神秘の園⑥
実験室という名の牢獄。窓がなくて採光できない暗い部屋。
アーガムはそのうちの一つに毎日のように訪れていた。
部屋にいるのは自分と同じ、青味がかった黒髪を持つ一人の少女。
「あ、兄さん」
「やあセレス。遅くにすまないな」
アーガム=カロライナの唯一無二の家族。
体表を覆う幾何学的な刻印。白い肌を蝕む神名は明滅しながら淡い光を放っている。
命のカウントダウン。そう思えてならない。
兄の謝罪に妹はふるふると首を振った。
「ううん大丈夫。兄さんが来てくれると安心するから」
「そうか」
逆に言えば一人のときは不安だということ。妹にそんな思いをさせている自分の無力さがこの上なく恨めしい。
そんなことは
「セレス、新しい術式兵装を作ってきた。試させてもらってもいいかい?」
「うん、大丈夫だよ」
差し出された手に腕輪を装着し、それを測定器と接続。
開始のスイッチを押そうとしてアーガムの手が止まった。指先が震える。
「大丈夫だよ兄さん。我慢、できるから」
躊躇う自分を気遣って微笑んでくる。しかし言葉とは裏腹にセレスも震えていた。
怖いのを必死に我慢して兄を
「すまな……っ、術式を起動する」
口にしかけた謝罪を飲み込み、スイッチを入れた。
腕輪が装備者の魔力を吸い上げ、術式が起動。その効果を測定するため機材が神名に干渉する。
溢れるのは――悲鳴。
痛みにのたうち回りながら、喉が張り裂けんばかりの叫び声が室内に反響する。
転生体は神名に一定の傷を負うだけで絶命する。つまりはそれだけ脆弱で鋭敏な器官ということだ。
その神名に干渉するというのは麻酔もなしで生きたまま解剖されるに等しい痛みを伴うと、以前セレスは言っていた。
『魔導連合』の研究によって彼女はこの痛みを毎日強いられている。
そして自分もいま、その痛みを強いている。首にある神名の核に直接干渉していないとはいえ、耐えがたい激痛に襲われているということは明白。
理不尽な運命から守るため。地獄のような日々から救い出すため。
自らの手で最も大切な妹に苦痛を与えているのだ。
口の中に鉄の味が広がる。唇を噛み切ったということには気づけなかった。
妹が苦しむ姿を目の当たりにしながら、アーガムは測定されたデータの解析に心血を注ぐ。
そうすることでしか報いることができない。
「――測定終了!」
即座に測定器を停止。苦痛から解放されたセレスは荒い呼吸をぐったりと横たわった。
「…‥ハァ……ハァ…………ふぅ、どう……だった?」
「神名の侵食を遅らせる効果が確認できた。だが侵食を抑えるには至っていない。装備者にも神名への干渉によるフィードバックがある」
これではダメだ。神名の侵食を完全に抑えられなければ意味がない。完成には程遠い。
もう時間はほとんど残されていないというのに。
「そっか、じゃあ一歩前進だね」
焦り絶望するアーガムとは対照的に、セレスは穏やかな表情を浮かべている。
「侵食を遅らせられたなら時間が延びたってことだよ。なら大丈夫。これだけでも画期的な発明だもん。兄さんなら間に合うよ。それまで私も頑張るから」
身を起こしてガッツポーズを作るセレスの姿に目頭が熱くなった。
「この腕輪、術式を起動しておかないとダメだよね?」
「待て、セレス」
止める間もなく、セレスは腕輪の術式を起動してしまった。
「ふっ……くっ……痛い、けど……これなら我慢できないほどじゃないかな」
神名の明滅が止まり、セレスの眉が痛みに歪む。しかし測定器からの干渉がない分、先程よりもかなり痛みは小さいようだった。
それでも容易い痛みではないはずなのに。
「これ、痛覚麻痺の術式も組み込まれてるんだね。優しいね、兄さんは」
そんなの当たり前だ。神名を抑えられても痛みに苛まれ続けるのでは意味がない。
ましてやそれが妹であるならなおのこと。
「そんな顔しないで」
セレスの両手がそっと顔を包み込んだ。労わる気持ちがじんわりと温もりと共に伝わってくる。
「あんまり自分を責めちゃダメだよ?」
「……責めてなどいない。自分の無能さには頭にくるがね」
「それを責めてるって言うんだけどな。
「そういうことでは……」
「じゃあ他に何かあるんだね? 言ってみてよ。私は解決してあげることはできないけど、話すだけでも楽になれるよ」
自分よりも辛いはずの妹に気遣われるとは情けない限りだ。
しかし話さずにはいられなかった。
「人を一人、不幸にした」
「……うん」
「実験に耐えかねて『魔導連合』から逃亡した転生体だ。彼女がようやく得た日常を私が奪った。セレスを助けるためだと言いながら、いまの立場を守るために、この地獄に連れ戻してしまった」
「うん」
「私にとってお前が最も大切だ。だがそれを免罪符にしようとしている自分がどうしようもなく許せない。別の者を、お前と同じ境遇に、私自身の手で陥れてしまった」
その事実が耐え難い。セレスさえ無事ならそれでいい。その考えに徹することがどうしてもできない。
「じゃあ私と一緒にその人も助けてあげて。それで一緒に謝ろうよ」
「許しては、もらえないだろう」
相当恨まれているはずだ。きっと命はない。それも覚悟している。
「それでも謝るの。それでずっと償い続けよう? 死に物狂いで償って、許してもらえるまで頑張ろうよ。私たち二人で一緒に」
「……然り。セレスの言う通りだ」
向き合わなければならない。罪の意識に押し潰されて、自棄を起こしてしまうのは、あまりに無責任というものだ。
「その人ってどんな人? もし会えたら謝っておくね」
「アルフェリカ=オリュンシアという身の丈ほどの銀髪が美しい少女だ。瞳は夜明け空のような瑠璃色。セレスよりも少し年上だね。美人だからきっと目にすればすぐにわかるよ」
「へぇ、美人なんだ? もしかして兄さんはそのアルフェリカさんのこと好きなの?」
「まさか。それに彼女にはすでに想い人がいるのだよ。本人は自分で気づいていないようだがね」
「よく見てるんだねー」
悪戯に笑うセレスにからかわれながら、アーガムは不思議と口元を緩ませていた。
こんな他愛のない会話で随分と気が楽になるものだ。
「そうそう。もし本当に彼女に会えたら伝えて欲しいことがあるんだ。頼めるかい?」
「いいけど、なに?」
その言葉を伝えるとセレスは力強く頷いた。
「わかった。会えたら絶対に伝えるね」
「頼んだよ」
コツン。お互いに額を合わせた。
「一緒に頑張ろう? そしてまた一緒に暮らそうね」
「ああ、そうだね」
この他愛のなさを日常にするために。
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