第137話.残された囁き


「俺のほうが、ほんのわずかに早かった。兄は、薬を口に含もうとして躊躇ったからだ。皇帝としての立場が、あの方を躊躇わせた」


 依依が煎じた薬を口にして、何かあったら。

 あるいは何かの間違いで依依から毒が移り、己まで毒に侵されてしまったら――そう考えたとき、飛傑は動けなくなったのだ。


 あの日、自分が知り得なかったすべてを知って、依依はぺこりと頭を下げた。


「将軍様、教えてくださってありがとうございます」


 無論、依依に飛傑を責めるつもりは毛頭ない。宇静も、そんなつもりで伝えたわけではないだろう。


(でも、頭に刻んでおくべきことだわ)


 飛傑は依依に、妃になってくれと言った。

 けれど彼は依依が命の瀬戸際に立ったとき、宇静の目から見て、明らかに迷った。それが、この国を背負って立つ飛傑の、皇帝としての覚悟なのだ。


 彼は何も間違っていない。

 だからこそ、どこまでもまっすぐで、どこか歪んだ生き方を理解できないなら――依依はこれから先、飛傑の隣にいることはできないだろう。


(もし、また同じことが起こったとして)


 そのとき、飛傑は依依を救わない。

 依依だけではなく、己以外の誰にも、手を差し伸べない。その事実をはき違えてはいけない。


 依依の頭の奥で、三年前の記憶が甦る。

 若晴は多くのことを依依に教えてくれた。教わることばかりの毎日だったけれど、あの言葉は、その中でも特に強く依依に響いている。


(護衛対象を、理解すること)


 若晴の教えは、今にも通じている。

 自分の心さえ不透明で困惑している依依だ。

 他人を完全に理解することは、それ以上に難しい。飛傑のように特殊な立場に置かれた人が相手では、余計にそうだろう。


「でも皇帝陛下はともかく、将軍様は私のことをなんとも思ってないのよね」


 依依が漏らしたのは、頭の中を整理するための独り言だった。


 飛傑には好意を抱かれている。求婚もされている。しかし宇静は、そうではない。

 いろいろと思わせぶりなことを飛傑に言われたせいで、依依は少なからず宇静のことを意識していたが、そちらについては単なる誤解だったのだろう。


 そう思い込もうとした依依の頬に、影が差す。

 気がつけば依依は、宇静によって寝台に押し倒されていた。


「言っただろう、楊依依。俺はほんのわずかに早かった、と」

「……はい?」

「兄の躊躇は一瞬だった。俺はその隙をついて、お前に口づける権利を奪い取ったといえる」


 まだ、依依は宇静の言葉の意味に追いついていない。

 しかし見下ろしてくる美丈夫の頬の色は赤い。見間違えようがないほどに、赤いのだった。


「それでようやく自覚した。俺はどうやら、お前のことが好きらしい」

「……将軍様が? 私のことを?」

「そうだ」

「私のことを?」

「だから、そうだと言っているだろう……」


 何度も確認されて、宇静は心底参ったようだった。

 落ち着きなくがしがしと頭をかき、視線を彷徨わせる。貫禄ある将軍とは遠く離れた振る舞いに、依依はぽかんとしてしまう。


「でも、あの、ど、どうして私を」

「自分でも正直よく分からん。女子に惚れたことなど、今までに一度もないしな」

「そうなんですか? 一度もないんですかっ?」


 ぎろり、と睨まれた。目元が赤く染まっているので、まったく迫力はないが。


「それにお前は破天荒すぎる。この香国を歩き回って探しても、お前のような女子は他に見つからないだろう」

「……悪かったですね」

「むくれるな。褒め言葉だ」


 これで女子を褒めていると思っているあたり、確かに宇静に恋愛経験はなさそうだなと、依依は失礼なことを思った。


「今後は正々堂々、だ。兄が相手でも、俺は逃げない。負けるつもりもない」


 だから、と宇静は続ける。

 依依の頬に触れて、こっそりと唇で耳朶をかすめて、耳元に囁きを残していく。


「次はお前が起きているときに、触れることにする」


 硬直する依依を置き去りにして、宇静は逃げるように部屋を出て行く。

 依依はしばらく呆然としていた。

 あのまま居座られても、倍以上に困っていただろうが、唐突にひとりにされても困る。


 まだ、触れられた感触が残っている気がする。それに囁きの名残が、耳の中で木霊しているような。


「っああ、もう!」


 依依は布団にうつ伏せになって転がり、力任せに足をじたばたさせた。


「なんなの、あの兄弟は!」


 二人して依依の頭の中身を、ぐちゃぐちゃにするのが目的なのだろうか。



 だとしたら、その目論見は成功しているといえる。それこそ、完璧なまでに。



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