第9話 女とのカラオケは、選曲に気兼ねする

 AKは手慣れた感じで受付を済ませると、俺に手招きをしながら、さっさとビルの奥にあるエレベーターに乗り込んだ。訳が分からず、言われるがままに俺もエレベーターに乗り、四階で降りて個室の一室へと入る。


「はい、一吾クン。そっちに座って、ギターケースはこっちに頂戴」


 個室に入ったAKは、ほっと一息つくと肩から下げていたバッグをソファの上に置き、手にしていた紙袋をガラステーブルの上に置いて、こちらに両手を差し出した。


「……なあ。何で俺達、カラオケボックスにいるんだ?」


 ギターケースを手渡しソファに座った俺が尋ねると、AKは微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべた。


「他の人の目についても問題が無かったのなら、別にここでなくても良かったんだけれどもね……はい、こっちにおでこを出して」


 そう言いながらAKがガラスケースの上の紙袋に手を伸ばし、その中から取り出したのは冷却ジェルシートだった。


 ガラステーブルを挟んで向かいに座るAKは、パッケージを開けて冷却ジェルシートを一枚手に取りフィルムを剥がすと、テーブル越しに両手を伸ばして俺の額にそっとシートを貼り付けた。


「……つっ!」


「もう、変な強がりもたいがいにしてよね。キミのおでこ、なんか青紫色になってきちゃってるよ?」


 呆れた様にため息をつくAKをよそ眼に、俺は額に貼られた冷却ジェルシートにそっと触れた。ひんやりとしたジェルの冷感が心地よかった。


 だが、わざわざ鏡を見なくても、自分が随分と間抜けな姿になっているのは分かった。確かに彼女の言う通り、こんな姿は人前にさらしたくない。


「とりあえず二時間で申し込みをしたから、このまま少し様子を見ましょう。ちょっとでも具合が悪くなったら、すぐに病院へ連れていくからね」


「大丈夫だって、心配性だなぁ……でもまあ、気ぃ使わせてわりぃな」


 俺が笑うと、AKは少し気まずそうに視線を外し、形の良い唇を軽く尖らせた。


「だって、このままキミを放っておいて、もしも後で何かあったら嫌だもの」


 そしてAKはガラステーブルの上に置かれたメニュー表を手に取り、俺に言った。


「ねえ、飲み物は何が良い? あと、お腹空いてる?」


「腹は減ってない。飲み物は、コーラがいいかな」


 俺がそう言うと、AKは出入り口の扉の脇の壁に据え付けられた受話器を手に取り、フロントに注文を入れてくれた。それから程なくして、店員がコーラとレモンスカッシュ、フライドポテトを運んできてくれた。


「食べるものが何もないってのも、ちょっと寂しかったから。良かったら一緒に食べて」


 そう言ったAKは皿の上からフライドポテトを二本ほど手に取り、もそもそと口元へと運んだ。お言葉に甘えて、俺も適当にフライドポテトを掴み、口の中に放り込む。


「それにしても、さ……キミ、さっきの喧嘩、怖くなかったの? 最後のあの男の人、ナイフとか持ち出してきたんだよ?」


 レモンスカッシュのグラスに刺さったストローから口を離したAKが、形の良い眉を軽くひそめて言った。俺は肩をすくめて答えた。


「全然怖くなかった、って言ったら嘘になるよなぁ。でも、ああいった場面でビビったツラを見せたら、相手はつけあがるだけだ」


「……」


「それに、俺が通ってた道場の先生ってのが、これまたすっげぇ強くて変な人でね。ガチの護身術として空手を教えているような道場だったから、時々ナイフだの何だのを相手にする組手もやらされていたんだ」


「……へ、へぇ」


 おいこら、そこ、露骨に引くな。


「あとはまあ、俺一人が絡まれただけだったら、さっさと逃げの一手を打つっていうのでも良かったんだけれど」


「そっ、か……それは、その、どうもありがとう。それと、ごめんね」


「別にアンタが謝るようなこっちゃねーよ……ってか、あいつら一体、アンタに何を言ってきたんだ?」


 俺が尋ねると、AKは露骨に渋面を作った。


「たぶんキミの想像の通りだよ……しつこくナンパされて、一緒にカラオケに行こうって付きまとわれて。あんまりにも気持ち悪かったからずっと無視してたら、途中からあの男の人がキレ出しちゃって」


「で、その結果俺とこうしてカラオケに来ているってのは、また随分と皮肉なもんだな」


 俺がそう言って笑うと、AKは少し困ったような顔で被りを振った。


「キミと一緒にカラオケに来るのは、全然嫌じゃないよ? まあ、まさかこんなことになっちゃって、それが理由で一緒にカラオケに来ることになるとは思ってもいなかったけれども」


「へえ、そりゃどうも」


 確かに、妙な成り行きの結果とはいえ、まさかAKと二人きりでカラオケボックスに入ることになるとは、俺も思ってもいなかった――これ、伊東達にバレたらまた面倒臭そうだなぁ。


「ところで、さ」


 AKが、何やら気恥ずかしそうに身をよじらせた。


「何だよ?」


「さっき絡まれていたのが私じゃなくても、一吾クン、その人を助けてくれた?」


 正直それは、思ってもいなかった質問だった。俺は腕組みをし、出来るだけしかつめらしい顔で答えた。


「女の人だったら、たぶん助ける。男は知らん、自分で何とかしろ」


「……へえ」


「……でも、男でも絡まれていたのがダチだったら、助けるしかないよなぁ」


 AKが、少し驚いたような表情でこちらを見つめてきた。俺はちょっとだけ気まずくなり、右手の人差し指で自分の鼻を掻いた。


「特に最近出来たダチで一人、まるで女みたいな奴がいてさ。あいつたぶん、喧嘩の一つもまともにしたことないんじゃねーかな?」


「……」


「ま、人間にゃ向き不向きってモンがあるから、な。腐れ縁だが一応ダチだし、俺の目が届く範囲内なら、あいつは俺が面倒を見るしかねぇのかも」


「ふうん、そうなんだ……って、せっかくカラオケボックスに来たんだからさ、何か歌おうよ」


 AKは何やら嬉しそうにそう言うと、キー入力用のリモコンを手に取って俺に差し出した。


「カラオケ、ねぇ……実は俺、あんまり得意じゃねぇんだよなぁ」


「えっ、そうなの? ちなみに、好きな曲のジャンルって何?」


 何やら目を輝かせてこちらを覗き込んでくるAKに、俺はぼそぼそと答える。


「えっ、何? 聞こえない」


「いや、その……アニソン、ってやつかな」


 俺の言葉にAKは一瞬目を丸くしたが、すぐにクスクスと笑い出した。


わりぃかよ、くそっ……だから言いたくなかったんだ」


 普通のポピュラーミュージックやアイドルの曲なんかは、ラブソングが比較的多くて甘ったるいので、どうにも苦手だった。その点、アニメの曲はラブソング以外の曲が結構多いので、結果的に耳にする機会が多かったってだけなんだが。


 俺のぼやきに、AKは軽く被りを振って言った。


「違う違う。アニソンが好きなのを恥ずかしがっているキミが、ちょっと可愛かっただけ」


「はあっ?」


「別にアニメの曲が好きだからって、何も変じゃないよ? それに、最近のアニソンって、大抵は有名どころのアーティストがカバーしているじゃない?」


 そう言うとAKは手慣れた手付きでリモコンを操作し、マイクを握る。程なくして選択した曲の演奏が始まった。それは少し前まで大ヒットしていたアニメの主題歌で、店舗で流れる有線放送でも何度も聞いたことのある、女性ボーカルの曲だった。


 さすがというべきか、俺にとってはキーが高くて難しいその曲を、一つもキーを外さず華麗に歌い切った。その姿にぼんやりと見とれていた俺に向かって、AKは軽くウインクして見せた。


「私の好きなアーティストの曲にも、アニソンって結構あるんだから。私達、案外共通の好みの曲があるのかも知れないよ」


「うーん……そ、そんなもんか?」


「ほら、一吾クンも何か曲のリクエストを入れてよ。私も知ってる曲だったら、一緒に歌ってあげるから」


 それから都合一時間半、俺はAKと一緒にカラオケを歌うことになった。俺は知っている限りの普通の邦楽を混ぜながら、出来るだけ無難そうな選曲でぼちぼちと歌っていたんだが、一方のAKはというと、アニソンに限らず邦楽、洋楽、果てはボーカロイドや演歌まで交えて、様々な声色で様々な歌を披露してくれた。


 途中、歌に盛り上がったAKが一時間の延長を希望したこともあって、結局は三時間、カラオケボックスで過ごすことになった。店を出てスマホの時計の表示を見ると、もうそろそろ午後十一時になろうかという時間になっていた。


「あー、久々にいっぱい歌ったなぁ」


 さも満足げに笑ったAKに、俺は言った。


「いやまあ、楽しんでくれたのは良かったんだけれども、よ……その、やっぱ俺にも、せめて半分ぐらいは支払いをさせろよ」


「だーめ。今夜のカラオケは、キミへのお礼とお詫びを兼ねていたんだから」


 そうなのである。店で会計を済ませる時、俺が差し出した金をAKは頑として受け取らなかったのだ。まあ大抵は、野郎が女の子とカラオケなんかに言ったら、支払いは全額野郎持ちってことになるんだろうけれども――。


「ところで、あの三人組、まさかまだその辺にいたりしないよね?」


 AKが少しだけ心配そうに首をすくめて、きょろきょろと辺りを見回した。さすがにこの時間帯になると、駅前を行き交う人影もあまり見られない。そして幸いなことに、この三時間ほどで俺の額の腫れも、結構マシな状態になっていた。冷却ジェルシート様々だな、これは。


「大丈夫だろ、たぶん。特にあの小デブちゃん、指だか手の甲だかの骨、イッてるはずだから」


「あのねぇ……そういうことをさらっと平気で言える辺り、男の子の感性って良く分かんないなぁ」


 AKはそう言って、ちょっと拗ねたような表情で軽く口を尖らせる。俺はAKに尋ねた。


「で、アンタ、家はどっちの方向だ?」


「えっ?」


「もうこんな時間だ。家まで送るよ」


 俺がそう言うと、AKは顔を真っ赤にして、胸の前で両のてのひらをぶんぶんと振った。


「えっ、いや……わっ、私は一人でも大丈夫だから」


「んなわけあるか。つい数時間前、変な野郎共に絡まれていたのは一体どこのどいつだよ」


「うっ……」


 だが、俺はそこでふと気が付いた。こんな深夜に若い女の子の家までついていくというのも、それはそれで問題があるんじゃなかろうか、と。


 俺は軽く辺りを見渡し、右手を挙げた。俺の合図に気付いたタクシーが一台、すぐに俺達の側へと車を寄せた。


「えっ、ちょっと、一吾クン?」


 戸惑うAKを横目に、俺は財布から五千円札を一枚抜き取り、タクシーの運転手に手渡して言った。


「すんません。この子、家まで送ってやってください」


「ちょっと、やめてよ一吾クン。そんなの悪いから」


「うるせぇ、さっさとクルマに乗れ。でもまあ、もしも金が足りなかったら、わりぃがその分だけ支払い頼むわ。あと念のため、しばらく路上ライブはやめておけよ」


 俺はAKからギターケースをひったくってクルマの後部座席に放り込み、一緒にAKも車内へと押し込んだ。


「運転手さん、ちょっとだけ待って下さい!」


 後部座席のドアが閉まる直前、AKがタクシーの運転手に言った。運転手はちらりとAKを見た後、再び後部座席のドアを開けた。


 AKはバッグの中から紙片とペンを取り出し、その紙片に何かを書きなぐると俺に向かって差し出した。


「これ、私の連絡先だから。またメールしてね、絶対だよ」


 AKがそう言ったのを合図に、タクシーの後部ドアが再び閉まり、AKを乗せたタクシーは深夜の闇の中へと消えていった。


 一人駅前に残された俺は、AKから手渡された紙片に目を向けた。そこに書かれていたのは、どうやらGmailのアドレスのようだった。


 少しの間、俺はどうしたものかと思案したが、やがてズボンのポケットからスマホを取り出し、メールアプリを起動させる。


がらじゃないんだけれどもなぁ」


 俺は紙片を見ながらメールアドレスをちまちまと打ち込み、メールタイトルは「無題」のまま、本文に「なかなか楽しかった、おやすみ」とだけ入力してメールを送信した。


 柄じゃないと言えば、タクシーの運転手に五千円札を渡したのも、今の俺にとっては正直ちょっと痛かった。でもまあ、ああいった場面であんまりシケた真似をするっていうのも、なぁ――今月は少し倹約しよう、うん。


 自分のアパートへと向かって歩き出し、しばらくするとズボンのポケットの中でメールの着信音が鳴った。俺は歩きながらごそごそとスマホを取り出し、画面をタップする。表示された着信メールの本文には、こう書かれていた。


〈今夜は色々とありがとう、私も楽しかったよ。また連絡するね、おやすみなさい〉

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