、そりゃひでぇ話だ」
話をしている隙にアルフェリカが赤い目を踏みつけようとしたが、足に伝わってくるのは床の固い感触だけ。影の中を泳ぐように移動する目を捉えることはできなかった。
「あぶねーあぶねー。目を踏まれるのは流石に痛いぜ。しっかしこの眺めはいいなーヘッヘッヘ」
足元の赤目がいやらしく細まる。舐め回すような視線にアルフェリカは両手で身体を隠した。
その仕草が余計にシャドウを喜ばせたらしい。下卑た笑い声が響く。
「隅々まで拝ませてもらったが、そうやって恥じらう顔もいいねぇ。あーあー早く実験終わってくんねーかなぁ。このまま生殺しっていうのは辛いもんだぜ」
「……最低」
ずっと見られていたと思うと背筋が寒くなる。嫌悪と恐怖が同時に押し寄せてきて、それを表に出さないことに必死だった。
「ノンノン、俺はちゃんと転生体も人間として見てるってことだよ。研究しか頭にないイカれどもは文字通り実験動物としてしか見てねーからな。それに比べりゃ俺は健全だろ?」
今まで男にそういう目で見られたことは何度もあった。だがこいつほど嫌悪感を抱いたことはない。生理的に受けつけない。
「その汚い口を止めなさい。じゃないと殺すわよ」
「おお怖っ! けどそりゃ無理ってもんだろ。その首輪をつけてちゃただの女だからな。その証拠に……」
「っ!?」
足元の影が這いずり上がってきて、身体にまとわりつく。自由を奪われ、振り解こうとしてもびくともしない。
「女の子のかよわーい力じゃこれだけで動けなくなっちゃんだよなー。まあ男でもこの影の拘束は解けないけどな。ヘッヘッヘ、これで無理だってわかったろ?」
「はっ、ぜんっぜんよ。影に隠れてコソコソと、たかが女一人と顔を突き合わせることもできない男なんて大したことないわ。今まで迫ってきた男でダントツの意気地なしね」
「安い挑発だなー。まーでも俺にもプライドってあるわけだし? ちょっとだけ乗っちゃおうかなーっと」
身体に這う影が
「あ、がっ……」
気道を塞がれて呼吸ができない。引き剥がそうと力を入れても、強い力で押さえつけられて首から手が離れなかった。
「ほらほらどうよ? そのままだと窒息しちまうぜ?」
必死に抵抗するも振り解けない。込められる力は少しずつ強くなっていき、だんだん意識が遠退いていく。
ブラックアウトしかける直前、力が緩む。酸素を求めて肺と心臓が狂ったように活動し、アルフェリカは激しく咳き込んだ。
「さて、息は整ったな?」
再び自分の両手が首を絞めて気道を塞ぐ。やはり抵抗することができない。
「アルフェリカさん!」
「おっと邪魔しないでくれよ妹ちゃん」
何かをしようとしたセレスの足元から影が伸びて、彼女も拘束されてしまう。
アルフェリカの足元で影が膨らみ、それは人の形を象った。気味悪い赤い目はそのままに、自由の効かないアルフェリカの双眸を覗き込む。
「自分の立場ってもんを教えてやろう。ここではお前に自由はない。なぜなら人類が平穏を掴み取るために必要なサンプルだからだ。だからこそ簡単に自由を奪える。生かすも殺すも自由自在だ。人としての尊厳? そんなもん守ろうってなら無駄無駄。今のうちにポイしとけ」
酸素を求めて開かれていた口に影が捩じ込まれる。喉奥を抉じ開け、食道を通って胃に到達し、さらに奥へと侵入してくる。
影は体内で膨張と収縮を繰り返し、
アルフェリカがもがき苦しむ様子を見てケタケタと影が嗤う。
ここまで好き放題に弄ばれているのに、なにも抵抗することができない。
「やめてください!」
叫び声と共にビリビリと空気が震え、ガラスが軋みを上げた。
それを起こしたのは空色の突風。可視化された魔力の風が、強化ガラスを割らんとするほどに吹き荒れていた。
風を巻き起こしているのは、全身の刻印を発光させ、影の拘束を振り解いたセレス。
「アルフェリカさんを放してください。それ以上、彼女をいじめるなら――」
神の力がシャドウに向けられている。どうしてセレスは力を使えるのか。
その理由はすぐにわかった。
「そーいや妹ちゃんには首輪つけてないんだっけな。
「聞こえませんか?」
「しっかし、神の力を使うなんて大丈夫かー? もうそろそろ危ないだろ?」
「聞く気がないんですね」
魔力が収束した途端、影が霧散した。膨らんだ影も、身体を縛りつけていた影も、体内に侵入していた影も、影に浮かんでいた赤い目も、全てが消え去っていた。
体内を掻き回されたアルフェリカは、激しい嘔吐と咳をしながらその場に崩れ落ちる。
「危ねーっ! 流石に今のは死ぬとこだった!」
離れた壁の影からそんな命の危機に瀕したとは思えないほど軽い声が聞こえてきた。赤い目を浮かべた影がゆらゆらと揺れている。
「ま、俺の魔術は妹ちゃんの力とは相性悪いし、遊ぶのはここまでにしとくかね」
影が室内を覆う。壁も床も天井も、全てが黒塗りになり、赤い目が無数に浮かび上がった。
「実験体の諸君。今日から四日間『ソーサラーガーデン』では『創世祭』が行われる。この期間は俺たちも『魔導連合』も忙しくなるから実験はお休みだ。やったな喜べ! 君たちはこれから四日間、各々に与えられた部屋でゆっくりと過ごしてくれ。みんな良い子にしててくれよ? じゃないとお目付役の俺が怒られちゃうからな! それじゃな!」
おどけた声と共に影も消える。まるで夢幻だったかのように。
しかし身体にのしかかる倦怠感が、それが現実であることを告げていた。
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