2.スゥは見習い魔法使い

 エリィの家は、シディアン地区の端の端、最南端にある。

 三階建て、年季の入ったアパートで、階段の手摺りは錆び付いているし、天井付近には蜘蛛の巣が幾つも出来ていたりするが、居心地は良く家賃も安いのでエリィはそこそこ気に入っている。

 二階の二〇二号室がエリィの部屋だ。隣、二〇一号室には、ネリアン地区にある大学校に通う男子大学生が住んでいる。反対隣、二〇三号室はエリィが入居した時から空室で、人が入る気配はない。というよりも、エリィは二〇一号室の大学生以外の住民を見たことがなかった。


「お帰りエリィ。そちらさんは?」

「スゥよ。友達なの」


 家賃が安い割に、アパートの一階には管理人が住んでいる。管理人のジルはエリィより少しばかり年上の青年だったが、アパートの入り口近くに木製の椅子を置いて、日がな一日新聞を読んでいる。大家は別にいるらしく、アパートの管理を任されているのだそう。

 エリィとスゥの姿を見つけたジルが、怪訝そうに首を傾げて問いかけた。この近辺でエリィのような若い女性が住んでいるのは少しばかり珍しいので、よく気にかけてくれるのだ。エリィは笑ってスゥを示した。


「あ……スゥです、初めまして」

「……ま、友達だってんならいいや。何かあったら俺を呼べよ」

「はぁい」


 ジルはまじまじとスゥの姿を確認したが、特に何を言うでもなく、再び視線を新聞に戻してしまった。ばさりと勢いよく広げた新聞は、クォーツ・タイムスではなくジェム・ジャーナルである。首都の情報が多く掲載されているので気に入っているらしい。

 瞬間、くう、とスゥの腹の音が鳴ったので口を閉じた。スゥが慌てたように、「す、すみません……」と謝罪する。ただでさえ高くか弱い声なのに、今にも消えてしまいそうだ。


「早くご飯にしましょ。昨日の残りのシチューだけど」


 苦笑して、エリィはスゥを促した。

 安くて年季の入ったアパートだけれど、部屋自体はそれほど狭くもない。二口コンロのキッチンもあるし、洗濯機は室内に置ける。トイレとシャワーがついていて、小さいけれど壁面収納としてクロゼットもついていた。

 深夜からの仕事なので、エリィは睡眠には少し拘る。部屋の中央に大きなベッドを置いていて、そのベッドは二人でも余裕で眠れるくらい、幅は広いしふかふかで、気持ちの良いベッドなのだ。ベッド主体の部屋なので、食事をするのはキッチン前に無理やり置いたカウンターテーブルだ。記事を作るときもこのテーブルで作業をしていた。


「適当に座って」


 促すと、スゥは恐縮した様子でベッドの下に座り込んだ。椅子は、カウンターチェアを一脚しか置いていなかったからだ。スゥが落ち着いたのを確認してから、エリィはキッチンの鍋を覗き込む。昨日の昼に作ったシチューを何度か煮込み直していたのだが、ちょうど二人分ほど残っていた。

 鍋を火にかけくるりとお玉で掻き回す。ついでに、ベーカリーで買ったクロワッサンを適当にフライパンで軽く焼いた。バターの良い香りが部屋中に漂って、温まったシチューを器に盛り付ける。

 一人暮らしで誰かを呼ぶこともない部屋なので、当然皿だって一人前しか持っていない。なので、客人であるスゥはシチューを装える深皿で、自分の分はライスを炊いた時に使う椀に装った。


「ほら、スゥ、こっち座って」


 ぼんやりとエリィの様子を伺っていたスゥを、手招いてカウンターチェアに座らせる。戸惑ったスゥは「えっと、エリィさんは……?」と首を傾げたが、エリィはキャスター付きのラックを引っ張ってくると、上のものをどかしてその上に軽く腰掛けた。それほど体重がある方でもないし、問題ないと思えた。


「口に合うかわからないけど。まあ、何も食べれないよりはマシでしょ」


 気にせずに声をかけて食事を始める。

 食べ始めたエリィのことを、スゥはしばらく見つめていたが、やがて大人しくスプーンを取ってシチューを口に運び始めた。一口、二口、食べて、「おいしい」とぽつりと溢す。


「おいしいです、エリィさん」


 続いた声が少し震えた気がして、エリィは齧ろうと思ったクロワッサンを皿に置いた。向かいに座って食事をしてなお、ローブのせいで、スゥの表情はよく見えない。顔の全貌を見ていないので、今どんな顔をしているのかわからなかった。


「……答えられなきゃ、別に良いんだけど。なんでそんなローブ被ってるの?」


 ただ、先程のことを思えば、ローブで顔を隠しているがために、食堂以外でも入店を断られたことが何度もあるのだろうと理解できた。とはいえ、追い出す方の心情もわかるし、そうまでされてローブを脱げない彼女にどんな事情があるのだろう、とも思う。スゥはスプーンを手にしたまま、かちゃかちゃと器のシチューをかき混ぜながら、ぽそぽそと「太陽の光が入ると、ダメなんです」と告白した。


「太陽の光?」

「エリィさんは、魔法使いについてどれだけ知っていますか?」


 次いで、急に出てきた“魔法使い”という言葉に押し黙る。顔を知らないのに、ローブの向こうからスゥがじっとこちらを見つめている気がして、仕方なく、息を吐く。


「私、これでも記者志望なのよ。一通りのことは知ってるわ」


 諦めて答えると、スゥは「そうですか、」と、幾分ほっとしたように肩の力を緩めた。

 目には見えない魔力、というものがあって、それを自在に操る人々のことを魔法使い、と呼ぶことは、誰でも知っていることである。時折現れる魔物は、その魔力に侵されて変異した動物のことで、魔物は人間を襲う。クォーツの街でも自警団が魔物討伐を行なっていた。

 一般的に知れ渡っている事実としては、魔法使いという魔力を操る人々がいて――そしてその術を魔法と呼んで――魔法使いたちは、魔法使いではない人々が討伐困難な“魔物”が現れた時に、どこからともなくやってきて、魔物を討伐してくれる、ということ。

 魔法使いたちを教育する学校があって、管理する組織があって、魔法使いたちのための法律がある、こともなんとなく知れ渡っていることではあるが、実際魔法使いを目にすることはないし、そういう組織が本当にあるのかどうかもわからない。魔法使い、という存在そのものについては常識的な事項だけれど、そこに付随する情報に関しては、都市伝説のような扱いをされることが多かった。

 エリィはまじまじとスゥを見て、それで、「なるほど」と理解した。

 エリィが持っている“一通りの”知識は、一般常識的なものから少しずれる。

 例えば、魔法使いそのものが、実際は人間が魔物と同じ原理で魔力に侵された存在であり――彼らもまた広義では“魔物”であるとか。魔法使いたちが討伐する“魔物”というのが、同じ魔法使いのことであるとか。


(スゥは魔法使いか)


 スゥは一度深呼吸をすると、「実は、」と口を開いた。


「私、魔法使い養成学校に通ってる、見習い魔法使い、なんです」


 見習い魔法使い、とエリィは言葉を繰り返した。こっくりとスゥが頷く。


「どこまでご存知かわからないのですが……魔法使いには、魔法を使うための代償があります。私、私の場合は、その、太陽の光で苦痛を受けるというもので……」


 言いながら、ちらり、と、スゥの視線が窓の方へ向いた。

 ちょうど昼どき、太陽は真上に昇って今日も心地よい日差しを地上に注いでいる。エリィの部屋も二つ窓があるため、部屋の中は電気を点けずとも差し込む太陽の光で十分明るかった。些か暖かすぎるのは難点だけれど。


「待ってて」


 断って席を立つ。エリィが素早くカーテンを引くと、途端に部屋は薄暗くなった。スゥが慌てて立ち上がる。


「あっ、そんな、」

「気にしないで、単純に、顔が気になっただけだから」


 これならローブも下ろせるでしょ? と、エリィが見やれば、スゥは少しばかり口籠った様子の後、はい、と小さく頷いた。

 部屋が暗くなったので、エリィは部屋の電気を点けた。この時間に電気を点けたのは久しぶりで、よほど雲が厚く、日光が差し込まない日くらいでしか点けたことはなかった。

 落ち着いたのを見て、スゥがそろそろとローブを下ろす。

 さてどんな顔かしら、とは、言葉にするほど興味があったわけでもないのだけれど。単純に、ローブを被ったまま食事をしなくてはならないというのは、本人も気持ちの良い食事ではないだろうと思った、程度のことで。単なる口実、名目。

 ローブに隠されていたのは、人形かと見紛うほど整った顔立ちの、可愛らしい少女だった。

 外で一瞬見えた金色は彼女の髪色だったようで、ゆるくウェーブが掛かった艶やかな金髪はかたのあたりで揃えられている。すっと通った鼻筋、まろい頬は少しだけ桃色に色づいていて、大きな瞳はガラス玉が嵌まり込んだみたいに美しい。太陽の光を避け続けているせいか、肌は透き通るほどに白く、けれども決して病弱な印象は受けない。血の通った色づきは、人形めいた顔立ちでも彼女が生きているのだと主張しているようで。当然、顔にシミも出来物もなかったけれど、目元にぽつんと点を落とす黒子があって、それがかえって愛らしさを増しているようだった。

 息を呑みかけて、エリィは意識して平常心を装った。自分の両頬に散らばる雀斑のことが一瞬脳裏に過ったが、元のつくりがあまりにも異なるので比べるのも馬鹿らしくなってくる。スゥがおどおどとした様子で形の良い眉尻を下げたので、エリィは「ありがと」ととりあえずの礼を言った。結局本人が見せたことだが、見せるよう要求したのはエリィである。


「それで、見習い魔法使いさん。この街には何をしに来たの?」


 スゥは顔を出したまま、はい、と神妙な顔で頷いた。


「えっと、実は、二ヶ月ほど前から、この街に“悪魔憑き”が滞在しているみたいで、魔法使い管理局からこれを退治せよとの命令が来たんです」


 “悪魔憑き”という言葉にエリィは思わず眉間に皺を寄せた。エリィの持つ知識の中にも、その言葉は含まれている。

 魔法使いそのものが広義では“魔物”と同じであるが、魔法使いがその他の魔物と同じように人間を襲わないのには理由がある。魔法使いたちの体内には、魔力を正しく体に巡らせ、取り扱うことを可能とする“魔力経路”と呼ばれるものが備わっており、これのおかげで過剰に魔力に侵されることがない。 “魔力経路”を持つことによって、通常の魔物では一気に全身に回る魔力の影響を、部分的な範囲で留めている。先程スゥが言った“代償”とはこのことで、魔力経路をもち魔法を扱う魔法使いであっても、魔力が与える影響からは逃れることができない。

 “悪魔憑き”とは、その魔力が悪しき色に染まり果て、魔物と化した状態の魔法使いを指す。緩やかに進行し続ける代償が行き着く先であり、なんらかの事情で心を闇に覆われたものが迎える末路だ。“悪魔憑き”は紛うことなく魔物であるために、見境なく人間を襲うし、場合によっては天災に近い事象を巻き起こす。都市伝説の通り、魔法使いたちは“悪魔憑き”を討伐するために各都市へと派遣されていた。

 本当にこの街に悪魔憑きがいるのであれば、魔法使いが派遣されてくることに間違いはない。ただこの街では、魔法使いの全容を知るものがとても限られていて、先程のようにスゥが受け入れられなかったのも仕方のないことだった。


「問題の悪魔憑きは、キーリ、という名前の女性だそうで。魔法使い管理局に登録はありますが、管理局所属の魔法使いではなかったようです。二ヶ月ほど前に、この街で多数の傭兵と契約を結んだと聞いたのですが」


 その中に紛れた、というのが管理局の推測です、とスゥは続けた。

 エリィは難しい顔をしながら、今朝方聞いたことを思い出していた。詰所の警備室にいたロバートは、討伐のない日はしょっちゅう雇った傭兵たちと訓練をしていると言っていた。その中に紛れ込んでいる、らしい。


「……気になることがいくつかあるわ。聞いてもいい?」


 急に真剣な顔になったエリィを見て、スゥは再び居住まいを正すと大きく頷いた。食べかけのシチューはすっかり湯気を無くしていて、これはもう一度温めなおしてやった方が良いかもしれない、と少しばかり思う。部屋の電気の下で、スゥの表情がはっきりと見て取れる。少し困ったような、違う、心細そうな顔。エリィは壁にかけていたボディバックから手帳とペンを引っ張り出すと、カチカチとペン先を出したりひっこめたりさせながら、「それじゃあ、」と口を開いた。


「ひとつめ。まず、悪魔憑きがこの街に来ているって話だけど、連続殺人の記事はこの二ヶ月間特に掲載されていないわ」


 エリィは新聞配達人、なので。それも、最終稿のチェックを行う配達人なので。毎朝毎朝、その日のニュースをしっかりと熟読している。今話題のニュースは何か、どのような事件・事故が起こっているか、政治の状況はどうか、自警団の魔物討伐状況は、等。大きくはないが小さくもない街だ。東西南北中央で区画は分けられているし、大きくはないけれど、確かにその中で貧富の差が生じている街だ。毎日殺人事件が一件もない、ことはないのだが、悪魔憑きが噂されるような不審な事件は見ていないし、手口が同じような、連続性の認められるものも特には見当たらなかった。

 スゥが眉根を寄せる。「本当ですか?」とは、けれども不安の強い声色だった。


「これでも新聞社に勤めているから。まあ、まだ、記者見習いにもなれてない、新聞配達人だけど……読んだ記事は全部頭に入ってるから、間違いないわよ」


 なんなら現物を見る? と、エリィは壁際の棚を指し示した。

 壁面いっぱいに置いた本棚は、興味のある本をこだわりなく詰め込んだために統一性がまるでないし、整理整頓もされていない。けれどその最下段に新聞用の籠を設置して、新聞だけはその籠の中に三ヶ月分ほど溜め込むようにしていた。気に入った記事は切り取ってスクラップブックに貼り付けている。スゥは新聞が詰まった籠を見て、引き攣ったような顔をした。


「い、いえ、大丈夫です……」


 現物は確認せずに、とりあえずエリィの証言を信じることにしたらしい。


「悪魔憑きって、人間を襲うイメージがあるのだけど、襲わない悪魔憑きもいるのかしら?」


 首を傾げて問えば、スゥは「ものによりますね」と簡素に答える。


「悪魔憑きには二タイプあって、魔法使いが悪しき色に染まって悪魔付きになるパターンと、人間が適正のないまま魔力を得ようとして悪魔憑きになるパターンとあります。後者は必ず人間を襲いますが、前者はその悪魔憑きがどんな代償を有していたかで、人間を襲う場合と、襲わない場合とで分かれるんです」


 それから顎に手をやって、「私も見習いなので、多くは知らないのですが」と前置きをする。


「例えば体が水棲生物に変異する代償を持っていた魔法使いが、代償に侵された挙句、悪魔憑きに成り果てた時、彼は一人森の中の泉に沈んで、その泉の水を汚染し続けたそうです。その水は黒く濁り、体内に取り入れると全身に鱗のような発疹ができて、最終的に呼吸困難になり死んでしまう、というものでした」


 スゥの説明通りに、黒く濁った森の中の泉を想像して、エリィは思わず腕を摩った。水を体内に入れなくても、近くだけでその悪しき気配に侵されてしまいそうだ。スゥは「なので、」と言葉を続ける。


「襲うことはなくても、周囲に悪い影響を及ぼすものはあります。ただ、その場合はもっと大規模な範囲で影響が出ているはずですし、もっと早く魔法使いが派遣されているはずです」


 ふぅん、とエリィは手帳に“キーリ”という名前と、「たぶん、誰かを襲ってる」「事件化されていない」と書きつけた。軽く頷けば、スゥの表情も僅かに和らぐ。


「もうひとつ。悪魔憑きの討伐はそこそこ大変なお仕事だと聞いたことがあるのだけど、なぜ、見習いのスゥが派遣されてきたの? それほど、その、キーリという悪魔憑きは弱い悪魔憑きなのかしら?」


 もうひとつ、と言いながら二つになってしまったな、とは、口を閉じてから思い至った。スゥはうろうろと視線を彷徨わせて、それから、たっぷり十秒間を置いてから「あー、」と曖昧な声を漏らした。言いにくいことらしい。


「別に、言えないことだったら言わなくても……」

「あっいや、違うんです、言います、言いますとも!」


 見かねて声をかけると、慌てた様子で首を振る。さらさらと金髪が揺れて、エリィはじっとスゥを見つめた。その、白い頬が僅かに赤みを帯びていく。


「その、あの、お恥ずかしい限りなのですが……」


 この部屋にはエリィとスゥの二人しかいないのに、スゥの声はますます小さくなっていくようだった。


「卒業試験、の、追試、でして」


 焦らしに焦らして、ぽつり、とスゥは言った。追試、と、エリィが繰り返す。こくん、と、スゥの頭が頷いた。


「えーと、」

「私、あの、落ちこぼれ、で……別の試験を二回、やったんですけど、卒業出来なくって……これ、三回目の追試で、合格できなかったら落第だって、先生が……」

「えー……っと」


 エリィは一度大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。

 悪魔憑きの討伐任務、に見習い魔法使いを派遣するなんて、と先程思っていたのだが、ただの見習い魔法使いではなく、落ちこぼれ見習い魔法使い、だったとは。

 そもそも、魔法使い養成学校で落第とはどういう状況なのだろう、とエリィは考える。魔法使いとは魔力を扱える人のことだが、それは本人が選択できることではない。魔力がある、と分かったら強制的に養成学校へ引き取られるという話も聞くし、それで落第した場合どうなってしまうのか。


(普通の人間と一緒に暮らすってわけにもいかないでしょうし)


 なにせ魔法使いたちは須く“代償”を持っている。スゥは日の光を浴びることができないし、他にも様々な代償があるのだろう。身体に影響を及ぼすものもあると聞いた。そういう状況で、エリィが思い浮かべる“普通の生活”は難しそうだった。


「それ、落第したらどうなっちゃうの……?」


 問えば、スゥは泣きそうな顔をした。


「それが、私にもわからなくって……ただ先生が、こんなことは前代未聞だから、どうか落第してくれるなって……」


 どうやら余程窮地に立たされているらしい。

 頭痛を覚えてエリィは額に手を当てた。冷めたシチューをかき混ぜるようにスプーンで掬って、とりあえず口の中に放り込む。考えるにも、些かエネルギーが足りない。


「その、落ちこぼれでも見習いでも、魔法使いなら魔法を使えるでしょ。スゥの得意な魔法は何?」


 聞けば、スゥはぽそりと小さな声で「影魔法です」と答えた。それから、何気なく台所のあたりの影に指を向けた。


「こんな風に、」


 スゥの細く白い指が、ひょい、と上に上がる。人差し指である。細い指には透明な石(水晶の欠片と思われた)が嵌った指輪があって、指輪の石がチカリと光ったようだった。すると不思議なことに、エリィの目の前でシンクの中からぬるりと黒い“何か”が伸びた。排水溝付近の影、らしい。スゥの人差し指がくるくると円を描くように動くと、動きに合わせて黒い“何か”も揺れ動く。光の反射は見られない。少し離れた場所だが遠目というほどでもない位置関係で、材質はわからない。粘土が若干ありそうだ、という印象は受けた。そして、


(なに、この、なんかちょっと、嫌な気配……)


 ざわざわと、スゥの動かす影、と思しきものから嫌な気配が漂ってくる。エリィは顔を顰めて、「わかった、ありがとう」とスゥを制した。

 スゥがぱちん、と指を鳴らすと、引き伸ばされた黒い“何か”がすとんとシンクの中に吸い込まれていく。元に戻ったらしい。瞬間、感じた嫌な気配も消え去った。


(魔力の気配? いや、それにしては……)

「それで、あの、こんなにお世話になっておいて申し訳ないんですが、」


 躊躇いがちにスゥが話を続ける。エリィは思考を止めて、再びスゥの綺麗な顔を覗き込んだ。おどおどとしてはいるが、まっすぐこちらを見つめるスゥの瞳は透き通っている。綺麗な色だな、と、エリィは思った。


「キーリを討伐するために、ぜひ、エリィさんに協力を、お願いしたくって……」


 だめでしょうか。

 続く言葉は案の定ぽそぽそと小さな声になったけれど。

 エリィはにんまりと笑みを浮かべて、「いいわよ」と端的に答える。安請合い、のように思ったのか、急な返事にスゥが驚いた様子で目を丸くする。


「えっと……本当にいいんですか? エリィさんにお礼、何も、できないんですけど……」

「落ちこぼれ見習い魔法使いにお礼なんて期待してないわよ。言ったでしょう、私、記者志望なの」


 それからエリィは持っていたペンをスゥへと向けた。


「あなたに着いていけば大スクープにありつけるかもしれない。首都にまで響き渡るような、大きな、大きな事件よ。だから、私にできることは協力するわ。その代わり」


 スゥがゆっくりと瞬きをする。じっとその両目を見つめていたので、一瞬閉じられた瞼に睫毛も長いな、とエリィは詮無いことを考えた。スゥが言葉の続きを待っている。


「私は好きなように記事を書くわ。あなたのことも書くかもしれない。それは、いい?」


 ことり、首を傾げる。スゥは僅かに躊躇って、「大丈夫、です、たぶん」と曖昧に笑ってみせた。





 冷めたシチューをもう一度温め直しながら、エリィはスゥに「キーリのことについて教えて」と問うた。悪魔憑きの名前がキーリであることと、二ヶ月ほど前からクォーツの街にいるらしい、という情報は先ほど聞いたばかりだが、もう少し詳しい内容がなければ探しようがないだろう。

 スゥはローブの下から小さなノートを取り出した。それから、「実は、一年くらい前から討伐要請は出ていたんですけど」と口籠る。


「どうも、各地を転々としている上に人の生活に紛れるのが上手いらしくって、動向を掴めずにいたんです。それが、ラズライトの街で傭兵として警備に当たっているところを発見して。その時に討伐できれば良かったんですが、発見した魔法使いがその翌日以降音信不通になってしまって……」


 ラズライトの街といえば、クォーツの街より西に向かったところにある街だ。海辺に程近く、水棲の魔物の襲撃を受けやすい。クォーツの街も同様だが、魔物の襲撃を受けやすい街は自警団の他に傭兵を雇い討伐隊を組むことが多かった。悪魔憑きとはいえ、魔法は使える。まさか魔法使いであると公言していたわけではないだろうが、魔法によってはそれと知られず強力な戦力になるものもあるだろう。


「その、発見した魔法使いは、じゃあ……」

「後日、管理局所属の別の魔法使いが探しに向かったところ、干からびた死体で見つかったそうです」


 スゥの言葉に沈黙が走る。


(これ、この子が担当するには重いんじゃないの……?)


 エリィは急に不安になった気持ちを誤魔化すように、スゥに続きを促した。


「具体的に、どういう魔法使いなのかわからないの? 登録はされてたんでしょ?」

「あ、はい。といっても、養成学校を出ている魔法使いなら、管理局所属にならなくても自動的に登録される、というだけなので、例えば習得した魔法の種類が増えていたりしたらわからないです」


 どうも、スゥは前置きが長い。焦ったくなって、エリィは温めおわったシチューを再び装ってスゥの前に置いた。


「分かってる範囲でも聞いておかなきゃ。傭兵を一人一人あたることは簡単かもしれないけど、ラズライトで魔法使いが殺されてるなら、こっちもそのつもりでかからなきゃダメでしょ」


 少しきつめに告げると、スゥはびくりと肩を震わせて、「そ、その通りです……」と小さな声で同意した。一応、自覚はあるらしい。


「キーリは、獣の魔法使い、です。どの程度獣化が進んでいるかは分かりません。ラズライトで死んだ魔法使いが干からびていたのは、キーリが代償のために吸血したためだろうと……」


 続いたスゥの言葉にエリィは難しい顔をして、「獣の魔法使いね」と頷いた。


「養成学校に在学中、得意だった魔法は?」

「炎魔法が得意だったようですけど、身体強化の魔法を覚えたがっていたと聞きました。在学中は、人の役に立つことをするのが夢、と話していたようで……」

「人の役に立つことをする、ねぇ」


 渋い顔をしたエリィを見て、スゥがますます体を小さくさせる。別段、スゥに怒っているわけではなかったが、それだけ気が小さいのだろう。


(本当に大丈夫かしら……)


 とにかく、とエリィはスプーンを持ち上げる。いい加減シチューを食べ切ってしまいたかったし、エリィは明日も仕事がある。そろそろ寝る準備をしたかった。


「獣の魔法使い、なら、その干からびて死んでた魔法使いみたいに、もっとそういう死体が出ててもおかしくないんだけど……」

「代償としては、生物の生き血を吸わなきゃいけない、ですから、死ぬまで吸い尽くす必要はないのかもしれないです。だからそんなに噂になっていないのかも……」


 どうかしらね、とエリィは考え込む。


「もし仮にそうだとしても、協力者がいない限り、他人から急に血を吸うなんてこと、簡単にはできないでしょ。そうなったら吸血鬼の噂が出るだろうし……でも、そういう噂も聞いたことがないのよね」


 エリィの言葉にスゥも気がついたように「そう言われてみればそうですね」と頷いた。


「協力者か……」


 考えて、何となく嫌な気持ちになってエリィは顰め面をした。残りのシチューをかきこみながら、「とにかく」と口を開く。


「今日はもう休んで、明日調査をしてみましょ。傭兵なら私、少し伝手があるから」


 スゥが少しだけ首を傾げる。「もう休むんですか?」と問われたので、エリィはジャガイモを噛み砕いて飲み込んだ。「私は記者志望だけど、」と頷く。


「今はしがない新聞配達人なの。それも、朝刊のね」


 朝刊、という言葉にスゥも理解したらしかった。なるほど、と頷いて、同じようにシチューを食べる。日の光がないならスゥも動きやすいだろうが、流石に連れ歩いて配達するわけにもいくまい。


「私は零時頃から動くけど、スゥは寝ててもいいわ。仕事が終わったらモリオン地区にあるクォーツ・タイムス本社に戻るのだけど、そこの一階のカフェテリアで待ち合わせをしましょ。大体四時半頃に終わるから……スゥ、あなた、四時半にカフェテリアまで来れる?」


 聞けば、スゥは小さく頷いた。


「私もエリィさんと同じように休みますから、大丈夫です。日が出ていない時間の方が私も嬉しいですし……」


 しっかりと返事をしたスゥに満足をして、エリィは空いた皿を回収した。大丈夫なら問題はない。


「オーケー。具体的な聞き込みとかは、明日から始めましょ」

「はい」


 スクープかもしれないなら、と張り切って協力を申し出たものの。神妙に頷くスゥをみれば、エリィは何となく不安にも感じられて、ため息を吐きそうなのをグッと堪えた。

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