4.スゥは宵闇の魔法使い

 バタバタと二人でエリィのアパートに戻ってくると、スゥが不安げな様子で「エリィさん」と声をかけた。エリィはもうスゥの腕を離していたが、スゥは少しだけ掴まれていた腕を摩って、「どうしたんですか」と聞いた。


「さっきのキーリさん……悪魔憑き、ですけど、話せば分かる雰囲気もあったのに」


 どうして急に、と首を傾げている。エリィから見てもスゥは話に集中していたようだったから、そちらにばかり気を取られて、キーリの様子まではよく把握できていなかったらしい。エリィは曖昧に頷くと、「そうかしら」と首を傾げる。


「彼女の境遇には同情するけど……だからといって、悪魔憑きであることが許されるわけではないでしょう」


 話せば分かるわけではない、と、エリィはきっぱり言った。


「でも……」

「スゥは、本当にキーリが管理局に引き渡されれば、問題ないと思ってる?」


 問えば、スゥは押し黙る。

 キーリの話が全て真実とは限らないが、あの場であの話を作り上げたのだとしたら、相当な女優であり作家である。身内に宵闇の魔法使いが居たのだとしたら、スゥの様子を見ればスゥが宵闇の魔法使いであるとはすぐに察せたことだろう。スゥが宵闇の魔法使いだからか、あるいは若い魔法使いだからか、いずれにせよキーリが与し易いと考えてもおかしくはなかった。しかも、同行者の一人はただの記者志望である。


「でも、じゃあ、どうしてあそこで拘束しなかったんですか」

「テラス席とはいえ、人目がないわけではないわ。それに、周囲から見れば顔の見えているキーリよりも、顔の見えないスゥの方が不信感を抱きやすい。あの場でもし拘束できたとしても、キーリが一声悲鳴をあげれば、悪いのは私たちよ」


 戦闘せずにどうやって捕まえるつもりだったの? 問えば、スゥは口籠もりながらも「私の影魔法で……」と答えた。


「影魔法、便利だけど、弱点がないわけじゃないでしょう。破られたらどうするの? 他に使える魔法は?」


 それで、立て続けに問う。スゥは押し黙ってしまって、沈黙が答えだった。スゥの得意魔法は影魔法。逆に言えば、影魔法、しか、彼女は使えない。


「ごめんなさい、エリィさんのおっしゃる通りだと思います。それに、あなたを巻き込みたいわけじゃないんです。でも私……」


 ややあってスゥは情けない声をあげる。エリィは一つため息を吐くと、「わかってるわ」と肩を竦めた。


「誰だって、自分に降りかかる、かもしれない恐怖、の話を聞かされたら、恐ろしくなるし、感情移入してしまうし、遭遇した人を可哀想に思ってしまう。スゥはキーリのお母様の話を聞いて、お母様と自分を重ねたし、キーリのことを可哀想だと思ってしまった。それは自然な感情で、仕方のないことだわ」


 エリィはキッチンへ向かうと、冷蔵庫からシチューを作ったあまりの牛乳を取り出した。鍋に注いで火にかける。ホットミルクを作りながら、スゥの方は向かずに「仕方ない」ともう一度繰り返した。


「でも、だから、無関係の私はキーリのことを観察してた。キーリは、あなたを狙っているわ」


 たぶん、きっと。

 エリィが言い切ると、背後でスゥがはっと息をのむ音が聞こえた。

 温めおわった牛乳をマグカップに移す。蜂蜜を垂らしてスゥに差し出すと、困惑した様子のスゥがエリィを見上げた。


「飲んで寝ておきましょう。キーリにここの住所を書いたメモを渡したの。早ければ今夜。遅くとも近日中には、あなたを狙って、やってくるわよ」


 それがキーリなのか、キーリの吸血を誤魔化している協力者、なのかは分からない。エリィは訓練場で見かけた、ダンテの顔を思い出した。


「あなたは多分、キーリの元にいくまでは殺されないでしょう……必要なのは“生き血”だからね。私はわからないけど」


 戯けて肩を竦めると、躊躇いながらマグカップを受け取ったスゥが「そんな、」と小さく声を漏らした。「どうしてそんな危険なことを、」と、言葉が続く。


「いい? スゥ。私は記者志望なの。首都に届くような大スクープを、この街で見つけて、記事にしなきゃいけないのよ」


 そのためにはなんだってやるの。

 言い切って自分の分のホットミルクをぐっと煽る。少し温めに作ったホットミルクがすうっと胃まで降りていって、エリィは甘さに顔を顰める。それで、明日の勤務は休まなければならないかもしれないな、と、片隅で考えた。





 その日の夜のことだ。

 エリィは潔く明日の勤務を休むことにして、クォーツ・タイムスに欠勤の連絡を入れていたが、習慣づいた就寝時間を変える気にはなれず、スゥと共に夕方四時には布団の中に入っていた。

 エリィのベッドは大きいので、二人で並んで寝ていても窮屈ではない。とりわけ、エリィも細身な方だったし、スゥはエリィよりも小柄なので余計だ。寝相が悪い方でもなかったので、十分な休息をとれた。

 夜九時頃、ふと扉が叩かれる音を聞いて、エリィはそっと布団を抜け出した。パジャマのまま玄関へ向かう。

 日中は玄関横に呼び出しのベルを置いているが、寝る時間になると家の中にしまってしまう。夜に鳴らされて睡眠の邪魔をされるのは御免だったし、近所迷惑にもなるためだ。どんどん、と強めに扉が叩かれたのは、ベルがないからだろうと思われた。

 覗き穴がない扉なので、鍵を外して扉を開けねば来訪者の確認ができない。エリィはそっと扉を開けると、「どちら様?」と小声で問うた。夜の九時、一般的にはまだまだ起きている時間だろうと、エリィは就寝中の時間だ。スゥはよく眠ったままで、起きる気配がしなかった。

 見えたのは大きな影だった。

 玄関のすぐそばに誰かが立っている、のは理解できた。エリィよりも体格の良い誰かだ、誰だろうかと顔を持ち上げようとしたところで、目の前にするりと銀色の刃が差し出された。


「……手荒な真似はしたくない」


 低い声で誰かが言った。声からして男のものだ。エリィはこくりと頷くと、顔を見ぬまま扉を開けた。


「……どちらがお望み?」


 開けてやると、男は無遠慮に家の中に入ってくる。部屋の中央にあるベッドで熟睡しているスゥを見つけると、すぐにスゥの方へ近寄った。

 エリィの問いには答えぬまま、毛布ごとスゥの体を抱え上げる。聞くまでもなかったか、とエリィがため息を吐きかけたところで、くるりと男がこちらを向いた。銀色の刃は未だなお剥き身のままだ。刀身に鳥を模した美しい彫刻が見えて、きっと立派な剣なのだろうなと考える。

 さてこの男がすんなりとエリィを見逃すはずがない。手荒な真似はしたくないと言ったが、目的がスゥならエリィの命はないだろう。どうやって逃げ出そうか、エリィが窓を確認したところで、「おい」と男が声をあげる。

 びくりと体は震えたが、顔は見ぬよう、俯きがちのまま。エリィは恐る恐る男の言葉の続きを待った。男は「さっきの問いだが、」と、思いもよらないことを言う。


「どちらが望みかと聞いたな。答えはどちらも、だ。お前も来てもらうぞ」


 それから、乱暴に剣を鞘に収めると、エリィの両手首を引っ張ってスゥと同じように担ぎ上げた。両肩に一人ずつ。エリィもスゥも細身とは言え、二人分の体重を難なく抱え上げた男に驚いてしまって、エリィは咄嗟に反応できなかった。


「暴れるなよ。お前は、暴れたら斬り伏せろと言われている」


 忠告するように男は言った。エリィは小声で「はぁい」と返事をする。顔を横に向けると、毛布に包まれたままのスゥが何事もないかのようによく眠っている。


(この状況でよく寝てられるわね、この子……)


 どちらにしろ、今、エリィができる事は何もなかった。スゥが眠ったままなので、気を晴らすように口を開く。


「あなた、とっても力持ちね」


 茶化すように言って見せれば、「静かにしろ」と怒られた。





 連れて行かれた先はどこかの屋敷の客室だった。

 アパートから出た後、シディアン地区には不釣り合いな立派な車に押し込められて、どこを通っているかもわからぬまま運ばれた。未だクォーツの街では馬車が主流であるから、ガソリンで動く車を持っているのは富裕層だけだ。地区で言えば中央、ネリアン地区の方でよく見られる。

 諸々推測すれば、連れてこられたのはネリアン地区のどこかの屋敷の一つ、と言うことになる。車が停車して下される頃には、エリィも寝ているスゥも頑丈に目隠しをされたので、推測通りかまではわからない。

 客室のベッドまで運ばれると、エリィもスゥも両腕を拘束するように縄で縛られ、縛った縄はベッドの脚に括られた。そこそこ長さがあるようなので、客室内は自由に歩けそうではあったが、窓際までは届かないし、当然、扉までも届かない。

 スゥは未だ眠ったままで、しかもエリィのベッドよりもふかふかのベッドに移されたせいでどこか普段より安らいで見える。それがなんだか腹立たしくて、エリィはもう! と、毛布の上からその頭を軽く叩いた。

 客室に連れてこられた時、エリィは初めて男の顔を見上げたが、案の定その顔はマスクで覆われていて誰なのかまではわからなかった。男は「ここで待っていろ」とそれだけを告げると、電気もつけずに部屋を出て行ってしまう。

 カーテンは開け放たれたままで、部屋の中には月光が差し込むばかりだ。夜なのが幸いしたな、と思いながら、エリィはスゥの頭をもう一度叩く。


「スゥ、起きて、スゥ」


 いつまで寝てるのかしら、と憤慨しながらスゥの体を揺する。今朝はもっとすんなり起きたので、寝起きは良い方だと思っていたが。気のせいだったらしい。スゥは唸りながら「まだ朝じゃないです……」と呟いたが、エリィが少し強めに肩を叩くと、ようやくパチリと目を開けた。


「……なんですか、エリィさん……お仕事休むって言ってたじゃないですか……」


 ボソボソとした声で非難するスゥに、エリィは「それどころじゃないわよ」と伝える。毛布ごと運ばれてきたので、身を包む毛布ごと起き上がらせてやると、スゥは目を瞬かせながらゆっくりと周囲を見回した。


「……あ、れ? ここ、どこです……?」


 それから、確認するようにもう一度瞬きをした。ゆっくりとした動きで、今はローブで隠されていない、スゥの長いまつ毛がぱちりと動くのが良く見えた。


「連れ去られてしまったわ」


 エリィは端的に説明すると、自分の両手を持ち上げて見せる。両手首をまとめて縛られてしまったので、満足に何かをすることもできない。足が自由なのは幸いだったが。

 エリィの手首を見つけると、俄にスゥの顔色が青ざめた。それから、慌てて自分の手首も確認する。当然ながら、スゥの手首も同様である。


「えっ、なん、えぇ!?」

「静かに。予想していた通りでしょう」


 慌てるスゥを落ち着かせてやりながら、エリィは座り直して部屋の中を見回した。扉はきっちり閉まっているし、誰かがやってくる気配もしない。今ならスゥと情報共有する時間が取れそうだった。


「キーリさん、でしょうか……」

「連れてくるよう指示をしたのは、おそらくそうでしょうね。私まで連れてこられたのが意外だったけど……」


 言いながら肩を竦めてみせると、スゥがますます顔色を悪くさせて「縁起でもないこと言わないでください」と咎める。エリィとしては、ひとまず無事なのだから良いではないか、と思わなくもないが、スゥはそうでもないのだろう。


「えっと、じゃあ、実行犯は違う人、ですか?」

「そうね。予想はしていたけど……やっぱり、ダンテが一枚噛んでるみたい」


 ダンテ、と名前を出すと、スゥが首を傾げる。日中話に出たと思ったが、その後のキーリの話で記憶から飛んだらしい。


「今日キーリの組み手の相手をしていた人。クォーツ自警団の第一小隊隊長で、キーリがお気に入りだっていう」


 そこまで言えば、ロバートの説明も思い出したらしい。スゥが「ああ、そういえば見かけましたね」と頷いた。


「でもなんで、自警団の隊長さんが、私たちを?」

「最初からキーリの協力者だったから、かしら」


 最初から、と伝えると、スゥの首の傾ぎが深くなる。エリィは眉間に皺を寄せながら、手帳の内容を思い出した。


「どういうことですか」

「キーリとの出会いがどこかまでは分からないけど……少なくともキーリがクォーツに入ってから、キーリの悪行を隠蔽していたのはダンテで間違いないと思うわ」


 続けると、はっとスゥが息を飲む。昨日、キーリの話を整理していた時、協力者がいるかもしれないとは話していたことだ。


「今日のキーリの様子を見たでしょう。目立った獣化は全く見られなかった。ということは、隠せる部位にしか発現していないということ。隠せる程度だけれど、彼女は明らかに身体強化の魔法を多用していて……となれば、日々かなりの量の生き血を啜っているはず」

「必然的に、吸血事件が多発していておかしくないってことですね」


 スゥが確認するように問うたので、エリィは「そういうこと」と頷いた。


「でも、クォーツの街では吸血事件の噂すら出ていない。ということは、事件にならないような人を誰かがキーリに差し出している、ということ……つまり、限られた場所で生活している人とか、牢に入れられた犯罪者とか、家族のいない浮浪者とか」


 例を挙げれば、スゥは思い出したようにもう一度周囲を見回した。それからぽそりと、「この屋敷、人の気配が全然しません……」と呟く。


「全て手に入れられるのは、この街では自警団の人くらいじゃないかしら。それも隊長クラスなら、自分のしたことの隠蔽だって容易いはず」


 もっと言えば、とエリィはベッドの縁の装飾に触れた。繊細な彫刻が彫られていたが、華美ではなく、センスの良さが窺える。


「ここに連れてこられるまでの間、向けられた剣の刀身に鳥の彫刻があったの。刀身に鳥の彫刻がある剣は、自警団の各隊長しか持っていない。ついで、移動に使われた車は持てる人が限られているし、私、第一小隊の隊長以外の隊長さんとは、比較的仲が良いのよね」


 消去法で行けば、前情報がなくとも実行犯はダンテだろうと推測できた。エリィが鬱陶しいな、と手首の縄を見ていると、スゥが感心した様子で「すごいです、エリィさん」と声を上げた。


「まるで探偵みたい……」


 エリィさんが協力してくれてよかった、とまで続いた言葉に、エリィは少しだけむくれてみせた。探偵みたい、ではなく、さすが記者、と言って欲しかったところだ。


「まあ、別にいいけど……」

「本当、探偵みたいね、あなた。記者よりもそちらの方が向いているんじゃない?」


 とにかくこれからどうしようか、スゥと相談しようとしたところで、閉ざされていた扉が開いた。

 こちらの話を聞いていたらしい、話しながらやってきたのは、赤いドレスに身を包んだキーリだった。キーリの鮮やかな髪の色と同じ色のドレスで、月光に照らされて妖しく光って見える。

 キーリ、とエリィは声なき声で名を呼んだ。キーリはエリィには目もくれず、じっとスゥを見ていた。

 キーリの赤いドレスは胸元が大きく開いていて、その胸元は、豊かな赤茶色の毛で覆われていた。それで初めて、彼女の獣化の部位が胸元であったのだと理解する。毛で覆われているくらいならば、それも胸まわりであれば、服で隠されてしまえば違和感がない。彼女が人の生活にうまく馴染んだのもそのせいだと思われた。

 きっと違う服装であったなら、その胸元のふっくらとした毛は異様なものに見えただろうが。あえて毛を見せるデザインのドレスが、初めからドレスの装飾かのように見えて、違和感がない。

 数歩、二人に近寄ってきたキーリに、スゥが警戒したように身構えた。


「どうしてこんなことを」


 スゥが問う。キーリはあゆみを止めることなく、そのままベッドの端に座り込んだ。なるべく距離を取るように、スゥもエリィも反対側の端に寄る。キーリは不思議そうに首を傾げると、くすくすと小さく笑った。


「どうしてって、困ったことがあったら連絡してって言ってたでしょう」


 言いながらキーリはちらりとエリィを見た。エリィは何も答えなかった。確かに、そう言って住所を教えたのはエリィだ。そして、こうなることも予測はしていた。予測の範囲内、といえば、範囲内だった。


「困っているのは本当なの。近頃血を飲めていないから……少し、分けて欲しいのよ」

「いやです」


 キーリは眉尻を下げて申し訳なさそうな調子で言ったが、エリィが何か言うよりも先にスゥがきっぱりと断った。昼の気弱な様子とまるきり違うことに、キーリが不思議そうに首を傾げる。


「スゥちゃんの血はとても美味しそうなのに……飲み尽くすことなんてしないわ。本当にダメ?」

「ダメです」


 再度、きっぱりと断ると、キーリは悲しそうな顔をした。


「宵闇の魔女だからかしら。スゥちゃんは少し、母の面影があって」


 だから、飲ませて貰いたかったんだけど、と、言葉が続く。

 う、と、スゥが一瞬口籠もったのがわかった。それで、今度はエリィが「それでもダメです」と断る。

 エリィが口を出すと、キーリは興味深げにエリィに視線を向けた。存外、スゥだけではなくエリィにも興味があったらしい。視線に晒されてエリィはぞわりと肌が粟立つのを感じたが、気づいていないふりをした。


「あなたは魔法使いじゃないでしょう? でも、なぜだかスゥちゃんと一緒にいる。どうして?」


 心底不思議そうにキーリが問う。興味がある、のは、その点についてのようだった。


「さあ、どうしてかしら。私は記者志望だから」

「そのようね。でも、ダンテは記者の真似事はやめてほしいって言ってたわ」


 大した記事も書いたことがないのに、詮索ばかりするのは好ましくないって。

 瞬間、エリィはカッと頭に血が上ったのを感じた。確かに新聞に掲載されるような記事を書いたことはない。新聞どころか雑誌にだって、そも、まともな記事を書き上げられたことがない。けれど、それでもエリィは真剣に記者を目指していたし――才能がなくても、許されているうちは夢を追いかけたいと必死なのに。

 なぜだか全てを馬鹿にされた気がして、怒りのままキーリに飛びかかりそうになった。けれども寸でのところでスゥが「真似事なんかじゃないです!」とスゥが叫ぶ。今まで聞いた中で一番大きな声だった。


「スゥ?」

「エリィさんが遊びなわけないじゃないですか。色々なことを調査して、聞いて回って、でもエリィさんは優しいから、記事にできるものと、できないものを、きちんと選別しているだけです」


 だから真似事なんかじゃありません、と、スゥの声が続く。

 エリィは驚きのあまり怒りがどこかに吹き飛んでしまって、まじまじとスゥを見つめた。スゥの目の前でそれほど記者らしいことはしていなかったと思ったが、何がそう言わせているのか。


「ダンテさんとキーリさんの話だって、エリィさん、私と会う前から知っているみたいでした。でも、記事にしてなかったのは、それを記事にして悲しむ人がいるってわかってたからです。そうですよね」


 くるり、と、スゥがこちらを見る。ぱちりと視線が噛み合って、エリィは思わず頷いた。


(別に、そこまで崇高な意識を持って取捨選択してたわけじゃ、)


 ないけれど。それでも確かに、他人の粗を探し出して記事にするのは、どうも違う気がしていた。ダンテとその妻の喧嘩にしたって、キーリがお気に入りということだって、記事にすれば民衆は娯楽消費するだろうが、それで終わりだ。一過性の娯楽で終わってしまって、エリィが目指す記事にはならない。


(もっとも、経験だってないのだから、そう言うものを手がけていかなきゃいけない、ことも理解はしているけど)


 ただなんとなく、スゥにそうして言葉にしてもらったことで、どこか救われた気がした。

 エリィは唇を一度柔く噛むと、握りしめた拳を緩めてキーリに向き直った。


「……あなたもご存知の通り、スゥは宵闇の魔法使いです。夜は彼女の領域よ。なぜ、日中ではなくて、夜にこの子を襲ったの」


 キーリはエリィとスゥの二人を興味深げに見つめていたが、エリィの問いかけには「さぁ?」と首を傾げてみせた。


「どうしてかしらね」


 それから、困った様子で笑みを浮かべる。

 瞬間、キーリの背後からぶわりと黒い何かが盛り上がって、キーリの体に覆い被さった。黒い何か、が、盛り上がるのと同時にぞわぞわと背筋を這い上がるような嫌な気配を覚えて、エリィは思わずスゥを見る。

 いつの間にか、スゥは手首の拘束を解いていた。解かれた縄を見れば斬られた跡があって、ぱっと自分の手首も楽になったのを感じる。チカ、と何かが光った気がして、目を向ければ、昨日も見たスゥの指輪が煌めいたようだった。


「影は結構鋭利なんですよ」


 戸惑うエリィにスゥは笑ってそう言った。エリィがキーリに問いかけている内に、影を使ってロープを切断していたらしい。

 自由になった両手を大きく動かしながら、スゥはキーリの体を掴んでベッドの下に引きずり下ろした。影でガッチリ拘束しながら、キーリの目の前に降り立つ。


「観念してください。あなたのことは、管理局に引き渡します」


 沙汰はそちらで降りるでしょう、と、スゥは続けた。結局彼女は、自分で討伐するのではなく、管理局への引き渡しをすることにしたらしい。


「本当に、だめ?」


 キーリは床に押さえつけられたまま、スゥを見上げてもう一度問うた。だめ? が、何を指すのか。わからなかったが、スゥはもう一度、はっきりした声で「ダメです」と答えた。


「そう、じゃあ、残念ね」


 はあ、と、キーリが息を吐く。

 刹那、嫌な気配がしてエリィは「スゥ!」と強く叫んだ。キーリの体が一瞬大きく膨らんだかと思うと、そのまま、ばちん、と強い音とともに影が弾け飛んだ。

 操っていた影が弾けた反動で、スゥの体が同じように吹き飛んでいく。エリィの目の前を通りすぎ、衣装ダンスにぶつかった。もう一度「スゥ!」と名前を呼んだが、床に倒れ込んだスゥは顔を上げなかった。

 キーリの方を見ると、やはり、キーリは一回りほど大きな体になっていた。「あまりこの姿は好きじゃないから、見せたくないのだけど」と呟いている。エリィは戸惑いながら、「なぜ?」と問うた。


「何が?」


と、キーリが問い返す。スゥではなく、問いかけたエリィの方を向いていた。エリィはなおも続ける。嫌な気配が室内を充満していて、体の震えは止まらない。ああ嫌だなあ、逃げ出したいなあ、とは思ったが、思うだけで、思考は存外冷静だった。


「あなたは悪魔憑きでしょう。でも、昼の話を信じるのなら、あなたは悪魔憑きになることこそ、恐れていたように思える」


 お姉様も悪魔付きになってしまったんでしょう、と、エリィは続けた。キーリは顔を顰めて、「本当に、あなたは、」と苦々しい声を出した。


「記者を目指すのはやめて、探偵にでもなったらどう?」

「遠慮しておきます」


 キーリはため息を吐くと、するりと右手を掲げてみせた。その右手の爪が、するすると長く伸びていく。鋭利な刃物になっていく様を、エリィは震えながら見守っていた。


「確かに姉も悪魔憑きになって、同行していた同僚の魔法使いに討伐されたわ。それでね、気づいたの」


 右手の爪が伸び終わると、次は左手を掲げて、左の爪。するすると伸びていく様子だけ、月光ではっきり目視できて、エリィは思わず一歩後ずさった。


「私は、私たち家族は、人々の役に立つことを常に考えてきた。でも、その仕打ちがあれなのよ。母は愚かな子供のせいで死にいたり、悪魔憑きとなってしまった。悪魔憑きとなってしまったら、魔法使いは討伐されるしかない。姉がどうして悪魔憑きになってしまったのか。わからないわけがないでしょう。私たちは恨むことも、憎むことも、悲しむことだってできないのよ」


 でもいいの、と、キーリは続ける。スゥはまだ起き上がらない。


「人々の役に立つことを考えてきた、私たちへの、仕打ちがあれなのだとしたら。私たちだって、それ相応の対価をもらっていいでしょう。

 だから私は血を飲むの。人間の血を。飲んで、飲み干して、悪魔憑きになっていても知らないわ。だってそうさせたのは、」


 あなたたち人間でしょう。

 す、と、キーリの目が細まった。瞬間エリィはベッドの上から飛び降りる。間一髪のところで、ベッドがすぱりとふたつに割れた。目で見て確認できなかったが、キーリが爪を振ったらしい。爪を振った風圧、だけで、すぱりとベッドは斬られてしまった。


(こ、こわい!! 何それ!?)


 いつでも逃げられるように、エリィは一目散に窓際に駆け寄る。けれども震える指では窓の鍵を素早く開けることができず、またスゥを置いていくことも憚られた。どうも、エリィに向ける視線とスゥに向ける視線は違うのだ。スゥへの視線の方が嫌な気がしていて、エリィは震えながらスゥの方を見た。


「そ、そんなの、間違ってますよ」


 ずっと倒れ伏したままだったスゥが、意識を取り戻したらしい。よろよろと立ち上がってキーリを見つめる。キーリは第二撃を放とうとしていたが、スゥが立ち上がったのを見てエリィから視線を離した。


「大丈夫よ、スゥちゃん。あなたは母様と同じ宵闇の魔法使いだから。きっちり、ゆっくりと、時間をかけて、“同じ”にしてあげる」


 同じ、と、キーリは言った。それで、エリィは理解する。


(この人、スゥを悪魔憑きにしようとしてるんだわ……!)


 てっきりスゥの血を飲むためだと思っていたが。

 それであれば、エリィが共に連れてこられた理由も理解できた。初めから、キーリはスゥの血を飲むつもりはなくて、エリィの血を飲み尽くしてしまおうと思っていたのだろう。

 そして、そうするつもりでエリィに襲ってきたということは、エリィのことは痛めつける程度で、殺すつもりはないらしい、ということだ。ただ生かされてしまうことの方が、かえってエリィには恐怖だった。


(痛い思いしなきゃいけないのは無理!)


 キーリがスゥに意識を向けたのは先の言葉を吐くためだけで、すでにもう視線はエリィに戻っている。「血を確保しなきゃ」と呟いたあたり、推測は間違っていないようだった。

 キーリが再び爪を振おうとしている。スゥが「だめ!」と叫びながら手をかざした。指輪がチカチカ、月光に当たってなお光る。


「邪魔しないで!」


 大きく爪を動かそうとしたキーリの指を、振り下ろす直前でスゥの影が絡め取ったようだった。エリィはその隙にキーリの対面から逃げてスゥの傍に寄る。キーリが急に顔を顰めた。


「邪魔しないで、お願い、スゥちゃん!」


 キーリが叫びながら身悶える、と、瞬間、キーリの巨体の後ろから誰かが飛び出してきた。


「キーリに手を出すな!」


 叫びながらスゥに襲いかかって来たのは、ダンテであった。昼間みた第一小隊の隊長は、今はマスクを外し、素顔でスゥを襲っている。例の、鳥の彫刻のある剣をスゥに振り下ろしたので、スゥは慌てて影を操り防御しなければならなかった。


(えっ、ど、どこに逃げれば!?)


 スゥの傍も安全ではなくなって、エリィはおろおろと距離をとる。ダンテは流石隊長というだけあって、鋭い剣戟でスゥを攻めていく。エリィからみてスゥは決して武闘派ではない。なんとか影で防御はしているが、崩されるのも時間の問題だと思われた。加えて、キーリの拘束にも力を使っている。少しずつ、少しずつキーリの拘束が緩まっているらしく、キーリの爪がぴくりと動いた。


「キーリを! 離せ! 離すんだ!!」


 雄叫びにも近い叫びを上げながら、ダンテが三度、連続で強くスゥを斬りつけた。最初の二撃、スゥの影は間に合って、剣からスゥを守ったが、最後の一撃は少しばかり間に合わなかった。けれども咄嗟にスゥ自身が一歩後ろに退いたため、剣先が指先を掠めただけで済む。血が出ることはなかったが、がきん、と硬い音がして、弾かれた瞬間、衝撃にスゥが指を抱えて蹲った。


「スゥ!」


 ダンテを前に、無防備に蹲ったスゥに驚いて、エリィは思わず駆け寄ろうとする。ダンテがキーリの「やめて!」という制止を聞かずに、スゥに剣を振り下ろそうとした。

 瞬間、


「ダメ!」


 叫んだのが誰の声だったか。エリィだったかもしれないし、スゥだったかもしれないし、キーリだったかもしれない。女の声だったからダンテではなかった。

 スゥから、ぶわりと黒い影が溢れ出た。津波のように室内を飲み込んで、月光が差し込んでいたはずの部屋が、一切の光も通さぬ漆黒に包まれる。嫌な気配がそこら中に漂っていた。エリィは悪寒を抑えるように自分の肩を抱きながら、「スゥ?」と小さく呼びかけた。

 黒い影、が部屋全てを飲み込んでしまって。状況がわからない。ただ、スゥだけは、エリィの貸したパジャマ姿で、蹲ったまま、小さな声で「指輪が……」と呟いていた。キーリも、ダンテの姿も見えない。

 エリィはスゥの傍に寄った。それからそっとその肩に手をやる。布越しでも分かるほど、体が冷えている。


「エリィさん……どうしよう、指輪が、指輪が壊れちゃった」


 混乱するスゥの手元を見やれば、なるほど確かに、右手の人差し指にはまっていた指輪が壊れている。先ほどダンテの剣が掠めたのは、この指輪だったらしい。よくよく見れば、スゥの指、自体も怪我をしていたようだったが、幸い指が斬り落とされたわけではないようで、そのことに安堵する。


「指輪、大切なものだったの?」


 とにかく落ち着かせようと問うた。スゥは頷いて、「私が落ちこぼれだから」と言葉を続ける。


「先生が、魔力制御のためにくださったんです。常につけていなきゃダメだって。私が魔力経路の使い方、下手くそだから、指輪を媒介にして魔法を使いやすくしてやるって」


 でも、そんな、こんな……。

 続いたスゥの言葉は困惑に満ちていて、エリィはふむ、と考える。


(正しく、“魔力制御”のための指輪だったのね)


 今は闇に包まれてしまって、右も左も、上も下もわからない。スゥから溢れ出て来たことを考えると、これが本来スゥの持つ魔力の片鱗、なのだろう。物凄く嫌な気配はしているけれど。


「スゥ、あなた、とても強い宵闇の魔法使い、なのね」


 とにかく、エリィはそう言ってスゥを立ち上がらせた。困惑するスゥを他所に、エリィはそっと床に触れる。

 瞬間、エリィの触れたところから、さわさわと静かに波立つような様子で、闇が引いていく。客室のカーペットが顔を出す。床に倒れ伏したキーリと、ダンテの姿が見える。天井まで覆っていた闇、全てがさわさわと消えていく。

 ぽかん、と、スゥが間抜けな顔をこちらに向けた。エリィは手を離して立ち上がると、眉尻を下げてスゥを見返した。


「黙っていたけど。私、触の魔法使いなの」


 それから、キーリとダンテに手を向ける。床からずるりと木の蔦が生え伸びたかと思えば、二人の手足をがっちり床に繋ぎ止めてしまった。

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