満たされ缶


「おぉ、届いてる。満たされ缶」


 昨日、普段良く使う通販サイトで偶然出会ったコレ。いかにも胡散臭いが、ナーバスになる出来事があったので、正直なにかの助けになるとは思わないが、何と無く購入してみたのだ。

 そのくせ本当にあるのか疑わしくて、オプションでつけたお急ぎ便。仕事帰りの今日。玄関のポストにしっかりと届いていた。

 小さな段ボールから出てきたのは、簡素な包装にくるまれたピンク色の缶。パッケージラベルには、大手ディスカウントショップの手書きPOPのような文字で『満たされ缶』と印刷されている。


「使い方。缶を開けると、ガスが出ます。そのガスが、アナタに都合の良い幸福な幻想をもたらし、アナタを満たします……か」


 危ない違法のモノのような気もするが、そんなものおおっぴらに出品できないだろう。深く気にせず、明かりのついていない台所へ向かう。


「……美奈」


 美奈は三歳年下の幼馴染で、家が隣で母親同士が仲良く、美奈が生まれたときから家族ぐるみでの付き合いがある。大学こそ違うが、保育園から高校までずっと同じ所に通っていた。

 僕は美奈のことが小さな頃から好きだった。だが近すぎる距離故に、心の内を伝えられぬまま時間は流れ、美奈には恋人ができ、婚約した。

 そして結婚式を控え、幸福の絶頂にいた美奈は、二週間前に唐突に姿を消した。理由も行方も不明な失踪で、警察が捜索するも依然として発見されない。


 持ってきた缶切りで缶を開けると、勢い良くピンク色の粉塵が混ざったガスが噴出された。部屋にピンクと甘い匂いが充満する中、瞼を瞑り深呼吸を数回繰り返し、ゆっくりと瞳を開くと、目の前に美奈がいた。


「美、奈……」

「博己」


 あまりにリアルな幻覚。この部屋にはいないはずの美奈がいる。美奈の手にそっと触れると、なめらかな生身の肌の感触まである。


「触れる、のか」

「何言ってるの? 当たり前じゃない」


 おかしい博己。くすりと笑う彼女は、美奈そのものだった。


「美奈、」

「博己ってちょっと変よね、昔から」


 隣に腰掛けた彼女から、シャンプーの清潔な香りが漂う。ここまで再現されるなんて、この缶はとんでもない物じゃないのか。

 けれどあくまで幻覚、幻想。本物ではない。都合の良い夢なら、僕の心中を少しくらい溢したって、きっと肯定してくれるだろう。


「はは、そうかな……」

「そうよ。でも博己が考えてること、私わかるの」

「嘘だ。それが本当なら、美奈は僕と結婚するもんだとばかり考えてたの、わかってたろ」

「そうだと思ってた」

「……ずっと一緒にいたし」

「そうね、これからもずっと一緒にいると思ってたのに」

「美奈、好きだったんだ」

「知ってる。私も博己が好きだった」


 結婚前の美奈に、こんなことを言うなんて現実じゃとても許されない、。叶わない。まともに返答すら貰えないのがオチだ。

 不意に美奈がこちらへ向き直り、真剣な瞳を向ける。


「ねぇ、博己が私にしてくれたこと……凄く嬉しいのよ」

「本当に?」

「本当に」

「よかった。間違ってなかったんだね」


 後悔と背徳が混ざり合いさざ波となって、自身の身体に押し寄せる。それは僕の脳を掴んで離さない、言い逃れのできない満足感。

 だが、僕の手を握り返す美奈の手が薄れている。もうすぐ効果が切れる頃合いのようだ。


「もう二人に残ってる時間は短そうだ」

「そんなことない、大丈夫。博己は絶対に大丈夫だから安心して」


 欲しい言葉を全てあたえてくれる理想の美奈が消えてしまう。どんな美奈でも愛おしいが、優しく微笑む彼女がやはり一番だ。


「まだきっと、二人でいれるわ」


 気がつくと、僕は部屋の床で大の字に寝っ転がっていた。重い身体を起こし、少し粉っぽい頭を掻く。確かに心にまだ幸福の余韻が残っている。

 僕はもう一度満たされたくて、気怠さを追い払いスマートフォンを手繰り寄せる。通販サイトで満たされ缶を探すが、満たされ缶は忽然と姿を消していた。

 煙が漏れてしまったのか、隣の部屋でなにか喚いている。


「クソッ……なんで、なんで無いんだ!」


 砂漠に一滴落ちた水滴を貪欲に求める飢えた獣に成り下がってでも、もう一度あの理想の美奈に会いたかった。

 だが、その後いくら探しても満たされ缶が、僕の前に現れることは無かった。


 まだ見つからないでくれ、美奈。

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